この満ち足りた匣庭の中で 一章―Demon of miniature garden― 【ゴーストサーガ】

匣庭は繰り返す。連続殺人ホラーミステリ、出題篇
至堂文斗
至堂文斗

方便

公開日時: 2020年10月27日(火) 22:37
文字数:3,610

 入口すぐの待合室には、蟹田さんがいた。他の患者さんの姿は見えない。彼は僕たちに気付くと、不安げな顔で訊ねてきた。


「……こんにちは。急患……かな?」


 その様子からして、早乙女さんが運ばれていくのを目にしたのだろう。毛布を掛けられていたから、察するものはあっただろうが、その一番悪い想像を信じたくない、といったところか。


「……詳しいことは、いずれ嫌でも耳に入ると思います。今は、すいません」


 双太さんは軽く頭を下げると、すぐに手術室の方へ歩いていった。少しだけ迷ったが、僕も蟹田さんに頭を下げ、双太さんの後をついていく。

 薬品の保管室やMRI室、更衣室を過ぎた、廊下の一番奥に手術室はあった。正確には、この扉の先にあるのは手術準備室で、更に奥の区画が手術室のようだ。定期健診でしか病院を利用しない僕にとっては、ここまで来るのは初めてだった。


「……ここから先は、玄人くんは入れない。ずっと一緒に来てくれて嬉しかったけれど、後は医師の仕事だ」

「……はい。分かってます」

「……いつまでも、悲しんでばかりはいられない。これが事件なら、ちゃんと優亜ちゃんの死に向き合って、調べなくちゃいけないんだ」


 自分に言い聞かせるように、双太さんは呟く。僕はそれに、黙ったまま頷いた。


「色んなものが欠け落ちていってしまっているけれど……世界が狂ってしまったみたいだけれど……早く、こんな日々が終わりになるように、しなくちゃね」

「あの……もし、何か分かったら。僕にも、教えてほしいです。全然力になんてなれないかもしれない。それでも……僕も、このままは嫌だから」

「……そうだね。今日の恩返しに、必ず。少しでも分かったことがあれば、伝えるよ」

「はい。ありがとうございます」


 本当に、僕が事件について調べることで、役立てることがあるのかは皆目分からないけれど。

 少なくとも、誰かの悲しむ顔はもう、見たくはないのだ。

 例え一パーセントでも、悲劇の連鎖を終わらせられる可能性があるなら。

 僕は進み続けたかった。

 双太さんは、手術室の扉に手を掛ける。ノブを回すと、ギイ、という軋みとともに、ゆっくりと扉が開いていく。


「じゃあ、これで――」


 言いかけた双太さんの声は、しかし中から聞こえてきた別の声に掻き消された。


「一体それはどういうことだね!」

「あの時点では必要ないと判断したまでです」

「確かに事故として処理する方向ではあったが、しかしだね……!」

「勿論、その判断を今は悔いていますよ」

「そう簡単に言われてもだな、久礼くん……」

「二人とも、どうされたんですか」


 双太さんが、牛牧さんと貴獅さんの間に割って入る。予想外の光景に、僕は帰る機会を失して、隅っこの方で隠れるように立っていることしか出来なかった。


「杜村くん……来たのか」

「何か、問題でもあったんですか」

「うむ……」


 ここからではほぼ見えないが、牛牧さんは横目に貴獅さんを見たようだった。


「……警察に連絡していないらしいのだ」

「な、何ですって?」

「永射さんの水死は、事故と判断した。だから、警察には連絡しなかったんだ」

「確かに、事故の可能性は高かったですけど、百パーセントそうとは言い切れないでしょう。それに、警察に連絡したと久礼さんが言っていたって聞きましたよ」

「方便だ。住民を安心させるために、そう思わせたに過ぎない。結果は変わらないのだし、警察などという部外者にやって来られるのが迷惑だったのだ。その辺りは、共感出来るだろう?」

「しかし、そんな……」


 貴獅さんの冷淡な言葉に、僕も衝撃を受けた。あのとき貴獅さんは、確かに警察を呼んだと口にしていたのだ。それが嘘だったなんて。あんなにもあっけらかんと、嘘を吐くことが出来るなんて……。


「死体を解剖した結果も、不審点はなかった。あの時点では、事件性を疑うようなものは出てこなかったのだ。それに、今回の事件と関連しているという証拠もない。幾分怪しくはなったが、依然として永射さんの水死は事故だったという可能性は高いのだ」

