この満ち足りた匣庭の中で 一章―Demon of miniature garden― 【ゴーストサーガ】

匣庭は繰り返す。連続殺人ホラーミステリ、出題篇
至堂文斗
至堂文斗

恐慌

公開日時: 2020年10月30日(金) 21:10
文字数:2,353

 僕と双太さんは、ブザー音が耳に入った刹那、二人で顔を見合わせた後、診察室を飛び出した。

 受付の女性が、奥にある機械の傍であたふたしており、気づいた双太さんが声を掛ける。


「どこの病室?」

「あの、……蟹田さんの」

「蟹田さん……三〇三号室だね!」

「は、はい!」


 女性が見ていたのは、ブザーの発生源である病室が表示される機器だったようだ。目を凝らしてみると、なるほど幾つもあるパネルのうち、『303』と記された部分だけが、赤く点灯している。

 僕たちが階段を駆け上がろうとするころには、ブザーの音は聞こえなくなった。多分、さっきの女性が消したのだろう。しかし、病院全体に響いていたようなのに、気になって出てくる患者の姿が殆どない。結構な人数の入院患者が、家族に引き取られていったのだろうか。

 一段飛ばしで階段を上り三階へ。双太さんの後に続いて右に曲がり、ナース室を通り過ぎて三〇三号室の扉の前まで到着する。スライド式の扉は開ききっていて、人の出入りがあったことを示していた。

 そして、その部屋の奥に。


「か……蟹田さん!?」


 一見、普通に眠っているだけのようで、けれども、双太さんはすぐ異常に気付いて。

 数秒遅れて、僕も何がおかしいのかが分かる。呼吸を補助する装置が、ベッドの傍に置かれてあるのに、その先端部分が蟹田さんの口元から外れて、落ちているのだ。だからブザーが鳴ったのだろう。


「だ、大丈夫だ、息はある……。でも、どうして外れてるんだ……!」


 自然に外れてしまう可能性は、ゼロと言っても過言ではないはずだ。そんな装置は不良品だ。……とすれば、必然的にこれは、人為的なものということになってしまう。

 でも、誰が?


「扉が、開いてた……」


 ひょっとしたら、まだこんなことをした人物が、近くにいるかもしれない。僕は素早く廊下に顔を出し、人影がないかどうかを確認する。


「誰かいたかい!?」

「いや、誰も……」


 言いかけて、気付く。階段の方に、一瞬だけ影が映ったように見えたことに。


「ひょっとしたら、上に行ったかもしれません!」

「きっと屋上だ!」


 双太さんは、蟹田さんに応急処置を施すので身動きが取れそうにない。怖いけれど、ここは僕が行くしかなさそうだった。

 これは、ただの悪戯では済まされないことだ。逃げた犯人は一体、誰だというのだろう。何故、突然こんなことをしでかしたのだろう。

 階段を全速力で駆けあがる。僕の身体では、それでも遅いのだろうが、出来る限りの速さで足を動かし続ける。病院は四階建てなので、二階分上がれば屋上だ。

 扉は、開け放たれていた。やはり誰かがここへ逃げ込んできたのは間違いない。わざわざ逃げ場のない場所へやってきたわけだ。流石に逃げ切れないと、諦めたのだろうか。

 僕は恐る恐る、扉の向こうへ踏み出す。

 一瞬、太陽の光に目が眩んだ。

 外の明るさに目が慣れて、奥に立っている人物の、輪郭がはっきりとしてくる。

 そのシルエットは、僕よりも、小さくて……。


「……そんな……」


 そんなこと、考えもしていなかった。

 どうして……どうして君なんだ?


「……理魚ちゃん」

「…………」


 名前を呼ばれても、彼女は微動だにしなかった。ずっと俯き加減のままで、顔は髪に隠れて口元しか見えない。まるで、石像のように動きを止めたまま。理魚ちゃんは、こちらを向いて立ち尽くしているのだった。


「ねえ……君が、あれをやったの?」


 問いかけながら、僕はじりじりと理魚ちゃんに近づいていく。彼女からは、何の反応もない。海からの風が、彼女の髪を嬲るだけだ。


「蟹田さんの病室で、器具を取り外したのは君なの?」

「…………」


 半分ほど、理魚ちゃんとの距離が縮まる。それでも彼女は動こうとしない。近づいてからどうすればいいのか、僕も分からなくなってくる。とりあえず、捕まえた方がいいのだろうけど……。


「違ったら違うと言ってほしい。ねえ、理魚ちゃん。何か言ってよ」

「…………」


 もうすぐ。もうあと何歩か進めば、理魚ちゃんを掴める距離になる。彼女は警戒する様子もなく、指一本すら動いていなかった。

 ――やるしかない。


「ごめん!」


 謝りながら、僕は両手を突き出して理魚ちゃんの腕を掴み、身動きが取れないようにした。

 その勢いで、彼女はぐらりとよろめいて、長い髪が揺れ、隠れていた顔が露わになる。

 そして――


「……!?」


 赤い目。

 赤に染まった両目がまた、僕を……見つめていた。


「理魚……ちゃん……?」


 彼女は、一体。

 どうなって、いるんだ。

 鬼の目。

 まさか、そんなこと……。

 動揺のせいで、一瞬だけ捕まえていた手が緩む。

 それが、致命的だった。


「うッ」


 理魚ちゃんの小さな両腕が、僕の手を振り払って、そのまま僕の胸を強く突いた。痛みはそんなになかったものの、二、三歩ほど後ろへ突き飛ばされてしまう。そして彼女もまた、反動で体制を崩して、後ろへよろめく。


「理魚、ちゃん……!」


 彼女の頭が上へ傾ぐ。その両目はやはり赤く、何の感情も宿してはいなかった。まるで、赤眼の人形。それが人間らしく動いているだけのような、そんな感じで。

 彼女は、ふらふらと後ろへ下がっていく。その動きが、スローモーションに見えた。


「あっ……」


 危ない。そう思ったときには、もうどうしようもない距離が、僕らの間にはあった。

 理魚ちゃんの背中が、柵に触れた。そのまま彼女は、上半身を仰け反らせて、ゆっくりと、柵の向こうへ、倒れていく。

 走ることも。

 手を伸ばすことも。

 全てが手遅れで。

 掛ける言葉も、彼女には届かなくて。

 ただ、赤い両目でこちらを見つめながら、

 理魚ちゃんは、柵の向こうへと、落ちていった。

 ドサリ。鈍い音が、聞こえた。

 確かめる勇気は、僕になかった。


「……あ……あぁ……」


 ――お兄ちゃん。


 懐かしい声が、頭の中にわんわんと響き渡って。

 僕の意識は、そこでプツリと、途絶えた。

 

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