夕方になって、母さんが帰宅しても、理緒は戻ってこなかった。
友達の家に遊びに行ったみたいだと嘘を吐いて、僕はわざと興味がなさそうに振る舞った。しかし、胸の内では、叫び出したくなるような激情と理性とが、辛うじて均衡を保っているような、そんな状態だった。
父さんが帰って来て、夕食の時間になってもまだ、理緒は帰らなかった。流石におかしいと思ったようで、両親は普段遊んでいる同級生の家に電話を掛けていったが、どの家からも理緒は遊びに来ていないと言われた。そして、とうとう夜八時を過ぎ、両親は不安に負けて、警察に連絡することに決めた。
「本当に、何も聞いてないのか?」
電話を掛ける直前、父さんは僕をそう問い質した。その口調が、どこか非難するようなものに聞こえて、僕は自分が、両親の本当の息子ではないのだと確信めいた思いに苛まれた。
自分は他人の子どもで。理緒こそが真実ただ一人の、真智田家の子ども。
理緒の方が、僕よりも大切な、家族なのに違いない。
結局、その日一日、理緒が帰って来ることはなかった。両親は一睡もせず、リビングで電話が鳴るのを待ち続けていた。僕も自室へ引っ込んだものの、親と同じく眠ることは出来ないまま、朝を迎えた。
「母さんはここにいてくれ。俺は、近所を探しに行く」
父さんは耐えきれず、そう言うなり外へ出ていった。母さんは青白い顔をしたまま、ソファに座って電話の方をぼうっと見つめていた。何か声を掛けたくなったが、僕には掛ける言葉が、どうしても見つからなくて。痛々しい母さんの後ろ姿を、じっと見つめているだけしか出来なかった。
何処に行ってしまったのだろう。十二歳の女の子が、行ける場所なんて限られているはずだ。ここからそう遠くはないどこか。知り合いの家に身を寄せていないのなら、理緒にとって何か、思い入れのある場所にいたりしないだろうか。
……思い当たる節は、一つしかなかった。
もう既に、父さんが見つけているかもしれない。だけど、僕にしか見つけられないかもしれない。……家族の問題ではあるけれど、これは僕と理緒の関係の問題なのだ。僕が、彼女を連れ帰るべきだろう。そうしなければ、いけないはずだ。
「ちょっと、僕も探してくるね」
母さんに声を掛けて、僕も家を出た。行先は、僕と理緒、二人の思い出が一番残る場所だ。
ショッピングモールの屋上に併設された、小規模な遊園地。幼い頃、月に一度は両親に連れていってもらって、二人して遅くまで、楽しく遊んで過ごしていたものだ。確か、不況の影響で閉園になってしまったはずだけど、屋上のスペースは何らかの形で解放されていたような気がする。
ショッピングモールには、当時は電車で出かけていたが、徒歩で行けない距離でもない。多分、二十分もあれば歩きでも辿り着けるだろう。財布も持たずに出てきたので、何にせよ歩いていくしかないのだが。
夏の暑さに、汗が滴る。理緒も、この暑さの中にいるのだろうか。早く、迎えに行かなければ。それが、兄である僕の責任だから。
理緒に告げられた事実は、絶望的なものだったけれど。知ってしまったことは、変えられないけれど。……それでも、知らないふりをして生きていくことは、多分可能だ。我慢すれば……きっと大丈夫だ。
だから、行かなくては。
目的のショッピングモールには、予想通り二十分ほどで到着した。つい一昔前は、かなり賑わいがあったこのモールも、周囲にコンビニやスーパーが増えたり、或いはネットショッピングが普及したりで、客数はかなり減少しているようだった。
「……ふう」
汗を拭い、息を整えて、僕はモール内に入る。中は流石に冷房が効いていたので、生き返るような気分になった。買い物目的の客が殆どだろうけれど、一割くらいは避暑目的で逃げ込んできた人もいそうだ。どうでもいいことだが。
エレベーターホールまで、案内表示を頼りに向かい、エレベータに乗り込む。ただ、これでは屋上まで直接は行けないので、最上階のボタンを押して、屋上の一つ前の階で下り、すぐ隣にある階段から屋上へ上がった。
「……っ」
太陽の陽射しに、一瞬だけ目が眩む。やがてその眩しさに慣れていくと、殺風景になってしまった屋上に、小さな人影を認めた。
間違いない。理緒だった。
「理緒」
他の人は誰もいない。ひょっとしたら、今は立ち入り禁止にでもなっているのを、理緒は勝手に上がってきたのかもしれない。
理緒は、背中を向けたまま、振り返ろうとはしない。僕の声は聞こえたはずだけれど、何も言わずにずっと、立ち尽くしていた。
「……理緒。父さんも母さんも、心配してる。……もう、帰ろう」
いつからここにいたのだろうか。昨日、家を飛び出してからすぐこの場所に来て……そのまま? だとしたら、彼女は半日以上も、ここにいたことになる……。
僕は、音を立てないよう慎重に、理緒の方へ近づいていく。拒絶され、逃げられてしまうかもしれないから、そのときは強引にでも、連れ帰らなくてはと思ったのだ。
「……昨日のことは、謝る。僕が、悪かったんだ。だから……帰ろうよ」
「……お兄ちゃん」
ようやく、理緒は振り返った。その顔には微笑が浮かんでいたけれど、それは翳りのある、暗い笑みで。こちらを見つめている目は、まるで黒々とした感情が渦巻くような、濁った目をしていた。
「私は、お兄ちゃんのことが好きなの」
「……」
わざとらしい、明るい声で理緒は言う。
「お兄ちゃんは……私の気持ちに、答えてくれる?」
「それは……」
風が、理緒の髪を弄ぶ。その隙間から、見え隠れする冷たい視線。
有無を言わせないような、そんな問いかけ。
でも……それだけは、頷くことは出来なかった。
理緒は、今までも、これからも。僕の妹なのだから。
「…………そう」
沈黙の末、彼女は僕からの返答を諦めて、くすくすと笑った。死んだ目のまま、口元だけを歪めて。
「……生まれてからずっと、お兄ちゃんの傍にいて。いつからか、こんな気持ちになって。妹だったから、一緒でいられたけれど、妹だから、一緒になれなくって。神様を恨んで、世界を恨んで。そしたら、お母さんたちの話が聞こえてきて。奇跡が起きたんだって思った。神様が、私を憐れんで、救ってくれたんだって思った。だから、思いを伝えた。でも……でも、やっぱり、終わりなんだね」
終わり。
瞬間、総毛立つのを感じた。
「理緒!」
僕は、理緒の元へ走った。しかし、彼女はもう、背中を手すりに預けていた。
「……あはは」
理緒はそのとき、狂ったように、嗤った。
「こんな世界――無くなっちゃえばいいんだ」
それを最期の言葉に、彼女は僕の手をすり抜けるように、屋上から身を躍らせて、真っ逆さまに、落下していった。
「ああ……ああぁ……」
その身体が、コンクリートにぶつかる高らかな音を聞きながら、僕は世界が壊れていくような錯覚に囚われ……そしてそのまま、意識を手放した。
二〇一〇年の七月三十日、それは、とても暑い夏の日の悲劇だった。
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