もののふの星

火星のジャンヌ・ダルク ルナン・クレール伝 Vol.1
梶 一誠
梶 一誠

第三話 軌道要塞・オービットフォートレスの世界

公開日時: 2021年9月12日(日) 12:31
更新日時: 2021年10月10日(日) 16:08
文字数:15,057

第三話です。今回は前回の騒動のメインキャラ二人だけの反省会から、これまでの火星移住に関する歴史と彼女たちの世界がどう移り変わったのかを描写する回となっています。

何故、火星への移民たちは火星その物に住めないのか?そのあたりを中心に展開されます。

 「どうだ、少しは落ぢ着いだがや?いったいどうしたんさねぇ」アメリアは“スルタンのハーレム”を照らす明かりを一つ一つ落としながらルナンに尋ねた。自分たちの頭上にある照明のみ残し、あとは暗闇が幅を利かせるにまかせた。

 大型液晶モニターの映像はいつしか船外監視カメラの映像に切り替わり現在、そこには太陽系第四惑星の火星がほぼバスケットボール大の大きさで映しだされていた。赤茶けた色の茫漠たる荒野しか存在しないこの惑星は、いつもと変わりない表情を向けている。

「……悔しくないと言えば嘘になる。全てケイト・シャンブラー博士の言うとおりさ。すぐに今までトップエースでござい、とブイブイ言わせていた連中が壇上から引き摺り下ろされる。考えるにつけ恐ろしいよ。あのカニのような無人機動兵器が縦横無尽に飛び廻り、有人の艦載攻撃艇を乗員ごと撃墜していく様を想像するとね。」ルナンはそう言うと、自分の頭上で唯一つ点灯している照明を仰ぎ目を細めた。

「正直、手が出なかったよ……。勝手が違いすぎる。こちらも管制射撃AIでランダム予測射撃を行っても、全てウラをかかれていいように叩かれた!」

「そっちじゃねえよ。ほれっ、コーヒーだ。うん。これはまあ、いいほうだな」とアメリアが紙コップを差し出した。

 アメリアは律儀りちぎにもルナンにつき合い、彼女のすぐ隣に腰を下ろした。二人は天井近くに設置されている大型モニターに間近のソファーに腰掛け、この日何杯目かの不味いドリンクをすする。つい先刻、『海賊にさらわれた経験でも……』と言う何気ない言葉でルナンがケイトにつかみ掛かった騒ぎの余波で未だに眠りにつけずにいたのだった。

「……」

「おめはぁ、いつも海賊掃討となると血相変えやがるべぇ。なんぞあったん?」と、アメリアは親友の顔を覗き込むも、ルナンは黙したまま、カップの中身に視線を注ぐばかり。

「いや、おらはてっきり……な。でなきゃあんな怒り方はしねぇって思ってよ。言いたくなきゃ別に」

「オレの双子の妹は“本土病”で亡くなったよ。……奴らの被害に会った訳じゃない」ぼそりとルナンはまた天井を見上げて呟いた。

「そうだったなぁ……なに家族の事だがらぁ」

「アメリア、さっきはありがとうな。つい、カッとなっちまった」

 ようやくルナンは伏し目がちに親友に顔を向けるものの、肩を落とし消え入るような声だった。アメリアはそんな相棒の頭をくしゃくしゃに撫でる。

「ケイトは……ネットTVや何かで聞きかじった事を口にしただけだと思うんだ。悪意は無いって判ってる。けど……オレ達は実際の被害者を見ているんだよなぁ」アメリアは空いた手をルナンの肩に回して自分の方に抱き寄せた。

「親を殺された子供たちの暗い表情に……保護したがもうお腹がふくれている少女たち。オレら海軍はいつだって遅い!」

「ああ、やりきれねぇなぁ。拿捕した海賊船には前の掃討作戦でしょっ引いた連中が復職してたりよぉ!いっぐら叩いでもゴキブリみたいに湧いてくるっぺよ」


「もう何の希望も無く、呆けてしまって悄然となったあの娘らの顔が浮かんでしまったんだ……あの時な」

 二人はため息をつくと、ほぼ同時に天井を見上げ暫し沈黙が支配した。暗がりが跋扈するスルタンのハーレムには自販機のモーター音と時おりモニター画面が切り替わる電子音が響くのみ。そんな中で色が付いているだけの白湯さゆのようなコーヒーを何口かすすった後に口を開いたのはルナンだった。

