——— 〇 Tina
「おお、おお、本当ですか」
おじさんは再び霧亜の手を、今度はがっしりと両手で掴む。
「なんなんだよ」
今度も振りほどこうと霧亜は手を振るが、さすがに両手で掴まれていると簡単には振りほどけなかったようだ。
一瞬、おじさんの目が霧亜を睨みつけたように見えた。
嫌な感じが智奈を襲う。それが、殺気というものだったのかもしれない、と思う頃には霧亜も能利も動いていた。
霧亜はおじさんの足を掬うと、能利がおじさんの背中を蹴りあげる。周りの建物の屋根ほど持ち上がったおじさんを、飛び上がった霧亜と能利が手足を使って地面に叩きつけた。
ドゴン! と地面を抉る音がする。
土埃に、智奈とナゴは咳き込んだ。
「旦那たち、短気っす」
動く霧亜から逃れたアズが、智奈の肩に止まった。
「ほんとよ、あの気張りバカ」
いつの間にか、アズの背中には蜘蛛のクズネまでくっついている。
ひっと智奈が小さく悲鳴をあげると、クズネはこちらをギロリと八つの目で智奈を睨んだ。
「智奈怖がらせたらまた火吹くわよ、節足動物」
ナゴの威嚇に、クズネはふんと鼻を鳴らす。
「メスの喧嘩は可愛らしいっすね」
アズはかっかと笑った。
一方、二人に押さえつけられたおじさんは、大きな笑い声をあげていた。
「素晴らしいですじゃ。こみえの子供に出会えるなんて、なんてありがたい日か。生きていて良かった」
霧亜と能利に地面に叩きつけられても、どこにも怪我をしなかったおじさんの名は芙炸といった。
「このままあんたらが街歩いてたら、わしより変なやつに絡まれますぞ」
と言って、半ば強制的に智奈一行はとある店に連れてこられた。
芙炸はメネソンの街の外れで居酒屋を経営しているらしい。その店の名は『サバノ亭』といった。
「居酒屋はマズイわよ、居酒屋は」
能利のマントのフードで揺られるクズネが、こそこそと智奈に伝えてくる。
何故かは、能利もクズネも教えてくれなかった。
案内された店の中の空気は、正直言って最悪だった。照明は裸電球やランタンの明かりのみ。暗い上に、タバコなのか煙で視界が悪い。
小さめの店でカウンターは五席。テーブル席は二つほどしかない。酒の臭いがたちこめ、五十代ほどの酔っ払いが四人用のテーブル席を陣取って酒を豪快にラッパ飲みしている。それ以外に客はいなかった。
「ちょっと青少年の教育に悪すぎやしないか、ここ」
霧亜が、店の扉を開けた瞬間に呟く。
「何でついてきた。明らかに怪しかっただろ」
小声で、能利が霧亜にかみついた。
「いやでも、悪いやつじゃなさそうだったし。ラオ待てるとこ探したかったし」
もごもごと霧亜は言い淀む。
能利はそんな霧亜の姿にため息をついた。
「さあさあ、こちらへ。おいお前! そろそろツケ払って出ていきやがれ」
芙炸は店内へ智奈たちを促すと、テーブルで酒を飲む男の頭をパシリと叩いた。
「うるせえなあ」
酒をラッパ飲みしていた汚らしい男が、ゲップをしながら言い放つ。もう数時間は飲んでいる様子だ。テーブルの上に酒らしき瓶が三本ほど乗っている。
ふと、男は扉の前に立ち尽くすこちらに気が付いた。先程の嫌な空気、殺気を感じる。
「いつから、ここは魔術師の出入りするクソ溜まりになったんだ?」
「魔力見える系おじさんか」
霧亜が言う。
「しかも、魔術師を嫌悪してるタイプの体術師だな」
能利も同じトーンで言う。
「魔力見えるんなら綺麗な着物女性にしてくれよ、頼むから」
「キモノ?」
能利は首を傾げた。
「お前、アヒロでもアジアって地域の勉強しとけ。後で民族衣装の良さを語ってやる」
着物と言われると、壮介の母、爽子さんを思い出す。
「何を言うか! 彼の髪色を見てみろ! 選ばれし体術師の一族、こみえ一族だぞ」
芙炸が声を荒らげる。
「何言ってんだ、魔術師だよなあ?」
酔っ払いはよろよろと立ち上がり、ふらつきながら近づいてきた。
智奈は、霧亜と能利の二つの壁に隠れる。
霧亜は鼻で息をつくと、頭をかいた。
「やめた方がいいと思うぜ、オレは」
「魔術師はお呼びじゃねえ!」
智奈の瞬きの一瞬で男の姿は消えた。
バッドを振り抜いた時のような、空を切る音が聞こえる。
キラリと光る物に目を向け、智奈が後ろを振り返ると、そこには、いつの間にか店の外に移動している霧亜と、男が智奈の身長ほどある肉切り包丁を持って霧亜に切りかかっている姿。霧亜は地面に倒れ、首寸前の所で男の肉切り包丁を掴んで防御している。その顔は、つまらなそうに男の顔を見据えている。
