俺はまた死にゆくものの声に引かれ森の中を彷徨っていた。
足を引きずることはなく傷はいつのまにか塞がったようで、周りの皮膚とは異なった色合いで膨らみ再生した血肉の証を残していた。ぴょんっと何かが足を掠めた気配に下を向けば、兎が一匹。そのまま兎は土を蹴ると、空へ向かうように跳ね上がり、幾度か俺の頭の上を駆け回るとぴたりと動きを止めて俺を見た。
“あんたのお陰で、足もこの通りさ”
うさぎは後ろ足で宙を強く蹴って一回転してみせた。
“あそこは広い場所だったよ。もう十分に走ったし、いろんなやつにも会った。懐かしいやつにも会った。だから、そろそろ行くことにするよ。いくべき場所へ。”
“そうか”
“来てくれたのがあんたで良かった。白いやつだったらこんなに走る時間を寄越しはしなかったろう。見つけてくれて有難うな”
“いや、俺は何も……腹が減ってるだけなんだ”
うさぎがちょっと驚いたような気がした。
”そいつぁ……いつか満たされるといいがね。じゃあな。またどこかで会うかもしれねえ”
“ああ、そうだな。いつか……”
いつか俺は満たされるんだろうか。
いつか俺は俺を思いだすんだろうか。
うさぎは一際力強く跳ね上がると、空へと向かっていった。向かう途中に何かを思い出したようで、遠く消え入りそうな声が俺の前に落ちて来た。
“そうだあ。あの忌々しい人間のボウズ、あいつに伝えてくれ。滅多切りされた人間からの伝言だあ。あんまり酷い姿だったんで人間だと思わなかったんだけどよ、この山から早く出ろってさあ。そいつも行こうと思ってるらしいが、どうしてもボウズが気がかりなんだってよ。そいつが心残りってやつを手放せば、あんた、また少し腹が膨れるんだろ……”
最後の言葉はどこか遠くに聴こえる流れる水音に混じり流れ去っていった。うさぎが消えて、水の音もまた消えて、刹那無音のあと、あるべき森の音を取り戻した中を俺はまた歩き始めた。
しばらく一本道――道とは言えないような獣道だ――を固い草を踏み歩いているとぽっかりと開けた場所へと出くわした。その先の片隅にぽつねんと朽ち掛けた小屋が見える。ここまでやってきた道を考えれば、人間がたびたび往来する場所でないことは明らかだった。だが小屋の周りは草木の好き勝手にさせない空き地となっており、そこに植えられている木は、周囲の山にある木々に比べると若くそして枝ぶりが良かった。植えられたとわかるのは、その根元に盛られた土山が見えるからだ。
足を踏み入れようとしたその入口で、俺は袖を引っ張られ足を止めた。見れば細い枝が袖にひっかかっている。俺はそっとその枝を外したが、反対側の枝は半分折れかけ木の内部を露にしていた。見れば刃物で切りつけられたような無残な傷が、細い幹にいくつもついている。まだまだ俺に関わるには随分と若く幼い木だった。
俺は足に巻いてあった布を外すと、その折れかけた枝に結んでやった。これで再生できるかはわからないが、俺の足の傷はもう塞がっていたので、思いがけず善意でもらった布の使い道としては悪くないように思えた。
俺が改めて小屋に向かおうとしたとき、ガタガタと戸が軋みながら動いた音がして、そこから人間が出てきた。髪を束ねた女は、むしろを丸めた自分よりも大きな荷物を括られた紐で背中越しに引いている。重そうな荷物を一歩また一歩と引きずる女の後ろに、後から小屋から出てきた女の子が引くのを手伝い始めた。女の子は透き通るような髪をしていた。二人は俺に気付くこともなく、空き地の奥の方へと進んでいく。俺は声を掛けるわけでもなくその様子を見ていたが、ふと女の子が俺の方を見て手を振った。
「狂い小屋って言うんだ」
小さく驚いた俺の横で声がした。見ればこの前の少年が虫網を持って立っていた。少年は虫網を高く持ち上げ女の子の手に応えるように左右に大きく振った。
「ここさ、村の連中は狂い小屋って言ってる。狂った奴がどこからか連れて来られるんだってさ。それを世話してるのが、あいつとその姉さんなんだってよ」
「……」
「俺知ってるんだ。そういうの連れて来る連中から金もらってる奴のこと。それに、あいつが言うんだ。狂ってなんかいないって。皆と同じで居場所がないだけだって。あいつも姉さんも、居場所がなくてここから動けないんだってよ」
少年はどこか思いつめた表情で、小さくなった姉妹の背中を見つめていた。
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