猿の内政官

~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
橋本洋一

変わらずにいられるのか?

公開日時: 2021年3月12日(金) 14:50
文字数:3,108

 僕の失われた記憶――

 もちろん知れるものなら知りたいに決まっている。

 ぽっかりと空いた僕の空白。それを埋められる日を長年待ち望んでいたのだから。

 だけど――


「私は――知ってほしくない」


 目の前の妻は、目を伏せて、悲しそうに言うのだった。


「し、志乃。それは一体――」

「全て聞いたわけじゃないのよ。大体の話だけ。でも……」


 声を詰まらせる志乃。とてもじゃないけど言えないようだった。


「私はあなたを愛しているわ。だからあなたが傷つくようなことはしたくない」

「……記憶を知ったら、僕は傷つくのか?」

「そうよ。私だって、胸が張り裂けそうになった。雲之介のことを思うと、つらくて悲しかった。だから――お願い。記憶のことを探るのは……」


 志乃が記憶のことを諦めるようにと言おうとしたとき、正勝が「それは違うぜ」と反論した。


「志乃さんよ。兄弟は知るべきだ。知らないといけねえんだ」

「正勝の兄さん……」

「どんなに残酷な記憶でも取り戻さないとな」


 まるで断定的な物言いの正勝に志乃は睨みながら「どうしてそんなことが言えるのよ?」と厳しく言う。


「あなたは、雲之介の記憶を知らないから――」

「ああそうさ。俺は兄弟の記憶を知らねえ。でもな、俺は雲之介という男は知っているのさ」


 正勝は僕の肩に手を置いた。しっかりと握ってくる。


「兄弟の根性はすげえよ。俺が知り合う前にもいろんなことをやったようだが、知り合ってからもすげえことしている。少し賢いだけの男がよ。山賊やっていた俺と初めて会ったとき、俺の部下に囲まれながら啖呵を切ったんだぜ?」


