ずぶ濡れの体で、僕は佐曽利さんの家の前まで辿り着き、扉を何度も叩いて彼の名前を呼んだ。佐曽利さんは、中で仕事をしていたのか、老眼鏡に黒い手袋をした状態で、家から出てきた。
虎牙の親戚。寡黙な職人の、佐曽利さん。今は彼が、とても頼りに思える。
「……真智田くんか。どうして、ここに……全身ずぶ濡れじゃないか」
「そ、……それが……」
ぬかるんだ道を、必死に戻ってきたので、息も絶え絶えだ。それに、まださっきの光景がフラッシュバックして、胸を締め付ける。下手をすれば心臓が止まってしまいそうなくらい、苦しい。
「永射さんが、池に、沈んでいるんです」
「……何?」
佐曽利さんは、僅かに片眉を動かすと、僕にはそれ以上質問せずに、固定電話の受話器を取って、どこかに電話を掛けた。
「牛牧か。……今、真智田くんが家に来たんだが。永射くんが、池に沈んでいると話している」
相手は病院長の牛牧さんらしい。簡潔に内容を伝えると、二、三度相槌を打ってから、
「こっちに来てくれ。……それは任せる、では」
そう言って、電話を終わらせた。
「……ありがとう、ございます」
「礼はいいが……少し待ってなさい」
佐曽利さんは、居間の方へ引っ込むと、大きなタオルを持ってきてくれた。僕は感謝して、そのタオルで体を拭く。下着までぐっしょり濡れてしまっているが、佐曽利さんの気遣いのおかげで幾分マシになった。
「……それで」
顔を拭っていると、佐曽利さんが小さな声で訊ねてくる。
「永射くんが、溺死していると。……池というのは、鬼封じの池かな」
「は、はい……池の淵に、腕だけが出ていて。黒い、スーツが見えて」
「……ふむ」
彼は、何秒かだけ考え込むように、顎に手を当てた後、
「……分かった。君は待っていなさい」
そう言い残し、玄関の傘を一本抜きとると、見た目によらず俊敏な動作で、外へ出ていってしまった。僕の話が本当かどうか、池を見に行くことにしたのだろう。待っていなさいとは言われたが、このままここにいていいのか。ただ時間が過ぎていくばかりなのがもどかしすぎる。
佐曽利さんは、牛牧さんとの電話の最後、こっちに来てくれ、と話していた。ということは、牛牧さんがここへ来るということなのか。せめて、それまでは待つべきなのかもしれない。
床が濡れないよう、靴下だけは脱いで、家の中をうろうろと歩き回る。居間の時計を見ようとして、その隣に賞状が飾られているのに気づいた。それはどうやら国家試験の合格証で、佐曽利さんのものらしい。
落ち着かないので、他にもあちこちうろついていると、玄関扉が叩かれた。慌てて玄関まで行き、扉を開けると、そこには牛牧さんと、久礼貴獅さんが立っていた。
「おや! 真智田くんじゃないか。佐曽利さんは」
「先に、池に向かいました。五分くらい前です」
「うむ、儂らも急いで向かわせてもらう。久礼くん、行くぞ」
「はい」
牛牧さんは、後ろの貴獅さんに声を掛けると、水たまりの出来た道を難なく走っていった。貴獅さんも、軽やかな身のこなしで、その後に続く。牛牧さんは確か六十を過ぎていたはずだし、貴獅さんだって四十代後半のはずだが、とてもそうは思えない動きだった。さっきの佐曽利さんだって、五十代後半という歳の動きではない。健康を重要視する満生台にいるからこそ、なのか。そんなことに感心していたって今は無意味だが。
僕もここで待っているだけは嫌だった。ショッキングな光景が待っているのは既に知っている。それでも僕は、発見者として、現場にいたかった。足はまだ、震えているけれど、僕は傘を一本拝借して、外へと飛び出した。
出来る限り急いで走っているつもりでも、牛牧さんと貴獅さんには追い付けない。しかし、スピードを落とさないよう必死で走った。転びそうになっても、何とか耐えた。
そして、何分も走り続けて、僕はまた、鬼封じの池に帰ってきた。おぞましい光景が横たわる、霧の世界の中に。
そこには、先に駆けつけていた三人が、池に沈んだ死体の傍に跪いていた。
「……調べるまでもないな」
「まずは、池から出してやりましょう」
貴獅さんと牛牧さんが二人がかりで、死体の腕を引っ張って、池から引き摺り出す。仰向けの状態で、ずるずると永射さんの全身が出てきた。
……これが、水死体。
「うっ……」
殆どは服のおかげで分からない。でも、所々から覗く肉の部分が、異様な膨張を起こしているのが見て取れた。これが、人間の皮膚だというのか? この、押せば崩れてしまいそうな、ぶよぶよとした、気味の悪い物質が、本当に?