「それでも……不安に思う住民たちは多かった。警察は、呼ぶべきだったと思います」

「うむ……儂も杜村くんの意見に同意だ」

「ええ。ですから、そう判断したことを悔いています」


 あくまで落ち着いた調子で、貴獅さんは受け答えする。その声色に、僕は苛立ちを感じてしまう。


「では、すぐにでも警察を呼ぶつもりなのだね」

「……そのつもりではあるんですが」

「どうしたんだ、煮え切らない返事で」

「繋がらない、のですよ」

「……何?」


 呼べない。それを聞いた瞬間僕は、朝の一幕を思い出す。

 そうだ。今日になって、テレビが映らなくなったり、スマートフォンが圏外になったりしていた。

 あのときは、すぐに直るだろうと楽観視していたけれど……。


「朝から、通信障害が発生しているようで、外部と連絡がつかないのです」

「それは本当かね」

「牛牧さんは、携帯電話は持っていませんでしたか。テレビも映らなくなっているのですが、その様子では見ていないようですね」

「……そんなことが。原因は何なのだ」

「はっきりしたことは言えませんが、電波塔が影響しているかもしれません。早朝、稼働の確認テストをしたのですが、そのときから何らかの不具合が出ている可能性が、ないとは言い切れない」

「君が、稼働の確認を?」

「ええ。永射さんとはある程度情報の共有をしていましたので」

「……ふむ」


 電波塔の稼働がどのような操作手順なのかは不明だが、貴獅さんは生前の永射さんからその方法を聞いていた、ということらしい。まあ、誰か方法を知っている人がいなければ、予定通りに電波塔の稼働が行えないのだし、状況を考えれば当然のことか。

 しかしその場合、手順に何らかのミスがあったせいで、この電波障害が発生している可能性も浮上してくる。あくまでも貴獅さんは、その方面に関しては明るくなさそうだから。

 ……それにしても、だ。


「こんな事件が起きて、警察を呼べないとは……」

「すぐ確認して、異常があれば復旧に当たるつもりです。異常が発生していれば分かるとは思いますが、まあ、どうにか直せれば」

「非常事態だ。最優先でなくては困るぞ」


 牛牧さんは、貴獅さんを叱るような口調で言った。彼がそんな風に人を叱るのは、初めて見た気がする。だが、この状況では無理からぬことだ。


「分かっています。……それより今は、早乙女の遺体を調べなくてはいけない。そちらを済ませましょう」

「……そうだな。杜村くん、君は外してくれて構わないぞ。分かったことはすぐに伝えるつもりだ」

「ああ……いえ。僕も、立ち合います。いなきゃいけないと、思うんです。すいません」

「ふむ……そうしたいなら駄目だとは言わんが、辛くなったらいつでも出るのだよ」

「はい。ありがとうございます」


 双太さんはぎこちなく頭を下げる。心なしか、震えているようだ。それでも目だけは、見届けようという覚悟を秘めているように、僕には見えた。

 双太さんは最後に一瞬だけこちらを向いて、弱々しい笑みを浮かべる。そしてすぐ、扉は閉ざされた。

 後は、薄暗い廊下に僕だけがぽつんと、佇むだけ。今はもう、僕に出来ることは何もなさそうだった。

 この先で行われる解剖。その結果を待つことが、今の僕に出来る唯一のこと、だろうか。

 ――そう言えば。

 ふと、頭に浮かんだ疑惑。

 どうしてさっきの会話の中で、誰も指摘しなかったのだろうと思ってしまう。

 頭を悩ませることが多すぎて、浮かばなかったのかもしれない。

 もしくは、そちらはしていないわけがないと思っていたから、聞かなかったのかもしれない。

 しかし……。


「……また、聞いてみよう」


 話す機会はいくらでもあるはずだ。とりあえず、なるべく早く確認はしておきたい。

 土木業者がいつ来るのか。

 呼んでいないはずはないけれど、念のため、それだけは聞いておきたかった。


「……帰ろうか」


 少しだけ、心細くなって、そう独り言ちる。静かな廊下に、僕の声はやけに反響した気がした。





 夜になっても、テレビやスマホの通信障害は復旧されなかった。固定電話だけは、かなり音質は劣化しているものの、満生台の内部に限っては何とか通話できる状態だった。ただ、外部へ掛けようとしても、ノイズしか聞こえないので、やりとりはできそうもなかった。

 スマホが圏外なので、龍美がメッセージを見てくれたかどうかは、今も分からない。明日、学校に来てくれればそれでいいけれど、もしかしたらという思いが強まって来るのはどうしようもなかった。

 いつもの、元気な笑顔を見せてほしい。

 これ以上不安が増すのは、もうごめんだった。

 あれほど長い間、満生台に留まっていた雨雲は、少しずつ西へ流れ、隙間から僅かに星の輝きが見える。

 それと同じように、満生台に垂れ込める悪しき影もまた、少しずつ消えていってほしいと、そう思わずにはいられなかった。

 電気を消し、布団に潜る。

 ぐっすりと眠れる日も、きっとまだ遠いのだろう。

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