——— ◯ Tina
霧亜との間に沈黙が続いた。
自分が今まで生きてきた世界と、違う世界に来てしまったこと。自分はこの世界では、疎まれる存在であり、正体を隠さなければいけない存在であること。
現実味はなく、映画や、夢でも見ているかのような気分だった。
「霧亜に、誕生日プレゼントあげたかったのに」
智奈は唐突に思い出し、口から言葉がぽつりと出た。
「誕生日プレゼント?」
「もうすぐなんでしょ? 壮介と、買いに行く約束してたの。康太くんは、また違うプレゼント用意するからって言ってた」
壮介の名前を口にすると、向こうの世界を思い出してしまって、また涙腺が緩んでくる。
「あー、買い物ってそういう……康太の野郎」
「また、会えるかな」
壮介があの後大丈夫だったのかどうか気になる。智奈が八木組のバンに押し込められていた時、必死に抵抗して手を伸ばしてくれていた。あれが最後の別れにしたくはない。
「来年、帰りたかったら帰ろう」
さっきから、霧亜は足の上で丸くなる黒猫にしか目を落としていない。
あんなに身を呈してまで守ってもらったのに、こんなに小さくなってしまっているのが申し訳なく感じる。
智奈は霧亜の足の上にいる黒猫を抱き上げた。
霧亜の目が黒猫を追い、やっと智奈と目が合う。左右に、深く青い瞳が揺れるが、智奈がじっと見つめてくるのに負け、見つめ返してきた。
「なんだよ」
「さっきは、助けてくれてありがとうございました」
智奈は頭を下げる。
霧亜はいや別に、としどろもどろとまた視線が逸れる。
また黒猫を持ち上げてゆらゆらと揺らすと、智奈の意図がわかったようで、霧亜は渋々目をまた合わせてきた。
「この猫ちゃんが喋るのにもびっくりしてるし、魔法みたいなことが目の前でいっぱい起こって怖かったけど、ちょっとワクワクもしてるの。だから、この世界の色々見てみたい。色んなところ行ってみたい」
霧亜の目は、驚きと動揺で揺れた。目を瞬いてから、小さく息を吐き、横を向いて安堵の笑みを見せた。
「あんた、向こうの世界で育ったって聞いてたけどこっちの言葉喋れるのね」
黒猫が、持ち上げられながら首を智奈の方へ向けてきた。
霧亜は大きな目を更に目を大きく見開いた。目玉が落ちてしまうんじゃないかというくらい目いっぱいに青い目が開眼されている。
「自然すぎて気付かなかった」
「なんか、理解できてるのにびっくりしてる」
実際、この言語を聞いたことは智奈の記憶では無い。だが、何故か聞き馴染みはあるような気もする。
「サダンが上手くやってくれたのか」
霧亜はため息をついた。
「あたしの名前はナゴ!」
智奈の足の上にいる黒猫が、智奈に顔を近づけて言った。
「あたしは弥那に仕えてた獣化動物よ。あたし智奈と契約結びたい」
キラキラとした黄色い綺麗なガラス玉のような瞳が、まっすぐ智奈を見つめてくる。
「え、お前オレとの契約切るつもりかよ」
「だってあんた校長に卒業祝いでアズもらってたじゃない。智奈が心細いでしょ。あたしの方がお姉さんなんだから」
得意げにひげをヒクヒクさせ、ナゴは智奈の頰に頭をすり寄せてきた。
猫にここまで近付かれたことがない智奈は、反応が出来ずに固まってしまう。念願の猫が、目の前にいて、懐いてくれていて、しかも言葉もしゃべれて会話ができる。
「わーかったよ」
霧亜は立ち上がると、母親の写真のあった本棚に近付き、一冊の分厚い本を取り出した。開くと、あるページを癇癪をおこした子供のように破り捨て、本をこちらに持ってくる。出された本のページには、契約書とあった。これも、知らない言語だが、読める。
「はいここ、契約すんなら手置いて」
霧亜は契約書の文字がつらつらと書かれた下の余白を指さした。
まるで建物の借用書にサインを求めるヤクザのようだ。
「契約したら、どうなるの」
「心配しないで」
ナゴがテーブルの上に飛び乗り、そこを踏み台に智奈の肩に飛び乗ってきた。首周りにマフラーのように巻き付き、小さな手で契約書を指し示す。
「これはあたしたち獣化動物の契約書よ。これで契約すれば、あたしは智奈が呼べばどんなとこにいても駆けつけられるようになる。あたしたちを獣化させられるのも契約者だけよ」
「じゅうか?」
「アヒロで、でっかいカラスに乗っただろ。ナゴも、あんな感じででっかくなるんだ」
霧亜とナゴに促され、智奈はあれよあれよと契約を決められる。