押し寄せてくる吐き気を必死で堪える。涙が出てきて、堪らずしゃがみこんだ。
「しかし、何故彼はこんなところで……」
貴獅さんは、永射さんの死体を見下ろしながら、小さく呟く。
「死因は水死で恐らく間違いないが、どうも納得いかないな」
「ええ。昨夜から酷い雨だったのに、何故永射さんは……」
当然ながら、それが一番の謎だ。どうして永射さんはこんな場所で水死体になっているのか。雷雨は昨夜からだし、ちょうどそれは説明会が終わった後に降り始めた。永射さんはあのとき演説していたから、少なくとも永射さんは、雨の中この辺りまでやって来ていたということになる。
いや、自分の意思でやって来たかどうかまでは、分からないのか。
「外傷は……」
言いながら、唐突に貴獅さんは、死体をひっくり返した。目を覆おうとしたが、間に合わずに、一瞬だけ、その死に顔が、飛び込んできて。
「っげえ……ッ」
我慢の限界に達して、胃の中の物が逆流してきた。
喉が、熱い。
「おい、真智田くん……大丈夫か」
「……来ていたのか」
牛牧さんが、僕のところへ駆け寄って来る。貴獅さんは、心配半分、迷惑半分といった感じでこちらを見つめていた。……まあ、貴獅さんの反応は当然だろう。ここに、子供がいていいとは僕自身も思えない。
それでも、今起きているこれが何なのか、僕は確かめたかったのだ。
「……頭部に裂傷がある。腕や他の部位にも、裂傷や打撲痕。これは……流されてきたか」
ひっくり返した死体の頭を覗いていた貴獅さんが、眉間に皺を寄せながら言った。そのまま池の向こうに目を向ける。霧のせいで見えないが、向こうには渓流があったはずだ。山の上部から、水は流れていて、それがここに溜まっているのだ。
「つまり、永射くんは上流で溺れ、水の流れでここまで運ばれてきたと、そういうことだね?」
「考えられるのは。ただ、いずれにせよ何故溺れたかは不明ですが」
溺れた場所は分かっても、その理由が分からなければ意味がない。肝心なのは、どうして永射さんが死ななくてはならなかったのか、ということだ。
死体はスーツを着ている。それは、昨夜の説明会で着ていたものと同じものだ。ということは、永射さんは説明会の後、帰宅していないのではないだろうか。それまでの間に、何かがあって、その結果永射さんは、溺死体となってここに漂うことになってしまった……。
その何かとは、一体全体、何なのだろう。
「説明会の後、特に仕事は入っていませんでしたよね?」
「ああ、そう聞いている。本当なら、真っ直ぐ帰っているはずだがな」
「ふむ」
牛牧さんや貴獅さんといった、病院で働いている人たちは、永射さんから業務予定をある程度聞いているそうだ。満生台の主軸が病院だから、という理由らしい。逆に、病院側も、永射さんにある程度のスケジュールを話すこともあるようで、何というか、この街だからこその関係だな、と僕は思っている。
「……それにしても」
と、貴獅さんは急にこちらを向く。
「君はどうして、ここに」
聞かれるだろうな、とは思っていた。しかし、いざその時になると、答えに窮する。
「……信じてもらえるかは分かりませんけど、この雨の中、人影を見た気がしたんです。……この前、今日みたいに雨が降っているときに、森の入り口辺りでクラスメイトの女の子が傘も差さずに立っていたことがあって。気になったんですよ」
「……河野理魚という子か?」
貴獅さんが、すぐにその名前を出したので、一瞬だけ驚いたが、何のことはない。彼女も貴獅さんの患者の一人なのだ。
「はい。また、出歩いているのかな、と心配になったので……」
「あの子は喉の病気で声を出すのが難しいのだが、それ以外に精神的な病気も患っているんだ。親御さんが面倒を見ているとは言え、油断するとふらふらと出歩いてしまうのかもしれないな」
