三方ヶ原の戦いは、数刻ほどで終わった。
理由は武田家の兵があっさりと退いたからだ。
流石、武田信玄。機を見るのに聡かった。
自分が不利だと悟るやいなや、まだ包囲の整っていなかった後方を突破したんだ。
戦場に残されたのは、織田家と徳川家、そして武田家を合わせた死者およそ八千人だった。
その中には――森さまも含まれている。
「雲之介さん。これが――戦なのか」
夜が明けて、次第に日が差してきた早朝。
隣に居る雪之丞が僕に問う。目の前に広がる死体を目にしても吐き気を催さないのは凄いと思った。
僕が初めて死体を見たときは、蛆が這い回っているのを見て吐き出したものだ。
「ああ。これが戦だよ」
「……そうか」
「怖くなったかい?」
少しだけ意地悪な質問だった。
雪之丞は強がると思ったけど、素直に頷いた。
「これが武士になるってことなんだな」
「ああ。そうだね」
本当は戦後処理とかやらないといけないことばかりだったけど、何故か戦場を見つめている僕たち。
「……この戦で使った火薬は、五千貫ほどの銭を費やした。火薬だけでだ」
「…………」
「だけど、人の命は、五千貫じゃ足りない」
およそ八千人の命が数刻で失われた。
戦国乱世は、どうしてこう残酷なんだろうか。
「それでも、生き抜くためには、殺さないといけないんだろう?」
「……子供の君に言わせたくなかったな」
「何を言う? もうすぐ元服するんだ――」
雪之丞が険しい顔で言いかけたとき、後ろから声をかけられた。
「雲之介。そんなことで何をぼんやりしている?」
振り返るとそこには本多殿が居た。隣には榊原康政という徳川家でも随一の戦巧者も居た。榊原殿は細身で常に無表情。何を考えているのか分からない顔をしている。
「これは本多殿と榊原殿。あなた方こそ何を?」
「一晩中戦っていたので休んでいたのだ」
本多殿が首をこきりと鳴らして言う。
僕はお疲れさまですと言いかけて――
「そこの者。何故殺気を放っている?」
榊原殿が僕の隣に居る、雪之丞を指差した。
見ると野太刀に手をかけていた。
「雪之丞……?」
どうしたのか、訊ねようとして――
「……駄目だ。斬れない」
雪之丞が、刀から手を離した。
本多殿が険しい顔で僕たちを見つめる。
「まさかだと思うが、この者は武田の間者か何かか?」
「そ、そんなはずはないです! 雪之丞、どういうことだ?」
雪之丞はその場に座り込んで、俯いてしまった。
そして何も言わない。
「……こやつ。どこかで見たことがある」
本多殿がますます険しい顔で雪之丞を見る。
「いや、似ている者を知っていると言うのが、正しい」
「……おぬしが斬った者の縁者かもしれん」
榊原殿の指摘にびくりと身体を震わす雪之丞。
僕は――信じられない思いで言った。
「……初めて会ったとき、誰かに似ていると思ったけど」
「お前もか? ……ああ、分かった」
本多殿が手を叩いて、はっきりと思い出したみたいだった。
「真柄だ。真柄直隆に雰囲気が似ているんだ」
その名を聞いて、思い出す。
僕が鉄砲で撃ち。
本多殿がとどめを刺した。
あの猛将のことを――
「……ああ、そうだ。俺は真柄直隆の息子だよ」
顔を上げた雪之丞は――覚悟を決めた顔をしていた。
「あんたらに討たれた真柄の息子だ」
「……お前は織田家家臣か? それとも雨竜殿の家臣か?」
榊原殿が今更のようなことを訊ねる。
「雲之介さんの家臣だよ」
「そうか。復讐のために仕えたのか」
雪之丞は「ああ、そうだ」と認めた。
何故か淋しい気持ちが去来する。
「初めは、雲之介さんを殺して、その次にあんたを殺すつもりだったんだ」
「……ならばどうして、雲之介を殺さなかった?」
本多殿の指摘に雪之丞は悲しい顔で笑った。
「殺さなかったというより殺せなかった。もちろん隙だらけだったし、殺す機会は何度もあった。でも――」
深呼吸してから、答えてくれた。
「雲之介さん、優しいんだ」
思わず息を飲んでしまった。
「身寄りのない俺を気にかけてくれて。美味しいもん、たくさん食べさせてくれて。子飼いたちみたいな友人に会わせてくれて。命だって助けてくれた。それにこんな立派な野太刀をくれたりしたんだ。返しきれない恩ができてしまった」
