猿の内政官

~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
橋本洋一

決死のしんがり

公開日時: 2021年3月18日(木) 09:29
文字数:2,552

「ば、馬鹿なことを言うな……し、死ぬ気か……!」


 秀吉が涙を流しながら僕に近寄る――それを制しながら、僕は笑ったまま続けた。


「吉川の兵に勝てるとは思えない。それでも僕が残るしかないんだ」

「だから――馬鹿なことを申すな! おぬしが死ぬと分かって行けるものか!」


 さらに近づく秀吉に僕は「でも誰かが残らないといけないだろ」と説得する。


「五千の兵さえあれば、全軍が姫路城まで撤退できる時間は稼げる。僕が戦下手でもね。あ、そうそう。秀晴と家臣は一緒に連れていってくれ」

「何を勝手に――」

「秀晴。雨竜家のこと、任せたよ」


 僕は本陣で隣に座っていた秀晴に言う。

 秀晴は――俯いたまま、何も言わない。


「そんな! 雲之介さん! それなら俺も残るよ!」

「先生一人だけ残せません!」


 若い将――清正と三成が立ち上がる。

 僕は「黙れ!」と怒鳴る。

 二人は動きを止めた。そういえば彼らに怒鳴ったことはなかった。


「君たちはまだ若い! ここで死んでは駄目だ!」

「でも先生!」

「三成! 君が僕の跡を引き継げ!」


 僕はなおも食い下がる三成に「僕の代わりに内政官として秀吉の力になってくれ」と頼んだ。


「君なら十全に引き継げる。秀吉の側近となって、治世に力を貸してやってくれ」

「せ、先生……」


 突然、正勝が立ち上がって、僕の胸ぐらを掴んだ。

 静かに涙を流していた。


「兄弟。お前本気で言っているのか?」

「冗談でそんなこと言えないよ」

「妻子はどうする? そいつらになんて言えばいいんだ俺は」


 僕は「ありのまま、伝えてくれればいい」と笑った。


「吉川元春の軍と勇敢に戦ったってね」

「はっ。格好付けやがって」

「それにまだ、死ぬとは決まったわけじゃない」


 僕は掴んだままの正勝の手を持った。


「案外、あっさりと生き残るかもしれないぞ?」

「……そうだよな。お前はそういう奴だった」


 秀長殿は「清正。兄者を頼む」と言って立ち上がった。

 僕と目を合わせて言う。


「本当に良いんだね?」

「秀長殿。今までお世話になりました」


 秀長殿は涙を流すことなく、まるで晴れやかな空のように僕を見た。


「君はいつも私を立ててくれた。君こそ筆頭に相応しいのに」

「僕はあなたには勝てませんよ。秀吉を補佐できるのは、あなたしかない」


 それから僕は昔の秘密を打ち明ける。


「実を言うと、秀長殿のことを嫉妬していた時期がありました」

「奇遇だね。私も――雲之介を羨ましく思っていた」


 そして秀長殿は秀吉の腕を取った。反対側は清正だった。


「な、何をする!?」

「行くんだ。雲之介が防いでいる間に」

「馬鹿なことを――」


 秀吉は引きずられながら、大声で喚き散らした。


「雲之介! わしはおぬしにこんなことをさせるために、あの日拾ったわけではない!」


 秀吉が無理矢理本陣を出されるとき、僕は頭を下げた。


「今まで、お世話になりました」

「――っ! 雲之介ぇ!」


 秀吉が去って、静かになって。

 それから長政が言う。


「お市には、なんと伝える?」

「……格好良く死んだと伝えてくれ」

「それは駄目だ」


 長政は真剣な表情で言った。


「格好悪く生き残ってくれ」

「……長政」

「お市を悲しませるのは、もう嫌なんだ」


 長政は正勝の肩を叩いて、二人はそのまま出て行く。

 三成も僕に一礼して、その場を去った。


「まったく酔狂だな。ひひひ」


 官兵衛が笑いながら杖を使って立ち上がる。


「あんとき語った夢はどうするんだよって話だ」

「官兵衛。頼みがある」

「なんだ? ふひひ」

「秀吉を助けてやってくれ」


 官兵衛は「半兵衛さんにも同じこと言われたぜ」と苦笑した。


「死にゆく人間。それも二人にそう言われちゃ守らないといけないな」

「ごめんな。重荷を背負わせて」

「良いってことよ。そんじゃ最後は息子と話でもしな」


 官兵衛はゆっくりと本陣を出た。

 そして秀晴と僕だけが残った。


「……父さまはいつもそうだ」


 不満そうというか、拗ねた感じで、秀晴は言う。


「いつもいいところを持っていく。ここで食い止めて、羽柴さまが明智を討てば、英雄として後世に名を残せるじゃないですか」

「ふふふ。まあね」

「……はるさんのこと、未亡人にしていいんですか?」


 僕は困ったように頬を掻いて、それから「まあ仕方ないな」とだけ言った。


「雹だってほとんど父さまのことを知らない。それでもいいんですか?」

「良くないだろうけど、仕方ないよな」

「……本当に、身勝手な人だ」


 秀晴は立ち上がって、僕を見つめた。

 そうか。もう僕の背を越えたんだな。

 大きくなったものだ。


「俺は父さまのことを好きとは言えません。まったく理解できませんでした」

「……そうだろうね」

「でも、全部が嫌いではありませんでした。今まで一緒に暮らしていた思い出があるから」


 秀晴は僕に頭を下げた。


「雨竜家のこと、任せてください」


 少しだけ志乃に似ている言い方だった。

 志乃、君は秀晴の中で血として、肉として、骨として生きているんだな。


「ああ。任せたよ」


 そして秀晴も本陣から去っていった。

 しばらく本陣に一人で居て。

 それから外に出る。

 そこにはずらりと並んだ兵と――三人の家臣が居た。


「……どうして、逃げなかったんだ?」


 雪隆、島、頼廉に怒ったものか、それとも困ったものか、悩んだように訊ねると、雪隆が笑って言う。


「何言ってるんだ? あんたは『猿の内政官』だろ?」


 島が肩を竦めた。


「軍略に暗い殿では兵を無駄死にさせるだけだ。だから残った」


 頼廉は手を合わせて言う。


「若はもう撤退しました。それに雨竜殿を見捨てるなどできやしないでしょう」

「皆……」


 そして、意外な人物も残っていた。

 宇喜多家の客将である山中幸盛殿だった。


「山中殿も……」

「微力ながら、二千の兵を宇喜多殿から借りた。合わせて七千で食い止めよう」

「そうじゃない。どうして残ったんだ?」


 山中殿は不敵に笑った。


「あなたが居なければ、上月城で死んでいた。一度失った命、恩人のために返そうと思ったんだ」


 僕はそんな四人になんて報いればいいのか、分からなかった。

 だから――にっこりと微笑んだ。


「ありがとう。皆の命、僕に預けてくれ」


 家臣と山中殿は頷いた。

 僕は兵たちに言う。


「和睦を破り、信義を失った、吉川元春を倒すぞ!」


 兵たちは一斉に「応!」と叫んだ。


 僕は目を瞑った。

 志乃、もうすぐ会えるね。

 懐に仕舞ってある遺髪が入ったお守りを触る。


 僕は目を開けた。

 さあ、戦下手の最後の足掻きを見せよう。

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