——— ◯ Tina
朝に霧亜を起こすのも、料理を二人分作るのも、登下校を絢香と霧亜の三人でするのも、学校で霧亜のことを聞かれるのも、最初は恥ずかしかったが、もう慣れた。
帰りの会が終わると、智奈は絢香と二人で、六年生のいる一つ上の階へ上がった。霧亜のせいで、智奈の顔は一気に六年生に知れ渡っている。
ある女の子が智奈を認識すると、「霧亜くん?」と聞いてくる。
智奈がうなずくと、六年三組の教室に入っていく。智奈が来たら、霧亜を呼ぶ係というものが、六年の女子でローテーションされているらしい。
教室から、霧亜が出てきた。他の六年生の男子より少し背が高いため、よく目立つ。
一緒に下駄箱へ歩き、上履きから靴に履き替える。
「おー! 今日は画鋲入ってる。前と違うメーカーの画鋲だ。買い直してくれたんだったら、可愛いよな」
本当に、毎回楽しそうだ。
大量の画鋲をいらないプリントで包むと、霧亜は廊下にあるゴミ箱に捨てた。
「誰がやってんだろうな。オレのこと好きにも程があるだろ」
校門を抜けた一行。智奈と絢香は、霧亜の言葉に驚く。
「え、栗木じゃないの?」
智奈の言葉に、絢香も頷いている。
「壮介じゃねえよ。あいつにあんなことできない」
智奈は違和感を覚える。なんでそこまで栗木の肩を持つのか。
「ねえねえ、今度遊びに行こうよ。霧亜くんも一緒に!」
帰り道、絢香が智奈と霧亜の前で、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「あ、オレ遊園地行ってみたい」
「霧亜行ったことないの?」
「オレのいたところは、遊園地なんて施設なかったからな」
「行くしかないね、決定ね! 絶対よ」
「あ、そしたら、康太と壮介も呼んでいいか?」
康太とは、霧亜といつも一緒にいる男子、宮田康太だ。そして、壮介とは、栗木のこと。霧亜は、栗木のことをいつの間にか名前で呼んでいたのだ。
絢香は、何か言いたそうにぱくぱくと口を動かしているが声が出ていない。
「宮田くんはいいけど、栗木は怖いなあ」
智奈が言うと、霧亜はあからさまに苛ついた顔を見せた。
「お前もそんなこと言うのか? あいつ良いやつじゃんか」
智奈は霧亜と出会って初めて、霧亜の機嫌の悪い態度を見た。
「壮介は、ダメだよ」
絢香がぽつりと言う。
まだ夕刻と呼ぶには早い時間帯のはずなのに、辺りが薄暗く感じる。木々がザワザワとさざめき、空気がピリピリと耳に届く。頬を小さな無数の針で刺されているような感覚に陥った。
「嘘だろ……」
霧亜が呟くと、智奈を守るように、前に腕を伸ばす。
智奈の身体の中にある動物的勘が、この場は危ないと警報を鳴らした。
「こんなところで何をしてる」
男の低く通る声が、辺りのざわめきを一瞬で鳴り止ませた。冬の凍る寸前の湖のように、ぴんと辺りが静まり返る。
声のした方へ顔を向けると、長めの黒いコートを羽織り、フードまですっぽりと被った、背の高い男が智奈たちの数メートル後ろに立っていた。
フードから覗く目が、獣に睨まれたように感じて身動きをとることができない。
その目が、青くぎらりとライトのように光った瞬間、智奈は恐怖で身の毛がよだち、霧亜と絢香の手を取って、男に背を向け、全速力で駆け抜けた。
いつも絢香と別れる十字路まで走ると、智奈は二人の手を離す。息が切れて、上手く酸素が吸い込めない。
「智奈足早いよお」
言いながらも、絢香は大して息を切らしている様子はない。
「ごめん、怖くって」
霧亜も、少しも息を切らすことなく、走ってきた方向をじっと見つめている。
「なんか、やばいおじさんだったね。智奈が引っ張ってくれて良かった。また明日。メンバーは保留だけど、遊ぶの覚えておいてね!」
絢香は、早くその場を去りたそうに、そそくさと手を振って帰っていった。
霧亜と無言での帰宅路。智奈の震える手は、霧亜のパーカーの袖をずっとつまんでいた。
ため息をついた霧亜が、智奈のその手首をむんずと掴むと、しっかりと手を握ってくる。
「怖かったか?」
智奈は手を引かれたまま、こくりと頷く。
「怖いと思ったのに、オレたち連れて逃げれたんだから大したもんだ」
夕日を正面に、かかか、と笑う霧亜の背中は、いつもより大きく見えた。