「でもなアメリア、ケイトの“アクティブドローン”あれは使えるぜ」と、戦闘前に見せる鷹のような眼を親友に向けた。

「あの鉤ツメ式の脚部で船体に取り付かれたら後はもう手が出せない!あのアクティヴ・ドローンに内蔵される予定の対艦攻撃用陽電子プロトンレーザーが戦艦だろうが、空母だろうがお構いなしに穴だらけにする。何もケーキみたいにぶった切る必要なんてない。ほんの、ゴルフボール大の大きさの穴を穿うがってやれば、後は圧力隔壁が崩壊。内部から圧壊していく……。」

「なんだよ、どうしたいんだよ?」隣でアメリアもコーヒーを舐めている。

「母船を一隻用意して、あの自律型ドローンを十数機搭載。一機で周囲の空間千キロメートル単位を索敵できれば有効な海賊対策になる。あの機動力をもってすれば海賊共のちゃちな仮装巡洋艦なんぞ敵じゃないって思うんだな……オレはさ」

 ルナンは先程とはまるで別人のように冷静かつ熱く新型兵器の自分なりの用兵案を捻り出そうとしていた。

 アメリアはこういう所がコイツの良い所だと、一度はふさぎ込んでもすぐさま立ち直り、次のアクションをおこそうとする友を見つめて、口の端を上げうっすらと笑みを浮かべた。

「それに……欲しいな。あのケイト・シャンブラーが、……欲しい!」とルナンはつぶやくとコーヒーの紙コップに噛り付くようにしてすする。目はモニター上の火星の姿を凝視したまま。

「そうだな。インド系の可愛い子ちゃんだしなぁ。気に入っちゃったかぁ?」アメリアはニヤニヤしながら相棒の顔を下のほうから覗き込んだ。

「そういう意味じゃないよ!あの娘に一〇〇機以上のドローン大隊を指揮させてみたいんだ。今日、二回目の撃沈マークを付けられた時にそう考えたんだ。これからの大海戦の鍵を握るのはドローン!より高機動型で機動兵器の大軍が雌雄を決するんだよ」と、言うなり金髪の髪をくしゃくしゃにかきむしる。

「また、おめの”欲しい”が始まった。おらの時は艦艇制圧専門の突入部隊を創設したい、お前はおらに隊長をやれって言ったよなぁ、キサラギ・スズヤ、アイツを引き取った時は自分の身辺警護を任せる剣豪、先陣を務めるポイントゲッターに育てたい……と。今度はアクティヴ・ドローン軍団の指揮官か?全く次から次へと……。欲しいものを全て手に入れて『火星大公ロードオブマルス』でも目指すんかい?」と、言うとアメリアも火星の映像に見入った。

「悪くないな!天下獲ったるか」ルナンは破顔一笑してこう言った後、同じようにモニターに目を移した。

 二人はしばらく無言でその赤い惑星の映像をぼんやりと眺めた。やがてルナンが口を開いた。

「何年になる?」

「何が?」

「我らのご先祖が故郷の青く美しい地球を進発して、この惑星を新天地にしようとしてからだよ」

 ルナンの質問にアメリアは腕を組んで、薄暗い天井を見つめて自分の記憶を辿りはじめが

「おら、歴史得意じゃねぇのは知ってんべ」と、即答。

「まあ、ざっくりで一五〇年だよ」

「情けないじゃないか。それほどの時間と膨大な費用と労力をかけても火星、オレ達の言う『本土』には未だに一つの殖民村も建設されていないんだからなぁ」ルナンはゆっくりと立ち上がった。

「しょうがねえべ!火星本土全域には、おっかない『ブロウ・ド・マルス』っていうウィルスが蔓延はびこっているんだぞ!一度感染したら、まず助からない。致死率九五パーセントの見えない死神さね。このウィルスの猛威であたしらのご先祖は滅亡しかかったんだ。……何て言ったかなぁ?この事件の名前は……?ひ、ひゃく」

「『百家ひゃっか災厄さいやく』だよ。まだ、火星統合暦が施行される前、地球西暦で2080年代の頃さ」


 『百家の災厄』とは火星を新たな故郷、人類の版図として改造を試みた惑星移住者たちにとって決して忘れ得ない、壊滅的被害をもたらした忌まわしき大事件として記憶されている物である。

 人類史上初の惑星殖民事業が夢物語でなく現実的な世界的事業として脚光を浴び、先進国を始め各国が挙って名乗りを挙げた背景には、地球西暦二〇五〇年代に本格的な人類全体の脅威となった環境異変にあった。

