だがしかし

Hatter
Hatter

33

公開日時: 2022年4月15日(金) 18:10
文字数:1,342

ふわりと浮いては消える水煙の、微細な水の粒子を感じながらしばらく水が落ちるさまを眺めていると、突然後ろから声を掛けられた。

「ああ。やっぱり、あんたそれを持っていてくれたのか」

びくりと肩をあげて振り向けば、ごま塩頭のおじさんが立っていた。おじさんはこの前会ったときと同じような姿で、俺が握り締めていた網を見ていた。

「す、すみません。えっと、この網お借りしていたみたいで! 有難うございました!」

俺はおじさんの、源五郎さんの視線の先にある網を見て慌てて前に差し出すと頭を下げた。

「いやいや。あんたが持っていてくれてよかったよ。こうして返ってきたし、これで俺も出かけられるわ」

源五郎さんは、網を俺から受け取ると網の持ち手を確認しながら、何度か網を左右に振っていた。

「ああ。お出かけでしたか。お待たせしてしまって申し訳ありません」

俺はもしかしたら出掛ける予定の源五郎さんが、俺の、いや網の到着を待っていて、ここまで迎にでも出てきたのかと、また頭を下げた。

「いやいや。ちゃあんとあんた、間に合ってるよ。いつだってあんたはちゃあんと来たよ」

「はあ。恐縮です……」

何を誉められたわけでもないのに、俺はなんだか照れくさくなった。

網を確認した源五郎さんは、俺の方をじっと向いて、日焼けした顔によく似合う笑顔で「ありがとなあ」と言い「もうすぐ村の祭りがあるんだ。最後にな。あんたもよかったら来てくれ」と続けた。

祭り。夏祭りか。

「祭りですか。それはいいですね。しかし僕がいつまでここにいるかは神田しだいでして……」

「そうか、なら間違いない。あんたは最後の日までいるよ」

神田のやつ。俺には旅程など何一つ言わなかったくせに。最後の日って何日後だよ。まさか大学が始まる直前までいるなんてことはないだろうな……。

「ははあ……しかし、僕のようなよそものが大切なお祭りにお邪魔してよいのか……」

「なあに言ってんだ! いいに決まってる! あんたのお陰でこうしていられたんだ。みんなそれはわかってる」

「いやー……お陰と言われましても僕は何もしていませんし、子供の頃、もしかしたらここに遊びに来たことがあったのかもしれませんが、いかんせん記憶があいまいで……」

何がお陰かさっぱりなのに無条件に感謝されて照れくさく、しかしその感謝を俺が受け取っていいものか、これまたさっぱりな俺は、頭の後ろを掻きながら「いやー」とか「そのー」とかぶつぶつ唱えながら回答していた。時折頭を左右に揺らす、変な生き物みたいに。そんな俺を源五郎さんはしばらく目を大きく開いて見ていたが、ふっと息を吐くと「むかーしのことだもんなあ。忘れちまっても仕方ないわなあ」と言って笑った。

「さて、こんなところまで来てくれたし、出口まで送ろうか」

そう言って、源五郎さんは俺の肩をポンと叩いた。

たいして強く叩かれたわけでもないのに、当たり所が悪かったのか、身体にびりびりと痛みが走り、俺は思わずうめき声を上げてしまった。

「どうした?」

「だ、大丈夫です。すみません。ちょっと昨日、がきんちょにやられまして。実は満身創痍なんです」

「大丈夫か? 歩けるか?」

「大丈夫です。お恥ずかしい限りで」

「そんならゆっくり歩いていこう」

そう言って源五郎さんは、言葉どおりゆっくりと歩き始めた。

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