——— ◯ Tina
突然、キッチンから水の流れる音が聞こえてくる。振り返ると、シンクの蛇口から水が大量に流れ出ていた。智奈は慌てて水を止めにいく。
台所に入って、足を止めた。
床に、複雑な魔方陣がテーブル一つ分くらい大きく、薄く光っている。
その上に、胎児のように足を丸めれば、中に人が一人入れるくらいの水が宙に浮いていた。その場だけ無重力になったように浮いている。それが、人を形作っていく。
段々と、無重力の水は霧亜を作り上げていった。透明な霧亜に、絵具を垂らしたように色が付いてくる。
水から作り上げられた霧亜は笑った。
「魔術ってのは、こんな感じ」
智奈は今まで座っていたソファを振り返る。そこに霧亜はいない。驚きで何も言えなかった。
「体術ってのは、こっちの武術のスタイルに似たようなものだけど、そもそもの身体能力に天地の差があるな」
パンチの真似事をする霧亜は、いつの間にか、ソファーに戻っている。
再び智奈はキッチンに目をやるが、光る魔法陣も、浮いていた水も、何もない。まるで幻だったように。
「バベルの人間は、火、水、土、木、金の性質を持ってるんだ。それを修行して高めると、魔術や体術を使えるようになる」
智奈の耳に、霧亜の言葉は届いていない。
無重力の水に、映画のCGでしかできなさそうな水の中への移動。そして瞬間移動。テレビの中でもない、目の前で起こった、信じ難いマジック。
「あのさ、突っ込んだ質問していいか?」
ソファに座った霧亜は、まだキッチンに突っ立っている智奈に向かって言った。
「何?」
まだ、霧亜に背を向けたままぼんやりとした気持ちで答える。
「お前、両親はどうした? 昨日もいなかったけど、二人とも仕事してんのか?」
まだ、霧亜の魔術というものに驚いて頭が麻痺していたのか。それとも本当の兄だという人からの質問に素直に答えようと思ったのか。
今までに何度も訊かれた事のある質問に、初めて別の答えを口にした。
海外に仕事に行ってしまっている、と答えなかった。
家から居なくなった事。今は全く会っていない事。周りの人には一切話していない事。
口にしたら止まらなくなり、いつの間にかぼろぼろと涙を流しながら。両親が居なくなった時の感情を、思いつくもの全てを吐きだした。
ソファーで、霧亜は口を挟まずに静かに聞いている。
やっと話す事がなくなり、鼻をすすって手の甲で最後の涙を拭いた。頭の中も、吐きだしたからか、思いの他すっきりしていた。
そうして、霧亜の質問に不自然な点を発見する。
“お前の”って、どういう事?
「霧亜は、向こうの世界で一人だったの? お母さんもお父さんも、こっちにいたんだもん」
顔を上げて霧亜を見る。
その質問を待っていたかのように真剣な面持ちで見つめ返される。
「オレは、小さい頃は孤児院にいた」
「あ……」
独りだったのだ。一週間やそこらの間ではなく、ずっと。親を知らずに、育ったのかもしれない。きっとそうだ。妹である智奈には、両親がいたのだから。
「それじゃあ、お父さんとお母さんは霧亜のところに行ったの?」
霧亜は首を横に振り、居心地悪そうにソファに座りなおす。
「オレが独りだったのは、お前の所に両親がいたからじゃない」
智奈は直感で、霧亜の話の続きを聞きたくないと感じた。聞いてしまったら、何かが壊れるような気がして。
「お前を育ててくれたのは、オレ達の両親じゃない。オレ達の本当の親父は家を出て行った。母さんはその後に病気で死んでる。オレ達に、両親はいないんだ」
衝撃な真実なほど、頭に入ってくるのは遅くて速い。
「じゃあ、あたしの知ってる父さんと母さんはなんであたしを育ててくれたの? あたしは、そのバベルってとこの人間なんでしょ? だったらなんであたしはこっちの世界にいるの?」
霧亜は、答えを準備していたかのように淡々と答えた。
「本当の親父が家を出て行ったとき、お前も一緒に連れて行ったんだよ。お前がまだまだ小さい時」
「なに、それ。なんであたしが」
「知るかよ」
突然、突っ撥ねられるような返しに、智奈は自分が興奮していたことに気付く。そして、霧亜の顔に怒りの色が浮かんでいることにも気付いた。
「お前まで一人だったなんてな」
悔しげな、辛いものから目を背けるような表情。まるで、智奈に本気で同情するような、智奈の親に怒りをぶつけるような物言いだった。
「親父が、なんでお前を連れ去ったのか、姿をくらましたのか、オレもさっぱりわかんねえんだ。オレも、お前の事は色々調べてるうちにわかった。でも、なんとなく覚えてたんだ。お前が連れ去られる時の記憶」
霧亜の言葉に、智奈ははっと、よく見る夢を思い出した。
すすり泣く女性。それを守る小さく勇敢な白い髪の少年。小さな少女を抱えて家を出て行く男の姿。
でも、あの小さな少年が、目の前の気の抜けたような瞳の男の子と同一人物とは思えなかった。髪も目も色が違う。
「霧亜、本当にここに住むの?」
「住む」
躊躇ない答え。
「ってか、腹減った」
「本当に、出ていく気はないんだね」
「兄妹が一緒の家に住んではいけないなんて法律はどこにもない」
「昨日まで赤の他人だった、不法侵入してる人は、もう少し遠慮をするという道理はあると思います」
「道理なんて言葉、よく知ってるな。偉いぞ」
智奈はため息をついた。
「何食べたい?」
「一番、食べれそうなもの」
「料理下手だと思ってる?」
「お、ってことは上手いのか?」
霧亜はにやりと笑った。
「その辺の新婚さんよりは上手いと思うよ」
台所に向かい、冷蔵庫を確認しながら言う。
霧亜は、何故か智奈を憐れんだような目で見てくる。
「なんかお前、小学生の割に達観しちゃってるな。可哀想に」
「何で可哀想なの」
霧亜はどっこらせ、とソファにもたれた。
「オレ、家でインスタントラーメン系しか食べてなかった」
「孤児院で出なかったの?」
「あー、いや、学校通うようになってからは里親に引き取られたんだけど、そいつ全然料理できないし、家にもいなかったからさ」
「そっか……」
じゃあ、美味しい手料理を作ってあげよう。智奈は冷蔵庫の中身を見て、今日の晩御飯のメニューを組み立てると、フライパンを取りだした。
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