私は翌日おばあちゃんに逐一報告した。するとおばあちゃんは「それは無縁仏だねえ」と呑気に言っていた。
「きっとお礼に来たんだね」
「お礼? おばあちゃん、僕怖くてどうにかなりそうだったよ」
「大丈夫さー。感謝しに来たと思うよー」
「そうなの?」
「んだー」
私はそれからというもの、感謝されに来たとはいえ、あの経験はとても怖く、自分が平穏無事でいられないので、もう無縁仏を拝むことはやめた。
無縁仏も拝むおばあちゃんは一体全体何者だろう? おばあちゃんは霊感があった。それはそれは、いろんな経験をしている。おばさんと二人で、会話していた時、
「ねえ、お母さんとわたし、井戸に向かって、ぎゃーぎゃー、喚きながら走っていく女性を見たんだよ。しかもね、彼女の頭には耳が生えていたの」
私は話を聞きながら、驚く。ぶるぶるぶるぶる。
「それ本当?」私。
「本当、本当、おばあちゃんに聞いてごらん。しかもこの家ね、霊の通り道なんだよ。だから、いろんな霊が通っていくの」
私は聞きながら泣きそうになったのを思い出す。おばさんは、いろんな体験をした。派手なおばさんだった。美人だけど、なんか田舎にふさわしくない、というか。東京のど真ん中で、煙草を吸っているイメージ。ここでは話せない、いろんな経験もしている。時折実家であるおじいちゃんの家に顔を出していた。私はものすごくこの人が好きだった。話も面白いし、美人だし、でもどこか浮世離れしていて、自分の住む子どもという世界とはかけ離れていた。
七月の半ばは、猫のどらと終日遊んでいた。そして時折、犬のペロを家の中に入れ、一人と二匹は遊んだ。どらはペロを見ても、何とも思わない。ペロも吠えることをしない。家族意識が芽生えているのだろうか。ウサギのミミちゃんは出さなかった。どっか遠くに逃げてしまうのだ、彼女は。
「ねえどら、どうしてどらはそんなにめんこいの?」私がお道化てそう聞いてみる。
すると猫のどらは、ごろごろにゃー、と言って、うたたねを始めてしまう。
本当に動物は可愛らしい。犬のペロは私の膝でまどろんでいる。そしておばあちゃんの足音が聞こえると、はっ、と起きて、おばあちゃんだと認識すると、またまどろみの中に入っていく。
「ねえ、おばあちゃん」
「何だい?」
「生き物ってかわいいね」
「そりゃそうさ。うちの孫には敵わないけどね。でも、どらもペロもミミちゃんも家族なんだよ。精一杯愛してあげなさい」
「うん! 分かった」
私は動物に囲まれて満たされた思いであった。
その頃の私は、動物と人間の命を天秤にかけられなかったと思う。どちらも貴重な存在。人間も動物も尊いもの、そんな意識があったと思う。今、大人になって考えてみると、法律上、人間の命は動物より重い。けれど、愛犬の命とニュースで報道される亡くなった方の命を比べると、やはり愛犬のほうが重い気がした。なんとも不可解な生き物だと思う、人間というのは。理性が備わり、感性が備わり、理性的に生きているようで、実は感性的な生き物ではないかと、感じる。
六歳の私は命の大切さを、少しずつ理解できた気がする。でも、時折、自分は悪魔じゃないかと思うことがある。ここに座っている猫のどらの頭をひねったら、どうなるのだろう? 犬のペロの首を切ったらどうなるのだろう? ミミちゃんの目を抉ったらどうなるのだろう? 私は時折、そんなことを想像して、罪悪感に苛まれた。もちろんそんなことをしなかったが。私は最悪のことをつい考えてしまう子供だったのだ。
自分は悪魔じゃないだろうか? こんなことを考えていた。
ちょっと憂鬱にもなった。動物をひねり殺す自分? 自分はなんておぞましい人間なんだろう。
色々な妄想というのは、子供につきものである。子供は元来天才的夢想家だ。子供は大人が思った以上に、感じ、考える時がある。それがどんなに繊細な点であったとしても、だ。
そんなある日、おばあちゃんの家の近くにある川の畔を歩いていた。森は青く滴り、山が全体を震わせて歌っている、そんな黄金の夏だった。
