雲隠零は、教室の窓際の席に座りながら、そっと視線を送る。
その先には、陽の光を浴びながら友達と楽しそうに笑う少女――椎名陽菜の姿があった。
彼女は明るく、周囲の人を惹きつける魅力を持っていた。
成績も優秀で、運動神経も良い。
何より、その朗らかな笑顔が、零の胸を締めつける。
(……こんなに近くにいるのに、話したこともない)
幼馴染――その言葉だけを頼りに、ずっと片想いを続けてきた。
本当は、話しかけるチャンスなんていくらでもあったのかもしれない。
けれど、零にとって陽菜は遠い存在だった。
彼女の世界は明るすぎて、自分が踏み込んでいいものとは思えなかったのだ。
——しかし、零が本当に“遠い存在”を知ったのは、もっと昔のことだった。
それは、10年前のある夜のこと。
零は家族と車に乗っていた。
両親の運転する車の後部座席で、兄と一緒に退屈そうに外を眺めていた。
「ねえ、お母さん、あとどのくらい?」
「もうすぐよ、零」
そんな何気ない会話を最後に、世界は一瞬で変わった。
目の前に飛び込んできたのは、暴走するトラックのヘッドライト。
激しい衝撃。
車が横転し、ガラスが砕け散る音。
耳鳴りのような音の中、零は宙に投げ出された。
次に意識を取り戻したとき、目の前にあったのは、血まみれになった車体。
そして、動かなくなった家族の姿だった。
「……お母さん?」
呼びかけても、返事はなかった。
零の体は、ほとんど動かなかった。
痛みも、寒さも、すべてが遠のいていくようだった。
(……もう、死ぬんだ)
漠然と、そう思った。
——その時だった。
「助けてやろうか?」
不意に、誰かの声がした。
気づくと、目の前に“それ”がいた。
男とも女ともつかない、不気味な美貌を持つ者。
深紅の瞳をした、黒衣の人物――悪魔。
「お前の命、あと少しで尽きるぞ」
「……だって、もう……いいよ」
家族がいないのなら、生きていても仕方がない。
そう思った。
だが、悪魔はくすりと笑った。
「ならば、お前の“半分”を差し出せ」
「……はんぶん?」
「そうだ。お前の人生の“半分”を差し出せば、生かしてやろう」
零は、その言葉の意味を深く考えることができなかった。
ただ、死にたくはなかった。
「……いいよ」
小さな声でそう答えた瞬間、悪魔は満足そうに微笑み、零の体が熱を帯びた。
——そして、それから10年。
零は生き延びたが、同時に気づいた。
「半分」とは、寿命のことであり、性別のことであり、そして、人格のことでもあったのだと。
昼の零と、夜の零子。
一つの体を二つの人格が共有する、奇妙な人生。
両親も兄弟もいないこの世界で、零は一人で生きることになった。
けれど、そんな零にも――たった一人、ずっと心に残っている人がいた。
それが、幼馴染の椎名陽菜だった。
——そして、太陽が沈むと、零の世界は再び一変する。
時計の針が午後6時を指すころ、零はそっとため息をつきながら家に帰る。
学校から帰ると、すぐに部屋にこもり、カーテンを閉めた。
窓から差し込む夕陽が、紫色に変わりはじめる。
——そろそろだ。
鏡の前に立ち、ゆっくりと目を閉じる。
そして、体がふわりと熱を帯び、零の意識が一瞬遠のく。
「……っ」
次の瞬間、零の姿は変わっていた。
鏡に映るのは、肩まで伸びた黒髪の少女。
大きな瞳、華奢な体つき。
そして――零が夜の間だけ過ごすもう一つの姿、“零子”の姿だった。
(また……この体か)
だが、次の瞬間、零の思考は霧がかったように薄れていく。
自分が誰なのか、何を考えていたのか――まるで遠い過去のことのように感じられる。
代わりに、意識の奥から、まるで違う感覚が浮かび上がる。
(……今日は何をしようかな?)
零子は、鏡の中の自分を見つめ、軽く髪を整える。
「ふふっ、やっぱりこの髪、ちょっと長いよね」
零とは違う、高めの声が自然と口をついて出る。
彼女にとって、それは当たり前のことだった。
「バイト、遅れちゃう。早く行かなきゃ」
彼女は軽やかに服を選び、家を出る。
足取りも軽く、表情も柔らかい。
もう「零」はいない。
今ここにいるのは、「零子」ただ一人だった。
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