「わしの包丁!」
芙炸が声を上げた。キッチンから盗まれた包丁のようだ。
霧亜と組み合う男は眉を顰める。
「よく反応できたな魔術師が」
「能利ー、水取って」
テレビのリモコン取って、と言う時と同じ脱力した声。
能利は、カウンターに置かれていたコップを手に取ると、霧亜に向かって放り投げた。
コップから溢れ出る水が、肉切り包丁で切りかかる男の後ろに到達すると、瞬く間に水の量は膨れ上がり、水から透明な霧亜が出来上がる。水からできた霧亜は、回し蹴りで男の頭を振り抜き、男の気を逸らすとすぐに消えた。
地面に水たまりが出来上がる。
蹴り付けられ、肉切り包丁から男の力が抜けた瞬間、まだ男の下にいる霧亜は包丁から抜け出して、男に打撃と足蹴の流れるような連撃を加える。
智奈の見たことがある動き。ガンで、汗だくになって功路に習った体術、隼波水の動きだ。
突然の連撃に、男は霧亜から引き下がった。
「お前、混血か」
霧亜はとんとんとステップを踏むとにやりと笑みを浮かべて首を回した。
「ご名答」
男は大声で笑った。
「力を抜いてない混血は初めてお目にかかる。さっさと見廻に出頭しろ。どっちの力を抜きたいんだ、お前は」
霧亜は男に向かって駆けだし、姿が見えなくなったかと思うと、男の後ろ首に向かって足を回していた。打撲音が弾け飛び、男の太い首に霧亜の右足が回っている。が、男はピクリとも動かずにやにやとした笑顔を絶やさない。
再び霧亜が動き出し、殴る蹴る跳ぶ捻るを繰り返す。
「体術師に弟子入りでもしたか? 前と動きが全然違う」
能利が、智奈に聞いて来た。
「あたしの父さんに、教わってた」
「それ、あのガンで体術教わってた時だよな?」
その時から見られていたのか。智奈は驚きつつも頷くと、能利はため息混じりの唸り声をあげた。
「あの短時間である程度の隼波水を習得するのか。天才ってのは本当だな」
と、能利は智奈の言葉に違和感を持ったのか、智奈の顔を覗き込んでくる。
「お前ら、兄妹だよな。父親は、あの人じゃないのか」
あの人とは、霈念のことだろう。智奈は能利に、アヒロから来たこと、育ての父親と母親が見廻の体術師だったことを、かくかくしかじか話した。
兄が戦闘をしている後ろでなんとも呑気だ、と智奈は、改めて戦闘に対して慣れてしまった自分を哀れむ。
「そうか、大変だったんだな」
能利は智奈の頭にぽんぽん、と手を置いた。
なんだか、突然お兄ちゃんが二人に増えたようで、智奈は口角が上がるのを抑えられなかった。
水風船の割れるような音がした。視線を我が兄様に戻す。
霧亜が、地面にあった水を利用して、顔面ほどの大きさの水の塊を、男の顔に押し当てていた。男は驚きの顔を霧亜に向ける。その隙を見せた一瞬だった。
男はすぐさま回転して霧亜の水を吹き飛ばすが、男の回転終わりの背後に回り込み、右手にあった包丁をたたき落として落ち際をキャッチする。男の首をつかんで地面に張り倒し、男の手足の上に自ら重しとなって身動きをとれなくさせ、男の耳すれすれの地面に包丁を垂直に突き立てた。
「っしゃ、魔術抑え目、体術メインで勝った。功路師匠に感謝だな」
霧亜は歯を見せて笑った。
身動きを取ろうと男はもぞもぞと動くが、本当に動けないようだった。唸りながら霧亜を睨みつけている。
「おい、誰か見廻笛を吹け! こいつは混血だ! 政府に突き出せ、今すぐに!」
霧亜に動きを封じられる男は叫んだ。
店の周りには、数人が歩きながらこちらを見てひそひそと話し、数人が立ち止まって霧亜と男の戦闘を野次馬のように見ていた。
男の声を聞きつけた瞬間、ひそひそと話す声が大きくなる。
甲高い笛の音が鳴る。
何故か、その音色を聞いて思い出すのは、アヒロで壮介や康太と遊んだ公園だ。笛を使った遊びをした覚えはないが。
芙炸が、静かに霧亜に近付いた。
「今、見廻の笛を吹きました。こいつはわしがなんとかしますから、どうぞ見廻が来る前に中へ。女房が案内しますぞ」
言われるがままに、男の睨みを背中に感じながら、智奈たちはサバノ亭の中へと入った。
中には、さっきまではいなかった、芙炸と同じような体型の、割烹料理店の女将のようなおばさんが立っていた。
「まあ、本当に白銀だわ。さあどうぞこちらへ」
芙炸の妻であり、この居酒屋『サバノ亭』の女将、曄は智奈たちを奥へと案内した。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!