背筋にひんやりと冷たいものがはしったが、風がいたずらに扇いだ俺のシャツは背中にはりつくことなく、その裾はふわりと浮いた。
そう言えば。汗をかかないな。
目の前の、俺を見ている瞳をきれいだと思いながらもどこかで恐怖を感じるような、それでいて艶やかにも映る姿に俺の喉はごくりと動いた。だが喉の渇きは感じなかった。
そう言えば。あんなに山を登るときには水が必要だったのに。
なんだろう。この感覚。ああ。でも何か言わなけりゃ……話を終わらせたら、話が終わってしまったら、もしかして俺は……。
「どうして人間を……人間が現れるまでは、静かに暮らしていたんでしょう? そうでなければ、そんなおおぐらいの鬼が暴れたら山の動植物を根こそぎ食べてしまって、禿山にでもなってしまいそうですよ」
「静かに暮らしていたようです。ですが山に住むのはもともと静かに終わるものたちですから、それで空腹が満たされることはなかった。彼らは鬼が現れ死に直面したとき、恐怖や未練を人間のように騒いだりすることはなかったでしょうから。時は流れるもので、その先にある死はどんなものであれ突然現れるのではなく、必然としてやってくると。そういうものとして存在していたように思うのです」
膝の上のがきんちょの頭をなでていたさくらさんは、そこで一度話しを区切り、居眠りしているおばあさんを見た。俺もつられておばあさんをみた。今では珍しい赤いちゃんちゃんこが似合いそうな和服を着て、寝息でも聞こえてきそうなほど座布団の上で気持ちよさそうに眠っている。さくらさんは、正面の庭へ顔を戻し「人間が現れるまでは」と話の続きを話し始めた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!