風が強く吹けば、傘が持っていかれそうになる。それくらいの土砂降りではあるが、僕は何とか森へ向かって歩いていく。途中、誰にもすれ違うことはない。この雨の中、普通は誰も外出したりはしないはずなのだ。
だが、森の入り口に差し掛かったとき、判然としない視界の中で、僕はまたしても人影のようなものを捉えた。果たしてそれが本当に人だったのかは不明だが、ここまで来たら、引き返すという選択肢はなかった。
自分でも、何故だろう、と考えながら進み続ける。どこか熱病に浮かされているように、頭は殆ど空っぽのまま、ふらりふらりと。それはきっと、立て続けに起こった事件のせい。あの新月の夜から、少しずつ僕は、いや僕らは、正常な世界から足を踏み外していっていたのだろうか。
それなら、もしかすればここはもう、平穏が続く正しい世界ではないのかもしれなくて。
数限りない呪詛に満ちた、混沌の世界なのかもしれなくて。
「……何考えてるんだろ」
僕は、ネガティブになっていく考えを何とか打ち消して、あと少しだけ、と歩を進めていく。気付けばその先は、鬼封じの池がある道だった。
「……やっぱり見間違いだよなあ」
池まで行って、誰もいないのを確かめたら、大人しく帰ろう。僕はそう決めて、緩やかな坂道を慎重に歩き始めた。龍美にも心配されたが、僕の細い脚では下手をすれば転んで怪我をしてしまいかねない。歩けなくなるほどの怪我をしてしまったら一大事だ。
……そして、濃霧の中、鬼封じの池が少しずつその輪郭を浮かび上がらせる。些か場違いなほどに大きな、淀んだ池。降り注ぐ雨の中、再び対峙したこの場所は、三日前に来たときよりもその非現実感を強めていた。
大丈夫、怖くなんてない。そう心の中で呟きながら、僕は一歩、また一歩進む。前に出る毎に、霧の向こうの景色が浮かんでいく。
何もいたりしない。こんなところに、豪雨の中やって来る人間なんているはずがないんだ。
いるとすればそれは、きっと人間ではない。
人間では。
「……」
生唾を飲む音が、やけに大きく聞こえる。
雨の音が、少しずつ聞こえなくなっていく。
鼓動が、早鐘を打つ。
頭が、ズキズキと痛み始める。
何かが、見えた。
池の淵に、黒い塊。
一部分だけが覗き、あとは池の中に沈み込んで。
規則的に、ゆらゆらと揺らめいている。
周りに、千切れた枝葉が絡まり。
それは、最早一つの物であり。
目に映った瞬間に、全ては明らかであり。
明らかになった瞬間に、強い耳鳴りと、眩暈が襲った。
がさり、と音がする。
いつのまにか、傘を取り落としている。
雨が、体を嬲る。
風が、体を苛む。
足が震えだして、がくりと膝をつく。
歯の根が合わない。
体が、酷く冷たい。
「……あ、……」
掠れた音が、喉から漏れ出す。それは、他の誰でもない、自分自身の口から出たもので。
目の前にある光景もまた、他の誰でもなく、自分自身の目でハッキリと見た、現実だった。
「うわあああああああああぁぁッ!!」
池には、永射孝史郎の水死体が浮かんでいた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!