「そう、だったんですか」
彼女の病気については、今まで詳しく聞いたことがなかった。暗い子だな、とは感じていたが、そもそも喋るのが難しいのか。その上、精神的な疾患まであるとなると、ああいう雰囲気なのは当然なのだろう。
あの日、雨の中彷徨っていたのは、病気ゆえのこと。
……でも、そうだとしてもあの目は……。
「……なんと」
突然、後ろから女性の声がした。驚いて振り返ると、そこには瓶井さんの姿があった。この強風の中、唐傘を差している。彼女は、横たわる死体を見て僅かに目を見開き、驚いた表情になったが、すぐに元の落ち着いた顔に戻って、静かにこちらへ近づいてきた。
「牛牧さん。これは、一体」
やはり、この中では一番親しい間側なのか、瓶井さんはまず、牛牧さんに声を掛けた。牛牧さんは、しばらく迷ってから、
「我々にも分かりません。ただ、はっきりしていることは、永射くんが昨夜、何らかの理由で溺れ、死亡したということ……」
「……やはり、この方は永射さんなんですね」
「ええ、こんな姿にはなっていますが」
よく、溺死体を直視して冷静でいられるな、と僕は感嘆する。僕が今、永射さんのぐちゃぐちゃになった顔を見たとしたら、絶対に耐えられない。想像しただけでも、吐き気がする……。
「お二方が走っていくのが、家の窓から見えましたもので。病院に連絡を入れると、早乙女さんが、永射さんが見つかったので二人は現場に向かった、と教えてくれました」
それで、ここまでやってきたわけか。そう言えば、瓶井さんの家も森に近い、大きな木造の一軒家だった。彼女はここの大地主であり、山も含めた大部分の土地は、今も彼女のものだったりするので、森の近くに大きな家を構えているのは自然なことだろう。
「現場と言われてもしやと思い……悪い予想は当たるものですね」
「永射さんは、説明会の際と同じ服装です。確か、貴女は毎回、永射さんと口論になっていましたが……何か、心当たりはありませんか」
「口論と言うほどのことではありませんよ。物事の良し悪しを見極めるために、必要な議論をしていただけなんですから」
そこまで言って、瓶井さんは一度口を閉ざし、そして、
「……ただ、思い当たることがあるとすれば、それは」
「それは?」
「……鬼の祟りでしょう」
――鬼の、祟り。
「……何を言うかと思えば、またそれですか」
貴獅さんは、呆れたように首を振る。
「祟りで人が死んでいれば、今頃この村の人間は皆、死んでいるのでは?」
「では、久礼さんも電波塔のことは、祟られてもおかしくないことだとお思いで?」
「それは、揚げ足取りじゃありませんかね」
「これは失礼」
どうも、瓶井さんの方が口は上手いようで、貴獅さんは苦り切った表情で、小さく舌打ちをした。
「ですが……鬼は、確かにこの村を見ています」
「見ている、ね……」
「そして、永射さんは最初の犠牲に選ばれたのですよ……だから、水死体なんです」
「だから……?」
貴獅さんは怪訝そうな顔をする。しかし、その後ろにいた牛牧さん、そして佐曽利さんの二人はどうやら、瓶井さんが放った言葉の意味を、僅かなりとも理解したようだった。
「これは……水鬼の祟り」
「すい、き……?」
水の、鬼。
やはりそれが、三匹いる鬼の、一匹。
水鬼の、祟り……。
「さっき、久礼さんは私の言葉をまるで冗談のようにおっしゃいましたね」
「は?」
「ですが、貴方がおっしゃったことは、間違いではありませんよ」
瓶井さんは、冷やかに微笑して。
「三匹の鬼が現れたときには……赤い満月が昇り、全てが狂ってしまうのですから」
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