——— ◯ Tina
それから数日経ったが、学校から不審者の報告があるわけでもなく、黒いコートの男を見ることはなかった。
「光谷ー」
クラスメイトの智奈を呼ぶ声。教室がざわめく。
智奈は顔を上げた。
クラスの扉には、霧亜が顔を出していた。智奈と目が合うと、帰るぞと手招きしてくる。
智奈は絢香を見ると、絢香も慌てて帰る支度をしている。
荷物を持って席から立ち上がると、数人からバイバイの声が上がった。智奈も、手を振る。しかし、いつもより女子のバイバイの声が多い。無情だ。
「霧亜が来るなんて珍しいね」
ランドセルを背負い、教室を出る。
霧亜の周りには、小さな人だかりができている。そろそろ、彼の顔に飽きてもいい頃だとは思うが。いつもは智奈と絢香が六年生の階に霧亜を迎えに行くか下駄箱で待っているので、五年生の階に霧亜が来ることは珍しいのだ。
霧亜と共に人だかりをなんとか抜け、下駄箱へと歩き出した。
「絢香今日は予定何もない?」
突然、霧亜が絢香に訊いた。
「今日? 何もないよ」
「じゃ、皆で遊びに行こうぜ」
「え、行くー!」
絢香の元気な返事。
霧亜はにやっと笑みを見せた。
下駄箱で靴を上履きからスニーカーに履き替え、学校の正門を出る。
「お、やっと来た」
門を出てすぐの生垣の下から、声がした。門の脇のコンクリートに座り込み、下校する生徒たちにそこを遠回りで避けられている、二人の男子。もたれかかり合いながら、親しげに話す宮田と栗木が、そこにいた。
絢香と智奈の姿を見ると、宮田が声をあげて笑った。
「可愛いー、この子たちめっちゃ怖い顔してる」
「そりゃ、こんな危ない面子が門の脇に待ってたら怖かろうよ」
霧亜もにやにやとしながら智奈の頭にぽんぽんと手を置く。
智奈は霧亜の手を振り払った。
「どういうこと?」
宮田は爽やかに、にこやかに言葉を口にした。
「かわい子ちゃんたち、俺たちと遊ぼうよ」
「あ!」
絢香が、声をあげた。
「あたし、今日塾があるんだった! あたし、塾の先生ラブだから行かなきゃ!」
突然、通っているはずのない塾の話をでっち上げると、絢香は智奈を置いて走って帰ってしまった。
「あーあ、絢香ちゃん帰っちゃった。壮介、絢香ちゃんに嫌われてるもんなあ」
宮田は、小さく絢香の走っていった方に手を振りながら、非難の目を栗木に向ける。
そんな言葉を栗木に言って、殴られるのではとひやひやしたが、栗木は、申し訳なさそうに唸るだけだった。
智奈の中に、栗木に対しての違和感がぽつりと生まれた瞬間だった。
「え、何、絢香と友達だった?」
霧亜が、走り去る絢香と栗木を交互に見る。
「んー、家族ぐるみの付き合いが昔はありました。っていう感じかな」
へらへらと笑う宮田だったが、どこか寂しげに見えた。
悪い噂の絶えない栗木、霧亜と仲が良い宮田、そして兄に連れてこられたのは、駄菓子屋だった。
栗木と一緒にいて何か事件が起こっても、霧亜がいるから何とかなるだろうとは思って、この三人についてはきたものの、自分は今何をしているんだろう、ふと我に返って疑問に思う。
店に入ると、お店の気難しそうな老婦人がいらっしゃいと声をかけてくる。
「こんなところに駄菓子屋あったんだ」
「智奈ちゃん知らなかった?」
宮田はにこにこと笑っている。
「うん」
「はー、可愛いなあ」
目尻の下がる宮田に、栗木以上に恐怖を覚えた智奈は、宮田から離れてアイスが冷やされている背の低い冷凍庫の方へ移動する。
霧亜は、お湯を入れるインスタント系の駄菓子から、口の中がもさもさに侵食される菓子、グミなど大量に自分のカゴに放り込んでいく。
「ママ、お菓子いくらまで?」
霧亜がすでにカゴ二つを持って聞いてくる。
「五百円」
明らかに、霧亜のカゴの中は五百円は越しているように見える。
「そこをなんとか」
「七百」
「もう少し」
「そんな買うの?」
予想以上の高額な駄菓子商品に智奈は口が閉まらなくなる。
「男子の食欲舐めんな」
「そんな食うの霧亜だけだよ」
宮田が面白そうにけらけらと笑う。
智奈の隣に、栗木が立った。真剣に、アイスを悩んでいる様子だ。学校から駄菓子屋に来るまで、そしてこの駄菓子屋での会話を見ている限り、栗木に全く怖い印象はなかった。むしろ、霧亜と宮田の方がうるさい。