 にやりと笑って僕と目を合わせる。


「だからさ。どんな記憶でも受け入れると思うぜ」

「――私だって、雲之介を信じているわよ」


 志乃はきゅっと眉を寄せる。苦しそうだった。


「でもね、それでも私は、怖いのよ」

「ふうん。怖いのね。ま、気持ちは分かるわ」


 半兵衛さんが志乃に気遣うように優しく言う。


「志乃ちゃんが恐れるのも無理はないわ。失った記憶を知ってしまったら、人がどうなるかなんて、分からないから」

「おいおい半兵衛。それじゃあ兄弟は知らないほうがいいってことか?」

「あたしとしては知っても知らなくてもどっちでもいいわ。所詮他人事だし」


 冷静な言葉だった。冷たくすらある。


「決めるのは雲之介ちゃんよ。雲之介ちゃんが知りたいのなら、知るべきよ。知りたくないのなら、黙っていればいいわ」

「おいおい。まあそのとおりだが――」

「正勝ちゃん。志乃ちゃんだってそう思っているはずよ」


 半兵衛さんの言葉に志乃は黙って何も答えなかった。


「そうでしょう? もしも知ってほしくないのなら、そのまま黙っておけばいいじゃない」


 厳密には明智さまから『志乃が僕の記憶を知っている』ことは告げられたけど、志乃はそのことを知らない。


「……軍師ってのは大したもんだな。人の頭の中も見抜いちまう」

「でも人の心は変えられないわ。そうねえ、後は雲之介ちゃん次第だわ」


 半兵衛さんは僕に問う。


「あなたは本当に記憶を知りたいの?」


 僕は目を瞑って、その問いを深く噛み締める。

 記憶を知ったら――思い出したら僕は僕で無くなるかもしれない。

 記憶があったときの別の人間になるかもしれない。

 そう考えたこともあった。


 それでも、僕は知りたかった。

 土台がぐらぐらしているような。

 空高く舞い上がっているような。

 根がしっかりしていないような。

 そんな風に生きてきた。

 どんな原因で失くしたのか。それを知ることで僕は――


「僕は、知りたいよ」


 ようやく、それが言えた。


「……雲之介。怖くないの?」


 志乃が僕を見つめる。心配そうな顔。僕を気にかけているような目。

 だから正直に話す。


「……怖いよ。とても怖い」

「それなのに、知りたいの?」


 志乃にしっかりと見つめ返して答える。


「うん。それでも、知りたい。僕は記憶を取り戻さなければいけないんだ」

「…………」

「知ってしまえば、知らなかった僕では居られないけど、それでも知らないといけないと思うんだ」


 志乃が僕の手をそっと握る。それで自分の手が震えていることに気づく。

 臆病者だ、僕は。

 だけど僕は言葉を紡げた。


「どんな最悪な出来事でも、それを乗り越えなくちゃいけない。それに頭じゃなくて心が欲しがっているんだ。記憶を取り戻したいって」

「…………」

「だから、志乃。教えてくれ。僕の記憶を」


 志乃は大きく溜息を吐いた。そして――


「あなたの記憶を知っている人に会わせるわ。私の口からはとてもじゃないけど、言えない」


 僕は「ありがとう、志乃」とお礼を言った。そしてにっこりと笑う。


「後悔しないでよね」

「うん。なるべくしない」

「……なるべく?」

「いやだって何も知らないし」

「そこは絶対しないとか言いなさいよ」


 いつもどおりの夫婦の会話だった。


「まったく。世話が焼けるわね。この夫婦は」

「ああ。でもそういうの嫌いじゃねえよ」


 半兵衛さんと正勝には感謝しないとな。

 二人が居てくれて、良かった。


「でも、その前にやることあるわよ」

「うん? なんだい半兵衛さん」


 半兵衛さんはびしっと僕を指差す。


「きちんとご飯が食べられるようになること。そんな身体じゃその人のいるところまで行けないわよ!」

「あ。そうだった」


 まるで餓鬼か幽鬼のような身体の僕。

 早く元に戻さないと。


 

◆◇◆◇


 

 普通の状態に戻るまで、一月ほどかかってしまった。

 すっかり冬となり、そこら中に雪が積もっている、京の都。

 晴太郎とかすみが歩けるようになり、簡単な言葉を喋れるようになった。やはり子供の成長は早い。


 子供たちを秀長殿に預けて。

 志乃と一緒に、その人――山科言継さまのところに向かった。


 山科言継さまはお屋形様とも親交のある公家の一人で、周りの大名を説得して朝廷に献金させて財力を回復させた人物だ。確か角倉からそんな話を聞いたことがある。

 その方の屋敷は公家風だったけど、ところどころ古びていた。


 名乗って用件を告げると、下人に部屋を案内された。そこでしばらく待っていると、山科さまがやってきた。

 痩せぎすの老人。総白髪。目がぎょろりとしている。まるで山伏か修行僧のような、厳しい修行をしてきたような、印象。

 背丈はそれほど大きくない。むしろ小柄だ。

 目の下の隈が凄い。腰も曲がっている。

 それはまるで寝る暇もないほど忙しく、腰が曲がるほど重いものを背負ってきた――


 不意に頭痛に襲われる――


「大丈夫? 雲之介?」


 隣で座っている志乃が心配そうに僕の背中をさする。


「あ、ああ。平気だよ……」

「そうか。頭が痛むのか……」


 よく通る声。みずみずしく老人とは思えない――


「すまないな。ああ、本当にすまない。全てわしの責任だ。本当にすまない……」


 山科さまは正座して、僕に深く頭を下げた。

 それは土下座だった。公家にあるまじき行ないだった。


「ど、どうして――」

「わしのせいだ。君が記憶を失ったのも、全てわしの責任だ」


 山科さまはそう言って、頭を上げた――泣いている。


「……山科さま。私は全てを聞いていません。雲之介にも一切話していません」


 志乃は感情を殺した声で言う。


「あなたさまの口から、雲之介に言ってください」

「ああ。そのつもりだ。分かっている。分かっているさ」


 涙を懐紙で拭きながら山科さまは僕に問う。


「猿丸……この名前に聞き覚えあるか?」

「……いえ。誰ですか?」


 答えると山科さまは一呼吸置いてから僕を指差す。


「――君のことだ」


 思わず息を飲む――


「猿丸。それが君の幼名だ。そして――わしの孫の名前でもある」


 山科さまは、僕に告げた。


「君の記憶を奪い、君を捨てたのは、わしの意思なんだ――」


 僕の記憶が語られる。

 僕の過去が語られる。

 僕の秘密が暴かれる。


 僕は変わるのだろうか。

 あるいは変わらないのだろうか。

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