僕と双太さんは、ブザー音が耳に入った刹那、二人で顔を見合わせた後、診察室を飛び出した。
受付の女性が、奥にある機械の傍であたふたしており、気づいた双太さんが声を掛ける。
「どこの病室?」
「あの、……蟹田さんの」
「蟹田さん……三〇三号室だね!」
「は、はい!」
女性が見ていたのは、ブザーの発生源である病室が表示される機器だったようだ。目を凝らしてみると、なるほど幾つもあるパネルのうち、『303』と記された部分だけが、赤く点灯している。
僕たちが階段を駆け上がろうとするころには、ブザーの音は聞こえなくなった。多分、さっきの女性が消したのだろう。しかし、病院全体に響いていたようなのに、気になって出てくる患者の姿が殆どない。結構な人数の入院患者が、家族に引き取られていったのだろうか。
一段飛ばしで階段を上り三階へ。双太さんの後に続いて右に曲がり、ナース室を通り過ぎて三〇三号室の扉の前まで到着する。スライド式の扉は開ききっていて、人の出入りがあったことを示していた。
そして、その部屋の奥に。
「か……蟹田さん!?」
一見、普通に眠っているだけのようで、けれども、双太さんはすぐ異常に気付いて。
数秒遅れて、僕も何がおかしいのかが分かる。呼吸を補助する装置が、ベッドの傍に置かれてあるのに、その先端部分が蟹田さんの口元から外れて、落ちているのだ。だからブザーが鳴ったのだろう。
「だ、大丈夫だ、息はある……。でも、どうして外れてるんだ……!」
自然に外れてしまう可能性は、ゼロと言っても過言ではないはずだ。そんな装置は不良品だ。……とすれば、必然的にこれは、人為的なものということになってしまう。
でも、誰が?
「扉が、開いてた……」
ひょっとしたら、まだこんなことをした人物が、近くにいるかもしれない。僕は素早く廊下に顔を出し、人影がないかどうかを確認する。
「誰かいたかい!?」
「いや、誰も……」
言いかけて、気付く。階段の方に、一瞬だけ影が映ったように見えたことに。
「ひょっとしたら、上に行ったかもしれません!」
「きっと屋上だ!」
双太さんは、蟹田さんに応急処置を施すので身動きが取れそうにない。怖いけれど、ここは僕が行くしかなさそうだった。
これは、ただの悪戯では済まされないことだ。逃げた犯人は一体、誰だというのだろう。何故、突然こんなことをしでかしたのだろう。
階段を全速力で駆けあがる。僕の身体では、それでも遅いのだろうが、出来る限りの速さで足を動かし続ける。病院は四階建てなので、二階分上がれば屋上だ。
扉は、開け放たれていた。やはり誰かがここへ逃げ込んできたのは間違いない。わざわざ逃げ場のない場所へやってきたわけだ。流石に逃げ切れないと、諦めたのだろうか。
僕は恐る恐る、扉の向こうへ踏み出す。
一瞬、太陽の光に目が眩んだ。
外の明るさに目が慣れて、奥に立っている人物の、輪郭がはっきりとしてくる。
そのシルエットは、僕よりも、小さくて……。
「……そんな……」
そんなこと、考えもしていなかった。
どうして……どうして君なんだ?
「……理魚ちゃん」
「…………」
名前を呼ばれても、彼女は微動だにしなかった。ずっと俯き加減のままで、顔は髪に隠れて口元しか見えない。まるで、石像のように動きを止めたまま。理魚ちゃんは、こちらを向いて立ち尽くしているのだった。
「ねえ……君が、あれをやったの?」
問いかけながら、僕はじりじりと理魚ちゃんに近づいていく。彼女からは、何の反応もない。海からの風が、彼女の髪を嬲るだけだ。
「蟹田さんの病室で、器具を取り外したのは君なの?」
「…………」
半分ほど、理魚ちゃんとの距離が縮まる。それでも彼女は動こうとしない。近づいてからどうすればいいのか、僕も分からなくなってくる。とりあえず、捕まえた方がいいのだろうけど……。
「違ったら違うと言ってほしい。ねえ、理魚ちゃん。何か言ってよ」
「…………」
もうすぐ。もうあと何歩か進めば、理魚ちゃんを掴める距離になる。彼女は警戒する様子もなく、指一本すら動いていなかった。
――やるしかない。
「ごめん!」
謝りながら、僕は両手を突き出して理魚ちゃんの腕を掴み、身動きが取れないようにした。
その勢いで、彼女はぐらりとよろめいて、長い髪が揺れ、隠れていた顔が露わになる。
そして――
「……!?」
赤い目。
赤に染まった両目がまた、僕を……見つめていた。
「理魚……ちゃん……?」
彼女は、一体。
どうなって、いるんだ。
鬼の目。
まさか、そんなこと……。
動揺のせいで、一瞬だけ捕まえていた手が緩む。
それが、致命的だった。
「うッ」
理魚ちゃんの小さな両腕が、僕の手を振り払って、そのまま僕の胸を強く突いた。痛みはそんなになかったものの、二、三歩ほど後ろへ突き飛ばされてしまう。そして彼女もまた、反動で体制を崩して、後ろへよろめく。
「理魚、ちゃん……!」
彼女の頭が上へ傾ぐ。その両目はやはり赤く、何の感情も宿してはいなかった。まるで、赤眼の人形。それが人間らしく動いているだけのような、そんな感じで。
彼女は、ふらふらと後ろへ下がっていく。その動きが、スローモーションに見えた。
「あっ……」
危ない。そう思ったときには、もうどうしようもない距離が、僕らの間にはあった。
理魚ちゃんの背中が、柵に触れた。そのまま彼女は、上半身を仰け反らせて、ゆっくりと、柵の向こうへ、倒れていく。
走ることも。
手を伸ばすことも。
全てが手遅れで。
掛ける言葉も、彼女には届かなくて。
ただ、赤い両目でこちらを見つめながら、
理魚ちゃんは、柵の向こうへと、落ちていった。
ドサリ。鈍い音が、聞こえた。
確かめる勇気は、僕になかった。
「……あ……あぁ……」
――お兄ちゃん。
懐かしい声が、頭の中にわんわんと響き渡って。
僕の意識は、そこでプツリと、途絶えた。
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