興味本位で、智奈は栗木に近付いてみた。
「アイス、今暑いから食べたくなるよね」
栗木の隣に立つと、栗木はビクッと跳ねてから少し智奈から離れた。警戒されて、離れられる寂しさを覚える。
アイスのボックスを見やすいようにと空けてくれたのだと頭で理解したのと、智奈と栗木の手が二人で分ける用のアイスを取ろうとしたのはちょうど同じタイミングだった。
「あ」
「お前もこれにするのか?」
「うん」
「半分こするか?」
「うん」
智奈と栗木のなんともぎこちない会話が繰り広げられている後ろでは、霧亜と宮田がきのこか、たけのこかと論争を繰り広げていた。
駄菓子屋を後にした男子たちについていくと、男子たちが辿り着いたのは学校と家の間にある公園だった。このご時世にしては遊具もまだ豊富で、滑り台や鉄棒、ブランコや登りやすい木々も多い。
この辺りでは一番遊具がある割に、人が集まらない公園だった。子供五人ほどが優に登れる山型の遊具の上で、四人で円になって駄菓子パーティが繰り広げられた。
もう小さな子供が遊んでいることはなく、少し陽が傾きだした時間帯のため、まだ大人もおらず、智奈たちが公園を独占していた。
こんなたくさんのお菓子を広げたこともなければ、遊具を独占したことも、子供だけでこの時間まで遊んだことも智奈にはなかった。背徳的で、智奈の心は躍った。
栗木が、買ったアイスを半分に割り、片方の棒を渡してくる。
「ん」
「ありがとう」
それを見た宮田は、驚嘆の声をあげた。
「いつそんな羨ましい約束してたの」
じゃあ、と宮田は食べかけのゼリーチューブを渡してきた。
「智奈ちゃん、あげる」
「絶対いらない!」
「却下」
霧亜は宮田の差し出した手を叩いた。
「女子が絡むとこんな面倒なやつなんだって今日勉強になった」
「可愛い女子にだけね。俺も智奈ちゃんと半分こしたいー」
栗木に目を向けると、栗木はくくっと笑い、宮田に自分の最後の一口を差し出した。
「ほら」
「いらないよ、お前の食べかけなんか!」
と智奈に向き直ると、あーんと口を開けた。
「智奈ちゃん、そのアイス一口」
智奈が首を横に振る。
霧亜は宮田の口にスナック菓子を詰め込んだ。
「却下」
宮田の文句がスナック菓子の向こう側からもごもごと聞こえる。
「ひなひゃん」
宮田に呼ばれ、智奈は宮田に顔を向ける。
宮田は口の中にあるスナックを全て飲み込む。
「俺のこと、康太って名前で呼んで欲しいな」
智奈は真向かいに座る宮田の顔をじっと見つめる。そして智奈の隣にいる栗木にも顔を向ける。
「……わかった」
宮田―――康太は、満面の笑みを浮かべた。
「おい」
栗木に声をかけられて智奈は自分の手元を見ると、アイスが溶けて垂れそうになっていた。このままじゃ服につく。慌ててアイスを持つ手を上げたが遅かった。
水色の水滴がアイスから離れる。キャッチしたのは栗木の手のひらだった。栗木はそれをぺろりと舐める。
「あり、がと」
「ん」
それを見逃さなかった康太は、栗木の手を舐めようとする。
霧亜と栗木のリアルな悲鳴を聞きながら、智奈は心の底から笑った。
こんなに笑ったのは久しぶりだった。
その頃には、辺りはだいぶ暗くなってきていた。まだ真っ暗ではないが、もう夕陽は姿を消している。
足音があり、智奈は公園の入り口に目を向けた。立っていたのは、絢香だった。
「あれ、絢香」
智奈は公園の入口にいる絢香に気付き、ひらひらと手を振る。
「絢香ちゃん、塾終わったの? 一緒にお菓子食べよ」
康太の誘いは、絢香には届いていないようだった。
絢香はじぶんの足元を見つめていたが、キッとこちらを見上げてきた。今にも泣きそうで、目の周りを赤くした顔。
「壮介だって、あたしと同じなのに」
ぼそりと絢香が言った。
智奈は目をこすった。
絢香の周りだけ、暗く見えた。赤黒いい靄が、絢香の周りを渦巻いているように見える。
「壮介は危ないんだよ」
絢香が呟く。
霧亜が立ち上がり、じりっとその場から少し後ずさる。絢香の異常な靄が見えているかのような警戒の仕方だった。
「やばい……」
霧亜はぼそりと呟いた。
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