「入って来てはいけない。戻りなさい」
牛牧さんに続いて、僕の存在に気付いた貴獅さんがそう言うが、一度見てしまった光景を無かったことには出来るはずもない。彼の忠告はもう意味を成さなかった。
この世の物とは思えぬ、途轍もなく惨たらしい光景。
言葉に尽くし難いほどに、醜悪で、劣悪な、所業。
それが、目の前にあった。
早乙女優亜という、悲しき犠牲者の尊厳を踏みにじるようにして、そこにあった。
何故? 頭に浮かぶのは、ただただその疑問だけ。
こんな惨劇が起きた理由とは、一体どんなものだと言うんだ?
早乙女さんは……その死体は、腹部をばっくり切り裂かれている。服は着ているものの、それは皮膚ごとべろりと捲れ、血塗れの状態で垂れ下がっていた。ああ、よく見ればそれは血だけではない。赤黒い肉片や、白っぽい脂のような欠片も、べとりと付着していて。目撃者へ見せつけようとするかのように、乱暴に開かれた腹部の傷からは、彼女の中に詰まっていた臓腑が引き摺り出されて、床まで伸びていた。
こんなのは……冒涜だ。早乙女優亜という人間をこれ以上ないほどに冒涜する、悪魔じみた行いだ。
こんなことが出来るのは人間じゃない。
悪魔か……それか鬼くらいしか、こんな酷いことは出来やしない!
恐怖のあまり目を逸らすと、更なる恐怖があった。部屋の壁一面に、血が飛び散っているのが薄っすら見えたのだ。ただ遺体を損壊しただけでは、ここまで血は飛ばないだろう。これをやってのけた悪魔は恐らく、わざと壁面に血を飛ばしたのだ。
凄惨極まる光景……。
「優亜ちゃん……」
か細い声で、双太さんは名前を呼んでいる。もう二度と、届くことがない彼女に向かって、双太さんはそれでも呼んでいる。目を開けてくれるのを、願っているかのように。
涙が溢れて止まらなかった。
牛牧さんは、僕の身体を抱き留めたまま、部屋から離れる。僕は抵抗することも出来ず、牛牧さんとともに邸宅跡の外へ出ることになった。あのまま現場にいたとしても、僕が役に立つことは毛ほどもなかったのだから、それで構わなかった。
外の空気に触れて、ほんの少しだけ落ち着きが戻って来る。人だかりは、減るどころかさっきよりも増えているように見えた。
「……早乙女さん、だったんですよね」
「……そうだ。信じられんが……間違いない」
「こんなことを僕が聞くもんじゃないかもしれませんが……良ければ、経緯を教えてくれませんか」
「……まあ、いいだろう。混乱したままよりは、楽になるかもしれんしな」
牛牧さんは僕に座るよう促し、自身も隣に座り込むと、安心させるような、穏やかな口調で話してくれた。
「見つけたのは、久礼くんだ。早乙女くんが病院に出勤してこなかったから、心配になって探し回っていたようでね。まさかこんなところにはいないだろうと思いつつも、念のために入ってみると……ということらしい。それで、すぐに杜村くんと儂に連絡を入れてきたんだな」
「そうか……早乙女さん、朝からいなかったから、それで」
「うん?」
僕は、朝に貴獅さんから電話があって、早乙女さんと昨日どんな話をしたか訊ねられたことを説明する。
「ふむ。早乙女くんがいそうな場所の手がかりを探したかったんだろうな。真智田くんの受け答えが、役に立ったかは定かでないが」
「まあ……確認して、すぐに切られちゃったんで、僕にも分かりませんでしたね」
鍵と永射さんの家とは結び付かないし、それはまた別件だった可能性が濃厚ではあるけれど。
「双太さん……凄い、辛そうだった……」
「……早乙女くんとは、長い付き合いだからな、彼は」
「そうなんですね……その辺りは、詳しくなくて」
「幼馴染みたいなものらしい。儂もそんなに昔のことは、聞いていないがね」
二人は、そんな関係だったのか。確かに、気安い仲ではあるような、そんな雰囲気はあったけれど。
じゃあ、双太さんはそんな人を、あんなにも惨い奪われ方で……。
「誰が……あんなことを」
「分からん。だが……今度のことは、流石に事故で済ますことは出来ない。誰がどう見たとしても、あれは……人為的だ」
「殺された」
「……恐らくは、な」
恐らくは、などと牛牧さんは言うが、そうでない可能性があり得るだろうか?
