猿の内政官

~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
橋本洋一

ありがとう

公開日時: 2021年3月14日(日) 22:10
文字数:2,611

 施薬院に着いた。燃やされていない。でも、ところどころ壊されていて、特に門が破壊されていた。

 おそらく、無理に押し入ったのだろう。


 中に入ると、患者たちが泣いていたり、悔しがっていたり、そして全員僕を哀れむ目で見ていた。

 道三殿と玄朔が居た。二人とも僕の顔を見て、はっとする。それまで顔を伏せていたのに。

 まるで、何かを悼むように、顔を伏せていたのに。


「志乃は、晴太郎は、どこに居る?」


 僕は二人に訊ねた。玄朔が唾を飲み込みながら「晴太郎は、無事です」とだけ言った。

 晴太郎は……?


「奥の部屋で寝ています……」

「志乃はどこに居る?」

「それは……」


 僕は玄朔の着物を掴んで無理矢理立たせた。乱暴な行ないだけど、玄朔は文句一つ言わない。


「どこに居るんだ?」

「…………」


 答えなかったので、玄朔の頬を思いっきり殴る。

 倒れこんだ彼は、それでも何も言わなかった。


「志乃は、どこに居るんだ?」


 玄朔を再び立たせて問うと「右奥の寝室に寝かせていますよ」と道三殿が言う。

 哀れむ目つきで僕を見つめていた。


「そうか。じゃあ二人ともついて来てくれ。診てやってほしい」


 玄朔を乱暴に放して、僕は真っ先に志乃が寝ているところに行く。

 志乃は身篭っているんだ。

 僧兵に襲われて、きっと怖い思いをしたんだろう。

 母子ともに大丈夫だと良いけど。


 寝室を開けた。

 志乃は布団に寝かされていた。

 真っ青な顔で、死に装束だった。


 

◆◇◆◇


 

「嘘でしょ……」


 後ろで半兵衛さんの声がする。

 振り返ると秀長殿たちが居た。

 正勝も長政も居た。


 全員、分かっていた。

 僕も、分かっていた。


「ねえ。曲直瀬道三でしょ、あなた。知っているわよ。医聖って呼ばれている名医でしょ」

「半兵衛、よさないか」


 半兵衛さんが道三殿に詰め寄った。

 それを正勝が止める。


「ねえ治してよ。すぐに、いますぐに!」

「……無理です。いくらわしでも、死人は――」

「ふざけないでよ! 良いから治しなさいよ!」


 半兵衛さんが道三殿の首元を掴む。


「やめろって言ってんだろ! 半兵衛!」


 正勝が、半兵衛さんを、道三殿から引き剥がした。


「死人を治すなんて、できっこねえ!」


 死人、死人か……


「雲之介ちゃんから、志乃ちゃんを奪わないであげて! お願いだから、生き返らせてあげてよ! 後生だから……」


 泣き崩れる半兵衛さんを長政が支える。

 秀長殿も泣いていた。手で顔を覆って、泣いていた。


「しばらく、志乃と二人きりにしてくれ」


 自分でも恐ろしいほど、かすれた声だった。

 全員、何かを言おうとして、何も言わずに、黙って下がった。


 襖を閉めて、志乃を見る。

 どこか、覚悟しているような顔。

 だけど、少しだけ苦しみも混じっている。


『あなたは――悪くない』


 いつか、初めて人を殺したとき、慰めてくれた言葉。

 何故だろう。志乃が遠くに感じる。

 そっと頬を撫でる。冷たくなっている。


『当たり前よ! 心から、あなたを愛しているわ!』


 そう言ってくれた志乃。

 僕が愛した、妻。

 それが遠くに遠くに感じる。


「志乃。いつだったか、言ってくれたね。太平の世になったら、百姓になって、静かに暮らそうって」


 志乃は答えない。


「悪くないと思ってしまったんだ。穏やかに、何も思い煩うこともなく、暮らせたらどれだけ幸せだろうか」


 志乃は答えない。


「初めて言うけどさ。志乃の髪、好きだったんだ」


 志乃の髪をかき上げる。

 志乃は答えない。


「どうして、こうなっちゃったんだろうね……」


 志乃は答えない。

 志乃は答えない。

 志乃は――答えない。

 ようやく、僕は、志乃が死んだことを、認められた。


 

◆◇◆◇


 

 襖を開けると、みんなが正座をして待っていた。


「兄弟、それは……」

「……ああ、志乃の髪だ」


 僕は不自然にならない程度に、髪を切った。


「志乃の遺髪、持っていようと思って」

「あ、ああ……そうだな……」


 何か言いたげな正勝だったけど、何も言わなかった。


「それで、晴太郎はどこに居る? 無事だって言っていたけど」

「……怪我はありません。でも、心に大きな傷を受けました」


 玄朔が医師として言う。


「大きな傷?」

「……志乃さんが殺されたところを、見てしまったらしいです」


 繊細な晴太郎らしいな。


「……分かった。詳しい話が聞きたい。二人はその場に居たのか?」


 道三殿と玄朔に訊ねると「いえ、居ませんでした」と不在だったと告げられた。


「今、明里が帰ってきました。彼女なら知っています」

「そう。じゃあ聞こうか」


 玄朔がそう言ったので、僕は居間に向かう。


「雲之介……」


 長政が僕と話したいようだった。足を止める。


「なんだい? 長政」

「あまり、無理をするなよ」


 僕は「無理しているって自覚しているよ」と言って――笑った。

 無理矢理に、笑った。


「でもね。そうしないと死にたくなるんだ」


 

◆◇◆◇


 

 明里はまるで処刑される直前の罪人のように青ざめていた。

 僕はそんな彼女の前に座る。


「何があったのか。教えてくれるかな」


 明里は泣きながら、涙を零しながら、語り出す。


「そ、僧兵が、押し入って――」

「それで?」

「志乃さんが、皆を守って、前に立って……」

「それで?」

「――殺されました」


 いまいち要領を得なかったけど。

 志乃がみんなのために死んだことは分かった。


「そうか……志乃は、みんなのために、死んだのか」


 みんなのせいで、とは言えなかった。


「そのとき、志乃さんの水晶を僧兵は奪いました」

「ああ、そういえば、なかったね」

「しばらくの間、志乃さんは息がありました」

「志乃の最期の言葉、分かるかな?」


 明里は身体を震わせて、長い時間をかけて、言ってくれた。


「志乃さんは、『ありがとう、雲之介』と……」


 僕は目を閉じて、志乃を思い出す。

 浮かぶのは、笑顔だった。

 太陽のように明るい笑顔だった。


「落ち着いたら、また話してくれ」


 泣き崩れた明里にそう言い残して、僕は立ち上がる。

 この場に居たくなかったから、僕は施薬院を出た。


「おい、どこに行くんだ!」


 正勝が僕の肩を掴む。

 いつの間にか、仲間に囲まれていた。


「ここに居たくない……」

「気持ちは分かるけどよ。晴太郎は……」

「連れて来てくれ。今日は二条城で寝る」


 正勝の肩を握る力が強くなる。


「……分かった。長政殿、晴太郎を」


 秀長殿の言葉で、長政が晴太郎を背負ってきてくれた。

 苦悶の表情で魘されている。


「ありがとう。みんな」


 それしか言えなかった。


「一晩寝たら、長浜に帰っていいかな」

「…………」

「かすみに、言わないと」


 ああ、そうだった。

 志乃に言わないと。

 僕も愛しているよ。

 さようなら、志乃。

 今まで、ありがとう。

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