 二一世紀の初頭から各分野の科学者、環境活動家が危惧と警告を表明していたにも拘わらず、当時の為政者たちのおざなりな対策が実を結ばなかったばかりか問題の本質に目をつぶり目先の経済効果を追求し続け、半ば放置したツケは大きすぎた。

 世界規模の海面上昇が沿岸部大都市をことごとく水没させる事態に至り、初めて国連主導による具体案が二つ提示された。

一つは内陸部の地下都市建設計画。あと一つが火星への移住入植計画であった。

具体的かつ技術的に確実性を持った地下都市建設はどこか逃避的なイメージが伴うのに対し、火星への移住は未来への限りない飛躍を想起させるに容易たやすく、世界を牛耳る資本家陣はより派手でキャンペーン効果の大きい移住案を強く推した。もちろんこれには子飼いの民間宇宙船舶建造会社等への大規模な投資と株価高騰を狙った物であり、資本家の徒弟とてい同然たる為政者らは自国に増え続ける難民対策にかこつけて諸手を挙げたに過ぎなかった。

 事態がのっぴきならない段階に至ってもなお、全世界の富をむさぼる一部の人間たちが目先の利益を最優先にさせ、遂には人類共通の未来を決めてしまったのだ。世界中がこのキャンペーンに沸き立つ中、十代の頃より高名だった環境活動家はこう述懐している。  

「初めから判っていた事ではありませんか。こうなる事は。私は自分の子や孫をあんな惑星に送りたくはありません。絶対に!」更にこうも付け加えている。         

「無理な計画、ゴリ押しは必ずどこかで破綻するでしょう。それがこの惑星の中なのか外なのかは私にも分かりません。ただ判っているのはあちらで起きた事なら、我々の為政者は知らぬふりを決め込むという事だけです」

  事実、政府関係者並びに世間に名の知れたセレブ連中の一族は誰一人として、宇宙の海を押し渡った者はいなかった。

 地球西暦における二〇八二年の事。

これまでの様々な問題をクリアーしつつ、何とか植民事業が軌道に乗り始めたと思われていたこの年にその危惧は現実となった。

 当時、火星開発の最前線基地として改造された衛星フォボス。この地に『火星移民管理局』が二〇六〇年代から活動していた。管理局が火星本土に生活基盤を築いた移民者に対し、惑星環境に重大な影響を及ぼす恐れがあるとして禁止していた項目がいくつかあった。その中に不慮の事故、或いは加齢により亡くなった人の遺体を荼毘だびに付す事無く、昔ながらの土葬を行ってはならないという事項が存在した。もちろん多種多様な民族で構成された移住者たちは入植前、誓約書に禁止事項を尊守する旨のサインした上で火星に降り立ったわけだが。

 中には遺体を焼却する事自体一族の宗旨にわないという理由から、禁止項目を無視して実力行使にでた一族があった。その数約一〇〇に及ぶ家族。故に『百家の災厄ひゃっかのさいやく』と呼ばれる。

 彼ら一族は遺体を焼却処理せず埋葬しただけにとどまらず、ご丁寧にも掘り返されないよう広範囲に分散させ、埋葬箇所の偽装まで行ったのだった。そしてその一族郎党は人跡未踏の何処かに姿を隠してしまい、遂には行方知れずになってしまったのである。


「聞くところによると連中が行方不明になった当初はよぉ、管理局も真剣には捜索しなかったみてぇだね?」と、あまり歴史に興味がないアメリアがぼんやりルナンに聞きなおした。

「らしいね。『はた迷惑な連中がいたもんだなぁ』そんな感覚だったみたい。でもよ、当時の記録と関連書籍を読んだことがあるが失踪から一年くらいすると……」


 問題を起こした一族が失踪後に残して行った入植施設には新たな移住者の一団が降り立ったが、ある時その移民団から奇妙な報告が管理局によせられた。

 巨大なドーム形状を持つ施設の外周、十数キロメートル四方の地上から何やら湯気のようなガス状の気体が上がっている箇所をいくつか発見したと言うのだ。

 これに管理局は早速調査団を派遣。と言うよりその入植者たちに、専門家を伴わない言わば素人にその場を掘り起こすよう指示するのみであった。いやいやながら、砂礫ばかりがうず高く折り重なる現地へと移民者たちは六輪のランドローバーで乗り付けたのだ。

 名前ばかりの気密服を装備した調査団一行は問題の湯気の出ている箇所を掘り起こした。案の定そこには管理局の役人連中が睨んだ通り失踪した一族が埋めた彼らの親族らしき遺体が発見された。だが、それは一年以上経過しているにも拘わらず白骨化していなかった。そればかりか、それは胴体、四肢にいたるまで風船のように膨れあがり、やはり湯気状のガスはそれに起因していた。