私はうつらうつらとしながら、自然を眺めていた。そこには生命の息吹が感じられる、偉大な何かがあったのかもしれない。私はうっとりとして、まどろんでいた。
すると小さな水たまりの中に、死んでいるおたまじゃくしを見つけた。私は可哀そうだな、と思い、そのおたまじゃくしをすくい上げ、近くにお墓を作ってあげた。
小さく穴を掘り、そこにおたまじゃくしを放り、埋めた。これでおたまじゃくしは神様の下に行けるかな? 私はそう願った。
私はそれから一心に拝んだ。どうか神様の下に帰れますように。
すると一筋の涙が流れた。私はどうして死があるのだろうと考えた。生きとし生けるものに、最後死が訪れる。何故生命があるのだろう? 何故死があるのだろう? そんな哲学的問答をしていたと思う。結局、大人になった今でも分からない大問題を、子どもなりに考えていたのだ。
考えて、考えて、行動しようと思った。そう行動こそが、自分を表現することなんだと、思っていた。
おたまじゃくしを飼いたいと願った。おたまじゃくしを飼うことで、彼らの命を救済する何か神まがいの存在になりたいと、思ったのかもしれない。救える命は救う、しかし、果たしてそれは人間の傲慢ではなかったのではないか。命の運命を操る人間は時に恐ろしい存在となる。そして人間もまた生きている、のである。
おばあちゃんの家に帰り、台所でお昼を準備しているおばあちゃんに、
「おたまじゃくしを飼いたい」と願い出た。
「あらー、どうしたの?」
「おたまじゃくしが死んでいたんだ。きっとこれからも死んでしまうおたまじゃくしが出てくる。僕が飼って、お世話したい」
「あらまあ、それなら、何か入れるものが必要だねえ」
「あそこにある、おじいちゃんがいつも飲む、大五郎の空になったペットボトル借りていい?」
するとおばあちゃんは、それを持ってきた。
「はいよ」
「ありがとー」
私はそれから、おたまじゃくしがいる水辺に足を運んだ。太陽が獰猛なほどに輝いていた。
僕は救世主なんだ。そんなことを考えながら、自分が正義のヒーローになったみたいに、はしゃいでいた。
おたまじゃくしを沢山掬い上げ、私はにんまりと笑い、それを家に持ち帰った。
きっとおたまじゃくしは自然の中で生きたかったと思う。私はそんなことを寸も思わず、自分が愚かだったとはまだ気づけなかった。
子供の正義の心というのは時に残酷かもしれない。それはエゴの押し付けなのかもしれない。
私は猫のどらを隣にして、撫でながら、大量のおたまじゃくしが入った、大五郎のペットボトルに、パンを砕いたものを沢山入れた。するとおたまじゃくしは、そこに群がり、ぱくぱくと食べた。私はこの時、幸福感を得た。私は幼い子供をあやすように、おたまじゃくしを可愛がった。私は父親というのはこんな具合のものだろうかと、思った。果たして私は動物に囲まれて、生き物を愛した。
ぱくぱく、ぱくぱく、おたまじゃくしが餌を食べる。私は微笑んだ。
「どらお食べ」
そう言って私はパンくずをあげた。どらは嬉しがって、喉をごろごろ鳴らし、ぱくっと食らいつく。
「みんな可愛いなあ。いいなあ生き物って」
私は心からそう感じた。
夕日が沈んでいく。本当に綺麗な夕日だ。太陽は何て綺麗なんだろう。太陽の光が雲々に化粧を施しているような、美しさだった。
私は保育園で、沢山友達を作っていた。それで、友達にも動物が好きだということを話していた。
友達の女の子は犬が好きだと言っていた。私はどんな犬か聞きながら、色々想像するのが楽しかった。
私は保育園の生活も好きであったが、おばあちゃんの家の方が楽しかった。
今日はプール開きであった。プールは好きだ。
私は泳ぐのが苦手だった。けれどプールの水の中でゆらゆらと沈んでいると、おたまじゃくしの気持ちが少し分かった気がした。おたまじゃくしも、大五郎のペットボトルの中で、満たされた生活を送っているのだろう。私はそう感じた。
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