その駄菓子屋には、大きな桜の樹があって。
店の奥にはずいぶんとおばあさんの、もうみたまんま縁側で猫と光合成してそうなおばあさんと、これまた絵に描いたような小憎らしいがきんちょがいた。それから――
大学が夏休みに入る頃。周りは就職活動だなんだと盛り上がりはじめ、俺もしなきゃなんないよなあとか、漠然と考えてはいたが、とくに何かなりたいものがあるわけでもなく、やりたいことがあるわけでもなく、当て所もなくぶらぶらして過ごしていた。
あの日も構内のベンチで本をアイマスク代わりにひとり寝転がっていた俺だったが『暇でしょ~ 付き合ってよ~』と緩慢なのほほん声に陽射し避けの本を奪われ起こされた。目が眩むような陽射しを背にして影になった男、俺は眩しさに目を細めながらのほほん神田の誘いを断わるすべもなく、ぶらぶらの延長だか惰性だかでそのままここまで来てしまったわけだが。
だがしかし……駄菓子菓子。ちがう。駄洒落てる場合じゃねぇ。
「おい、神田」
「な~に~」
「なんもねぇぞ。ここ」
「よく見てよ~ その眠たそうな目を開けて~」
「目を開けてとか、お前に絶対言われたくないぞ、神田」
「な~に~か~?」
「なんでもない。そしてやっぱりなんもねぇぞ」
「君はほんと~に~ なにも~ 見えてないね~ ほら~ 山だよ~ 山があるよ~」
「……そうだな。俺が悪かった。神田、山しかねぇぞ」
「そ~だよ~ 山にきたんだも~ん」
そう言って、ローカル線から一日2本しかないバスに2時間揺られて着いたバス停を神田はすたすたとあとにした。俺は呆然としながら、夏の眩しい太陽、青い空、どこまでも広がる山、山、山、そして現実逃避、いや実際俺の知る現実から遠く切り離された場所で立ち尽くしていたが、この場所の唯一の道しるべとも言うべき神田を見失ってしまったら鬼にでも食われるかもしれんと、慌ててその後を追った。
「か、神田……神田くん……」
俺は今までに歩いたこともないような傾斜と悪路の山道を、涼しい顔して前を行く男に声をかけた。俺はもう体中汗だくだ。足、超いてぇ。
「なぁ~にぃ~」
「宿、バス停から歩いてすぐって……言ってなかった?」
「すぐだよ~ 40分くらいだもん」
「……徒歩40分はな、すぐって言わないよ? そしてそれは見通し距離換算と言うことか? もう1時間以上歩いてるぞ……」
「君が~ 歩くのがおそ……ゆっくりだからだよ~」
俺は自分がバカだと悟った。こいつに普通の尺度で対応した俺のバカさ加減を呪った。
「涼しくてバカンスに最高って……言ってなかった?」
「言ったよ~ 最高でしょ~ 都会から離れた清らかな空気、風、緑~ ほら~ 風だよ~ すずし~」
神田よ、風なんて感じられる余裕は今の俺にはない。がっくりとうなだれた俺に笑顔を向けて、神田はまた颯爽と歩き始めた。
颯爽? 颯爽だと? こいつのどこにその軽やかさがあるんだ。のほほんを具現化したような姿のくせに。だがなんであれ、二度とこいつの誘いには乗らん。俺は山道の途中で拾った杖 “命の枝くん” に固く誓った。
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