——— ◯ Tina
痛い。はずだったが、痛くはなかった。体勢は、尻餅をついたような状態だった。お尻を打ったように感じたが、地面はふわふわだった。
いつの間にか瞑っていた目を開けると、グレーで質素な羽毛布団が広がっている。数十階建てのビルの屋上から身を投げ出されたはずの智奈は、ベッドの上にいるようだった。
辺りを見回すと、さほど物は多くないが少々汚い部屋が広がっていた。本棚にはあまり整列されていない本が詰め込まれ、フローリングにはたたまれていないパーカーとジーンズ、小さなテーブルには開きっぱなしの本、そこには何かが書き殴られた跡もある。その隣には、無造作に積み重なった本と書類の山。
ベッドの隣の窓からは、傾き出した陽の光が智奈の足元に差し込んできている。
「あんた誰」
警戒心剥き出しの、少女のようなかわいらしい声がした。だが、智奈があたりを見回しても声の主の姿はない。
ベッドの上にすらりと上がってきたのは、黒猫だった。
「もしかして、あんた智奈?」
猫の口がパクパクした。
目の前の光景が信じられず、思わず口をあんぐりとしたまま、智奈は硬直した。
「ちょっと、聞いてるの?」
しなやかに黒猫は智奈に近付き、ふんふんと匂いを嗅ぐ。そのまま、智奈の足の上に乗り込んできた。智奈の太ももの上に、黒猫は丸くなる。
猫が喋った驚きは、可愛さへの探究心に負け、おそるおそる背中を撫でてみるが、黒猫は喉を鳴らす。
「あんた、嫌いな匂いじゃないわ」
黒猫が言った。
夢にまで見た、猫が自分の足元にいて、喉をなでている状況に、智奈の中は幸福でいっぱいになった。
「霧亜は?」
猫の声と、智奈の疑問はほぼ、同時だった。
智奈が立ち上がろうとすると、猫はするりとベッドから降りる。ベッドの先には、ドアがあった。ドアを開けて部屋を出ると、短い廊下があった。進むと、左右にあと二つ扉があり、行き止まりにはまた扉がある。
行き止まりの扉を開けると、開放的なリビングが広がっていた。
何故か、どこか見たことのあるリビング。
そこの違和感は一つだけ。
ダイニングテーブルとソファの間、ちょうど丸いカーペットがある所に、霧亜が仰向けに倒れていた。
「霧亜!」
猫の声と、智奈の思いが再び重なる。
霧亜の意識はあった。かけよると、霧亜はひゅーひゅーと荒い息をしている。
薄く目を開けると「ただいま」と、霧亜は黒猫の背中を撫で、何か黒猫の耳元に囁く。それを聞いた黒猫はソファの上の小窓から家を飛び出して行った。
霧亜の脇腹には、あの八木組の男に突きつけられた智奈の掌二つ分ほどもある太い針が刺さったままだった。ジャケットの中の白いTシャツを真っ赤に染め、下のカーペットにまで染み込んでいる。
「き、救急車」
呼んだことはないけれど、とりあえずかけなくては。名前と、住所と、霧亜の状況を伝えて……。
そこで、智奈はふと気がついた。
ここはどこだろうか。
霧亜が、智奈の手を握ってきた。
「大丈夫」
そう言うと、ずるずると上半身をゆっくりと起き上がらせ、後ろのソファにもたれかかった。
「大丈夫。ナゴに、人呼んでもらったから」
「霧亜それ」
智奈は震える声で霧亜の脇に刺さる大きな針を指差す。
霧亜はにっと歯を出して笑った。脂汗を額に浮かべながらの笑顔は、無理をしていることくらい智奈にもわかった。
「ごめん、集中して移動できなかったから、怪我してねえか?」
見知らぬ家と、喋る猫と、大怪我の兄のせいで忘れていた現実に、智奈ははっと霧亜を見つめる。
透き通った灰色の瞳がこちらを見返してきた。
「あたしたち、どうなったの?」
霧亜は用意していた答えのように、噛み締めて答える。
「バベルに、戻ってきた」
霧亜の言葉で、智奈は数週間前の記憶が鮮明に思い出された。
霧亜が、智奈の所に来た理由。
———お前を迎えに来た。
そう、霧亜は智奈を連れ戻しに、世界を飛び越えて来たのだ。智奈と一緒に暮らし、一緒に学校に登校し、大人になるためではない。
全てはこのために霧亜は智奈の目の前に現れたのだ。
「ここ、どこ?」
様々な疑問が頭の中で飛び交う。
「オレの、オレ達の家」
「いえ……」