「その空白に手の平置いて」
霧亜に言われ、智奈は契約書の大きな署名部分に、手を置いた。ナゴはその隣に可愛らしい前足を置く。
すると、智奈とナゴの手の下から毛細血管のように赤いインクが流れ出し、空白の多かった契約書を埋め尽くす。毛細血管の先が紙から浮き上がり、先端の尖った触手が、智奈とナゴの手に向かって襲いかかってきた。針山に手を置いてしまった時のような、ちくちくとした痛みが手の甲に突き刺さる。
智奈は驚きと痛みで契約書から手を離そうとした。
「離すなよ」
後ろから霧亜が智奈の腕を掴んで離さない。
「———暁乃智奈の名のもとに契約を申し出る。
———猫又ヴェダラナゴ、互いを分かて、主死する時仕も死せよ、さすればこの命汝に与えん———」
後ろから聞こえる淡々とした霧亜の声が終わると、刺さっていた赤い触手が肩まで勢いよく登ってきた。もがこうにも、霧亜が押さえ込んでいて逃げられない。
唸り声が聞こえる。テーブルの上にいるナゴの毛が逆立ち、牙が剥き出しになっていた。見境なしに大きな爪を奮ってきそうな迫力がある。可愛らしかった黒猫からは大きくかけ離れた化け猫へと変貌していた。
腕から入り込んだ赤い触手は体中を駆け巡り、胸に収束した。
霧亜からの拘束が解け、智奈はその場にへたりこんだ。自分の身に起こったことが信じられずに、息があがる。
「びっくりした? ごめんね、でもありがとう智奈」
ナゴがテーブルを降り、智奈の腕に擦り寄ってきた。
もう、あの襲いかかってきそうな化け猫ではない、さっきまでの黒猫に戻っている。気持ちのいい毛並みで、智奈の心は多少落ち着いた。
「これからは、何かあったらあたしに任せなさいね。ポンコツ霧亜なんかより、なんでも教えてあげるから」
まだ触手に襲われた衝撃から帰って来れない智奈は、こくこくとうなずくことしかできなかった。
「智奈、腹減らない?」
突然の霧亜の提案に、まさか、と言おうと思ったが、案外智奈の胃の中は空っぽらしい。
昼頃に美味しい料理を栗木家で食べさせてもらって、夕方暗くなる頃に壮介の家をお暇したのだ。向こうの世界なら、夜ご飯の時間だ。
「空いた」
「じゃあ、オレの友達んとこ行ってご飯にしましょ」
霧亜は歯を見せてにやっと笑った。
「せっかくだしナゴに乗ってってみろ」
霧亜に言われ、ナゴはやったあと窓から外へと飛び出した。
「てかその前に着替えよう。オレも血だらけだし。ちょっと待ってて」
霧亜は両の手を握って拳を目の高さにまで上げ、右手を平行に右に動かした。右手と左手の間には、細い木の棒が握られている。
その木は、先端が細く、逆は太く丸くなっていて、丸い木の部分には六芒星が彫り込まれ、内側から彫り込みが光っているようだった。長さは、霧亜の身長ほどはある。まるでアニメやゲームの中で仙人やおじいさんの魔法使いが持っていそうな杖だ。
「ゲームのキャラみたい」
「杖じゃないと、大きな魔術は使えないんだ。熟練した魔術師は、杖を使わないででかい魔術が使える。オレもなるべく、杖使わないように練習してんだけどな。ぶっちゃけ使う方が早いし楽」
言いながら、部屋の端の床に、杖の細い方を立てた。杖は、物理的に有り得ない状態で自立している。自立する杖に手をかざし、霧亜はじっと杖を見据えた。
ぼんやりと周りが光りだし、かすかな風を感じたと思うと、杖の先から、光る魔法陣が壁面に現れる。霧亜はその魔法陣に腕を突っ込むと、腕が壁を突き抜ける。何かをぐいと引き出した。
それは、霧亜の身体では、到底持ち上げられる大きさではない、智奈の部屋にあったクローゼットだった。
どすん、と音を立て、クローゼットはリビングの隅に置かれた。
「後で、部屋に入れてやるから。いつか、帰ってくることになった時のために、用意してたんだ」
霧亜はコツンとクローゼットの端に貼りついている紙切れを叩いた。そこにも、小さな魔法陣が描かれている。一瞬しか見ていないが、先程杖から現れた魔法陣と似ていた。
中には、元の世界で使っていた智奈の洋服が入っている。
「ベッドとかも、向こうから取って、空いてる部屋に入れとくから」
「ありがとう」
「こんな感じで、人も簡単に行き来できればいいのにな」
霧亜は、悔しそうにぽつりと呟いた。
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