飛ぼう、と思ったわけではない。
けれど、気が付けば僕は、この崖の上に立ち尽くしていた。
そして、もう見慣れた、街の風景に目を向けていた。
そう。僕はもう、飛ぼうとは思わない。
この風景の中に、僕はいられる。
この街で生きていられるのだから。
それはとても平凡で、けれど特別なものに違いなかった。
街外れの林道を上ったこの場所からは、街の姿を一望出来る。だから、僕はこの崖を気に入っている。
以前の僕ならば、もっと違う思いを抱いたであろう場所だけれど。もう二度と、その過去と同じ気持ちになることはない筈だ。
僕――真智田玄人は、澄んだ空気を目一杯吸い込んで、心地よい風を感じながら、もう一度眼下に広がる街の景色に目をやった。
街は、夕暮れの色に包まれて、静かにそこに佇んでいる。
先には、果てしなく続く海が広がっていて、それもまた茜色に染まっている。
この視界に全てが収まるだけの、小さな街。
だけど、とても美しく、過ごしやすく、温かな街。
それがここ――満生台だ。
この街には、一つの大きなコンセプトがある。
『満ち足りた暮らし』。それが、満生台の目指す街の形だ。
この街で暮らす人々が、量的にも質的にも満ち足りていると感じられる生活を。
そのコンセプトの下、満生台はここにある。
いや、できたという方が正しいか。
海沿いには、この街で一際大きな建物がある。白い外壁の、何の飾り気もないL字型の建物。その下は駐車場になっていて、今も疎らに軽自動車等が止まっている。
満生総合医療センター。人口三百人に満たないこの小さな街で、少々不釣り合いな程に大きなあの病院こそが、満生台誕生、というか復活の旗手なのだ。
信じられないが、ほんの十年ほど前までは、満生台は人口が三十人を切るまでに減少していたという。そこにやってきたのが、あの満生総合医療センターだ。
病院側が、この街の行政側と協力するような形で、『満ち足りた暮らし』の出来るニュータウン化を進めた結果、今の風景が出来上がっている。そういう訳なのだ。
あの医療センターがなければ、こんな整った街並みはなかった。
満生台に住む人間は、誰もがそう言うだろう。
僕でさえ、そう思っている。
新参者の、僕でさえ。
僕がこの街に来て、もう一年が経つ。
初めはどうなることかと不安で一杯だったけれど、今ではそんな自分がいたなんて嘘みたいだ。
あの頃の自分と今の自分は、言うなればもう別人だった。
だから、もう僕が飛ぶことはないんだ。
僕は……確かに今、満ち足りている。
「そろそろ……陽も暮れちゃうな」
根暗な性格だった頃の癖か、未だに独り言は直らない。でも、それを卑下することも今はない。
ありのままでいられるのが、満生台だから。
夕暮れの街並みをもう一度目に焼き付けてから、僕は崖を離れる。
そして、林道をゆっくりと下っていく。
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