霧亜は、うろうろと目線を泳がせ、事の説明をしようと口をパクパクさせるが、言葉が思いつかないのか沈黙が訪れた。
「あの人、誰」
突然現れ、智奈を助けてくれた黒いコートの男。
智奈のことを知っていて、霧亜も男のことを知っているようだった。知っているというより、憎んでいそうだった。
「あいつは……」
「死んじゃうかと思った」
高いビルから投げ出されたのだ。こんなところにいるのはおかしい。
「元に、戻れないの?」
頭より感情の方が理解が追いついてきているのか、声が震えた。
霧亜は慌てたように様々なジェスチャーを試みるが、大きく動けないようで、いまいちこちらには伝わらない。
「いや、戻れる。誰かに頼めば……サダン、サダンならなんとかしてくれるから」
こんな慌てた霧亜を見たのは初めてだった。いつもヘラヘラしているのに、今は本当に困っているようだ。
妹のダムが崩壊しそうなのを、なんとかして食い止めようとしている。
「サダンって誰……」
自分でも想像していなかった所で、眉間の奥がぎゅっと収縮し、涙腺のダムは崩壊した。
戻れる、戻れるよ。
必死にそこを繰り返す霧亜の姿を見て、智奈はうっすらと感じ取った。
戻ることは、難しいことなのだと。
何が悲しいのか、先程の謎の男が怖かったのか、誘拐されたことが怖かったのか、元の世界に帰れないことか、よくわからない所に連れてこられたからなのか、全てがぐちゃぐちゃになって、言葉にできない嗚咽として出てきた。
「呼んできたわよ」
黒猫が上に設置された窓から慌てたように戻ってくる。
重体の飼い主と、嗚咽のやまない少女のいるリビングに入ってきた黒猫は、霧亜と智奈を見比べ、智奈の方に寄ってきた。
「どうしたの、霧亜は死なないから大丈夫よ」
前足を智奈の肩に置き、頬を舐めてくる。ザリザリと舐め取られる涙も、まだまだ枯れない。
霧亜はどうしたらいいのかわからないあたふたさせる手を、おそるおそる自分の傷が痛まないようゆっくりと智奈の頭に乗せた。
「ごめん、ごめんな。いきなり、連れて来ちまって。本当は、もっとゆっくり一緒に、ちゃんと行こうと思ってたんだけど、その、ごめん」
頭にあった手が、涙でぐしゃぐしゃの智奈の手を掴んできた。大きく、ごつごつとした、砂だらけで血だらけの手が、智奈の小さな手を包み込む。
「でも、絶対、オレは置いていかないから。もう一人にさせないから」
視界がゆるゆるで、霧亜の髪の色が白く見えた。
パチリと瞬きをして瞼の中の涙を頬に流すと、日に照らされて真っ白に輝く髪の毛の間から、深く青い瞳がしっかりと智奈の瞳をを捉えている。
ひゅっと喉の奥がつまる感覚を覚えた。
「目、青い」
嗚咽を混じえながら、智奈はその言葉を絞り出した。
泣きじゃくる妹から突然外見について指摘された兄は、はて、と目を瞬いた。上を見て、あ、と声を漏らし、恥ずかしそうに頭をかく。
「お前が泣いたせいで、変装解けた。本当はこんな目と髪なんだ。小学校入るのに目立ち過ぎると思って」
智奈は鼻をすすりながら、涙に緩むコンタクトレンズを両目とも外した。
おそるおそる顔を上げると、兄の深い青に透き通った水色が映る。
「あら綺麗。ヤナとハイネンの目が混ざったみたいね」
黒猫が智奈の瞳をうっとりと眺めた。
「お前、隠してたのか」
霧亜も驚いたように青い目を見開く。
霧亜は智奈の栗色のポニーテールの後ろ髪を触ると、深くため息をついた。
「お前、オレの妹なんだなあ」
「おかえり、霧亜、智奈」
頭の上に手を置かれた。偏頭痛のような痛みが一瞬こめかみを襲い、じわりと波紋を広げたかと思うと、脳をホッカイロで温められたかのように熱くなった。
何故か、気分の悪いものではない。
霧亜の隣に、スーツ姿の男が立っていた。
細身のフレーム眼鏡の向こうからニコニコと糸のように細い目が笑っている。かっちりとしたグレーのスーツを纏った、細く長い男だった。三十代にも五十代にも見える、年齢不詳な顔立ちをしている。
再び危険が迫り、智奈は動けない霧亜ににじり寄った。
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