帰宅し、汗だくだった智奈は夕飯より先に風呂に入ることにした。
恐怖する出来事があった後の風呂は嫌いだ。だからと言って、霧亜に一緒に入ってと言うのも恥ずかしい。
シャンプーが一番怖かった。目をつぶって頭を洗っていると、脳裏にどうしてもあの黒い男が蘇ってくる。いつもは心霊番組で怖くなっていたのに、実体験してしまったが故のリアリティが、智奈を襲った。
いつもよりだいぶ早く、智奈は風呂から上がった。
風呂から上がり、ソファに寝転がってバラエティ番組を見ていた霧亜の肩をたたく。
「霧亜もご飯より先に入る?」
扇風機の近くで、わさわさと髪の毛を揺らす霧亜の意識は、完全に番組に集中していた。んー、とだけ、返事が返ってくる。
霧亜の見ている番組は、猫特集だった。大量の子猫が最近話題の有名人になだれ込んでいく。
「あいつのこんな子猫姿知らねえな」
ぼそりと霧亜は呟く。
「あいつ?」
「向こうの世界で、一緒に住んでるんだ。黒猫」
智奈の心はその霧亜の言葉に鷲掴まれた。道端でも猫を見かけると、こっそりコンビニで買っていた猫缶をあげたりしてしまうほど、智奈は猫が好きだった。
「そうなんだ」
そわそわと、もっと話を聞きたい智奈の声に微塵も気づいてくれない霧亜は、ふらりと風呂へと立ち上がった。
智奈はまだ見ぬ霧亜のペットの黒猫ちゃんと遊ぶ妄想を思い描きながら、アイスココアを作ろうとお湯を沸かした。
突然、目の前が真っ暗になる。ああ、ブレーカー落ちた。
扇風機と湯沸かし器を一緒に使ってしまうと、停電になってしまうのは智奈の家の常だった。
いつもであれば、そう思って冷静にブレーカーを上げにいくのだが、今日は違う。暗闇からあの恐ろしい男が襲ってくるのではと想像してしまった智奈は、慌てて脱衣所に駆け込んだ。
風呂周りの明かりは生きている。
「つめて!」
風呂場から声がする。シャワーから冷水しか出なくなったのだろう。智奈を呼ぶ声がする。
「智奈ブレーカー落ちたぞ! お前またココアか。心臓キュってなった!」
智奈は、風呂上がりにココアを飲むことが多い。霧亜の入浴中にブレーカーが落ちるのはよくあることだった。
「霧亜」
風呂場のすりガラス越しに、霧亜の背中が見える。
「なんだよ」
うっすらと、霧亜はこちらを向いたように見える。
「怖いから一緒にブレーカー直しに行って」
抗議を示す声が一瞬聞こえたが、今日の出来事を思い出してくれたのか霧亜はガラリと風呂場から脱衣所に出てきた。
智奈は慌てて後ろを向く。
「そこで待ってろ」
腰にタオルを巻いた、頭をびしょびしょに濡らした霧亜が脱衣所を出て行った。
このびしょびしょの床を拭くのは智奈なのだが、今日は文句を言えない。
ばちんとブレーカーの一つを直す音が聞こえ、霧亜が戻ってきた。
「ありがと」
智奈は言いながら、霧亜の体をまじまじと見た。筋肉質な体格で、余分な脂肪は全くなさそうな体だ。ボクシング選手ほど細くもなく、均等に筋肉がついている。
しかし、体よりも目に入ったのが、肩にあるタトゥーだった。
霧亜は、風呂上がりはちゃんと服を着て出てくるため、上半身を見たのは初めてだった。
智奈の視線に気づき、霧亜は自分の右肩を掴む。
「これな、親父に付けられたんだ」
そういうと、智奈によく見えるように自分の肩を近づけた。
そのタトゥーは、円の中に、更に丸や星、知らない文字がたくさん敷き詰められているような絵柄だった。
初めて出会ったキッチンでの水の魔術や、鉢植えを防いだ時のような、魔法陣だ。
「お父さんに?」
虐待というやつだろうか。孤児院に行ってたと言っていたし。
霧亜は頷いた。
「タトゥーじゃないぞ。もしつけるんなら、海賊団のマークとか、星とか愛とか入れるわ。これ、封印魔術なんだ。オレの中に何か封印されてる。何かはわかんないんだけど」
智奈はくすりと笑ってしまった。
「俺の右手が疼くぜ。みたいになるの?」
霧亜はケラケラと笑った。
真剣に話してくれたのに、冗談で返してしまったと一瞬後悔したが、霧亜は笑ってくれていた。
「中二病かよ。俺の封印されし眠れる力が解かれたら、なんとかしてくれな」
そういうと、霧亜は風呂場に戻って行った。
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