「……つまり心動かされてしまったんだな」
本多殿は少しだけ僕を見てから視線を雪之丞に戻す。
決して油断をしない。
「雲之介さんが仇だって分かっていた。でもさ、この人の頬の傷、俺を助けるために負ってしまったんだ……そんな風に優しくされたら、殺せない……」
とうとう涙が溢れてしまった雪之丞に僕は何も言えない。
「なるほどな。先ほど斬れないと言ったのは、雨竜殿のことだったのだな」
「……康政。どういう意味だ?」
榊原殿は無表情で本多殿の疑問に答える。
「考えてみよ。おぬしを斬ってしまえば雨竜殿も斬らねばならん。仇なのだからな。しかしおぬしだけ斬ってしまっても、雨竜殿は何かしらの責を負わねばならん。良くて追放か悪くて切腹だろうな」
そこまで考えて、斬れないって言ったのか。
「それで、雲之介はどうするつもりだ?」
本多殿が僕に訊ねる。
「どうするって――」
「俺はこやつのことは不問にしていい。斬りかかったわけでもなく、未遂に終わったのだから。だがお前はどうする? このまま不問にしていいのか?」
正直、騙されたという思いはない。詳しく訊かなかった僕も悪いからだ。
しかしこのままでは雪之丞の気持ちが収まらない。
自責の念が膨らんでしまうだろう。
どうして良いのか悩んでいると――
「何を悩んでいるのだ。雨竜殿」
こちらに歩きながら言うのは、島だった。
「全部聞いていたのか?」
「まあな。しかしそんなことはどうでもいい。雨竜殿がどうしたいかが問題なのだ」
僕がどうしたいか――
「許すことは簡単だ。しかし許される者の気持ちになって、考えてやってくれ」
誰も傷つけない、たった一つの方法なんて、ありはしない。
だけど、僕は雪之丞を大事な家臣として思っている。
それは誰にも否定できないしされたくない。
「本多殿、お願いがあります」
僕は膝をつき、頭を下げた。
「雪之丞と――戦ってください」
◆◇◆◇
戦うと言っても、野太刀や槍は使わない。
木刀での勝負だった。
結果は――本多殿の勝ちだった。
「真柄の息子、確かに才は父譲りだな」
息を切らしながらも傷を負っていない本多殿。
大の字になって倒れている雪之丞。
「これで良かったのだな。雲之介」
「無理を言って申し訳ございません」
「これであのときの借りは返したぞ」
僕は「ありがとうございます」と礼を言って雪之丞に近づく。
「これで、満足したかな」
「…………」
「すっきりした顔になっているね」
「……あんたは本当の善人だな」
雪之丞は傷と痣だらけの顔で言う。
「これで復讐なんて考えられなくなった」
「それは良かった。狙い通りだ」
「……前言撤回だ。悪人の素質もある」
島も近づいて「善悪じゃ計れない優しさってやつだな」と笑った。彼に雪之丞が言う。
「島もありがとうな。あのまま許されたら立つ瀬がなかった」
「武士の情けだ。気にするな」
島が手を差し出す。その手を掴んで雪之丞は起き上がった。
「……父のことは覚えてないんだ。隠し子だったから」
「……そうか」
「でも父が死んだとき、母は後を追って死んだ」
「…………」
両親の仇だったんだ。僕は。
空を見上げる。そうしないと胸が張り裂けそうだったから。
「……雪之丞。僕の家臣のままで居てほしい」
僕は雪之丞に言った。
「君が居ないと駄目なんだ」
「いいのか? 俺は――」
「本多殿が不問にしてくれたんだ。僕が何か言うのは野暮ってもんだろう」
それから僕は言う。
「元服して真柄の家、継ぎなよ。秀吉には僕が言っておくから」
「……真柄の家を継ぐ?」
「ああ。名前も考えた」
僕は地面に文字を書く。
「真柄雪隆。父親の直隆の隆を受け継いでほしい」
「真柄、雪隆……」
雪之丞は繰り返し呟いた。
そしてにっこりと笑った。
「ああ、とてもいいな」
こうして、雪之丞は真柄雪隆となり元服した。
頼もしい若武者になったのだ。
僕の人生にとって得難い人になったんだ。
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