腹を裂かれて臓物を引き摺り出された死体。そこには明確な、殺意がある。
「何で……早乙女さんが……」
答えなんて出せないのは分かっているのに、僕は言わないと気が済まなくて、牛牧さんを困らせてしまう。
「真智田くん……」
牛牧さんが僕の肩にそっと手を置いてくれようとする。
そのとき、邸宅跡から貴獅さんと双太さんが、出てきた。
「……もう、済んだかね」
「ええ、ここで出来ることはある程度済みました。後は、病院へ運んでから」
「そうか。じゃあ、行くかい」
「彼は、休ませます」
貴獅さんは、双太さんの方をちらりと見てから、牛牧さんに告げる。牛牧さんは無言で頷くと、再び早乙女さんの死体がある部屋へ向かっていった。
「……真智田くん、彼女がここへ来た理由に、何も心当たりはないか」
後をついていくものだと思っていた貴獅さんが、急にこちらへ来て、訊ねてきた。何というか、その口調はどこか詰問気味だったので、僕は少し怖くなって、
「そんなの、知りません。ここへ来た理由も、あんなことされた理由も……分かるわけないじゃないですか……!」
「……そうだな、すまない」
眼鏡をくいと押し上げると、貴獅さんはそのまま身を翻して、家の中へ入っていった。
……多分、貴獅さんもこの状況に動揺を隠せないのだろう。それは、理解している。仕方のないことだ。
二人はしばらくして、ストレッチャーに毛布で包んだ早乙女さんを乗せて出てくる。野次馬の人たちはそれが何なのかを察して、慌てて飛び退いた。人垣が割れる。
牛牧さんと貴獅さんは、その間を通っていこうと、ストレッチャーを動かし始めた。
――しかし。
たった一人だけ、その場に立ったまま、微動だにしない人物の姿があった。
それは、見間違うはずもない、着物姿の女性。
瓶井史さんだった。
「……瓶井さん」
牛牧さんは、驚いたような、困ったような顔になって、名前を呼ぶ。けれど彼女は、それに反応することなく、静かに二人の方へ歩み寄っていった。
「すぐに病院へ運ばなくてはならないんだ。退いてくれませんか」
貴獅さんが前へ出て、瓶井さんに向かってそう告げる。それでも彼女は口を閉ざしたままだ。
「……邪魔をしないでくれませんか!」
身振りを交えてそう訴える貴獅さんの横を、瓶井さんは、するりと横切った。よもや通り過ぎられるとは思っていなかったようで、貴獅さんは目を丸くして、彼女の方へ振り返った。
「何を……」
そして、瓶井さんは。
突然、毛布を剥ぎ取った。
「きゃああああっ!」
「うわあっ!」
野次馬たちの悲鳴が、次々と聞こえてくる。
無理もない。こんなにも残酷な装飾の施された死体を目にして、悲鳴を上げないでいられるわけがないのだ。
「何をするんだ!」
貴獅さんが吼え、力任せに瓶井さんから毛布を奪い取る。そして、それをすぐに早乙女さんの遺体にかけなおした。そのとき、反動で細かな肉片が飛散し、また悲鳴が上がる。
本当に、瓶井さんは何をしているんだ? 早乙女さんの死体を衆目に晒して、早乙女さんを貶めるような真似をして。彼女は一体どうしてしまったというんだ?
「瓶井さん……どうして」
牛牧さんの問いかけに、瓶井さんはようやく、ゆっくりと顔を上げて、牛牧さんに目を向けた。
「……また、起きたんですね」
「また……?」
「……鬼の祟りですよ」
鬼の、祟り。
まさか、そんな……。
「馬鹿げたことを言うのはもうよしてください。ありもしないことで、村の人が怯え始めているんですよ」
「いいえ。実際に起きているじゃありませんか。……これは、鬼の祟りに違いありません。でなければ、誰がこんなことを出来ると?」
「それは、いずれ分かることです。だが、決して鬼ではない」
「……理解したくないというのも、仕方のないことですがね」
「それはこちらの台詞だ」
険悪な睨み合いが続いたが、先に目を逸らしたのは、瓶井さんだった。彼女は細く溜息を吐くと、誰にともなく、呟いた。
「ああ、これは……餓鬼の祟り」
餓鬼。
人々に飢えをもたらした、三匹いる鬼の内の、一匹。
そうか……だから、なのか。
だから早乙女さんは。
腹を裂かれていたというのか。
「……失礼する」
貴獅さんと牛牧さんは、もう瓶井さんには構わず、ストレッチャーを押して、病院まで歩いていった。ガラガラという音は次第に遠ざかっていき、聞こえなくなる。
それを待っていたかのように、瓶井さんは人だかりの中央まで進み、そして、全員に聞こえるように、話し始めた。
「……皆さん、気をつけてください。かつて鬼は、この三鬼村に住む人間を苦しめました。狂気に陥れました。祟りはまだ、続くかもしれません。これ以上の犠牲が出ないよう、鬼への畏敬を忘れないことが大切なのです」
人々のどよめき。しかしそれは、瓶井さんの言葉を馬鹿にするようなものではない。むしろ、住民たちは未だかつてないほど真剣に聞き入っている。鬼に祟られたくないがために。
そうだ。瓶井さんは、彼らに恐怖を感じさせたくて、あんなことをしたのに違いない。鬼を信じない者は、同じような目にあうかもしれないのだと、早乙女さんの死体を見せることで知らしめたのだ。
確かに、この上なく効果的な方法だ。
でも、そればかりは……惨い。
「住みよい環境が出来ていくことも大事です。しかし、古くから伝わる伝承を忘れてしまっては、このように罰があたってしまうのです。……忘れないようにしてください。それが、満生台に住む我々の責任なのです」
瓶井さんはそう締めくくると、軽く一礼をして、そのまま静かに立ち去っていった。
後には、恐怖に慄く住民たちと、途方に暮れる僕と、そして魂の抜けたように蹲る、双太さんが残されたのだった。
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