蕎麦の喉越しは滑らかで、薄くそばつゆに溶かしたわさびの上品な辛味と蕎麦そのものの香りが心地よく鼻孔をくすぐった。神田と同じものと言ったために、俺のところにもやってきた普通盛のアゲは、味付けがそれほど濃くなく箸休めに調度良かったし、もちろん蕎麦と一緒にキツネ蕎麦として食べても美味かった。見れば、前の男はそれはそれは幸せそうに合板を一枚、一枚剥がしながら花でも咲かせそうな勢いで食べていた。
食事を終えて最後に美味い水を飲み、満足な息を深く吐き出すと俺達は揃ってご馳走様と言って席を立った。会計を終えると、食事の前にお願いしておいた水の補充、俺のペットボトルと神田の水筒をおじさんは持って来てくれた。食事の間、冷やしておいてくれたのだろうか。受け取ったペットボトルはとても冷たかった。おじさんにお礼を言って、先に店を出た神田を追うように店の引き戸をくぐろうとした俺におじさんが声をかけた。
「きみ、この店の先に行くんだろ?」
俺はちらと外にいる神田を見たがその顔からは何も伺えない。でもきっとそうだろう。
「……多分そうだと思います」
「鬼に食われんようにな」
おじさんは小さく俺に耳打ちした。
「オニ!?」
なんのことやら聞き間違いか、からかっているのか、いずれにしても意表を突かれた俺は思わず声を上げて聞き返してしまった。それを聞いてこちらを見た神田がうっすらと、ほおんの数ミリ目を開けてその隙間から瞳をのぞかせた気がした。するとおじさんは肩をすくめて「気をつけてな」と言って店の奥へと入って行ってしまった。
え? ちょっと? おじさん?
その場に取り残された俺は、何一つ腑に落ちないまま「いくよ~」と店の裏手へと歩き始めようとした神田を追った。
「神田、オニってなんだ?」
「まったく……相変わらず料理は美味しいのに一言多いんだから~ あのおやじ~」
俺の質問はとりあえずスルーらしく、神田はなにやらぶつくさと呟いている。
「えっと……どういうことなの? オニってなに?」
俺は神田に水筒を渡して改めて質問した。
「……蚊のことじゃない~? しましまあるし~ 日本脳炎みたいなことなりたくないでしょ~ 虫除けしっかりね~」
俺の顔を横目でちらりと見た神田は、のほほんとそんなことを言いやがった。
しましま? 鬼のパンツってか?
日本脳炎? ウイルスを持ったコガタアカイエカは毎年発生してるよな。たしかに。
駄菓子菓子。ちがう。だがしかし。
違うだろ?!
「か? おにか?」
「そうそう。おにか~」
鬼蚊? 鬼か? ……だから、駄洒落てる場合じゃねえ。
「いや、神田、ちょっと待てって……」
ねぇ、神田。神田くん。オニってなに? まさか鬼じゃないよね? この時代に鬼なんて、このご時世に食われるとか。……どういうこと?! 神田くん! 答えてちょーだい!!
そんな俺をはっきり言って無視して神田は「待たないよ~ 早くおいで~」と、やはり颯爽と、店の裏にある山道を登り始めた。
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