 逐一遺体の様子を報告しながら彼らの一人が触ってみると死後硬直は無く、仄かに温かい。フォボスにある管理局からの指示で体温を計測する事になったのだが。


 「そこはほら、素人さん連中だろ。検温器の針を腕とかじゃなくてパンパンになっている腹に直接刺しちまったんだな」深夜の怪談話をするみたいにルナンが声を潜める。

アメリアはコップを口にくわえたまま

「おい、悪い予感しかしねぇんだけんど」怖々呟いた途端、ルナンがそこで両手を勢いよく鳴らす。ビクッとなったアメリアの口元からコーヒーがこぼれ落ちた。それをルナンはしてやったりとほくそ笑むと              

「爆ぜたんだよ。そして黄色い胞子みたいな粉末をあたり一面に飛散させたんだ」と、言えば    

「こぼれたっぺよぉ!バカタレがぁ。……なんだよ気色悪いねやぁ」相棒の肩口を小突くアメリア。それでもルナンはにやにやしながら先を続けた。      

「サンプルだけ接取すればいいものを、管理局は詳しく調べるために遺体その物の回収を命じたんだ。そこからが悲劇の始まりさ」   

「まさか防菌処理はしたんだよな?」     

「もちろん。気密服の頭から足先までアルコール除菌水入りの高圧洗浄機で。ランドローバーも例外じゃなかったんだが。そこはほれ慣れない作業だろ。ローバーの車体に残っていたらしいんだよ。ウィルスの原始組成体が」               

「マヌケ!」              

「ご先祖様たちの事を悪しざまに言うなよ。当時こんな事態になるなんて誰も予想できなかったんだから」


 最初の感染者はローバーの整備担当者の男性だった。彼の症状はインフルエンザに酷似していたが、やがて絶えず鼻血と吐血を繰り返し発熱から四日後に亡くなった。現地の医療関係者がいぶかったのが死亡判定六時間経過後も体温は二二度から二四度あたりを維持していた事と死後硬直が見られない点であった。

 『火星移民管理局』は回収した遺体と今回の被害者との因果関係を調査するために、感染症の専門家を派遣するまで現状を維持せよとの指令を下した。現地スタッフがすぐさま二つの遺体の焼却処分を懇願したにもかかわらずである。


「お役所仕事がぁ!遅いんだよ対応がさぁ。そうこうする内によぉ。“パンッ”が起きたんだべさぁ?」ここまでルナンが語った内容に憤慨したアメリアは紙コップを咥えたまま、相棒の肩を両手でつかんで振り回した。  

「こ、今度は入植施設内部で最初の感染者の遺体が爆ぜちまって。空気感染からみるみる施設内に感染していった」        

「判りそうなもんだっぺよぉ! それだけじゃなかったよなぁ?」           

「ああ、実は管理局は他の入植村にも似たような遺体回収を命じていたらしくぅ……同時多発的に感染がぁ。く、首絞めないでぇ!」

「何か腹立つぅ! そもそも何でこんなウイルスが発生したんだよ?本格的な移住が開始される前に国連調査団は火星の地表から原生細菌から微生物まで調べ上げた上、人間に有害な物にはちゃんと対抗策の予防接種してから地表に降ろしたんじゃねえの?」    

「確たる原因は未だに不明なんだよ。このウイルスが厄介なのはぁ……や、やめてぇー」


 有史以来人類にとっていつの時代でも生存の脅威となってきたウイルス。その新たな旗手で最も難敵たる“火星の処刑人”が発生した正確な経緯は謎のままであるが、太陽系内に第四惑星として火星が定着して以来四〇数億年。外界との接触は稀に飛来する隕石のみ。その地に自然発生していた細菌、微生物やウイルスの類は地球とは全く違う変遷の著しくとぼしい状態のまま悠久の時を過ごして来た。

 その状況に劇的な変化、進化のパンデミックを引き起こさせたのが地球からの来訪者の存在であり、焼却されなかった遺体に含まれる細菌、細胞の存在は、それらにすれば新たな進化と種の保存への有効な可能性となったのではないかという有力説がある。

 もともと人体が内包していた地球産の様々なウイルスが火星のそれを取り込んだのか、またその逆かは定かではないがこの新生ウイルスは人体を生産ラインとして最大限に活用。苗床なえどことしての機能を生み出した結果が死後硬直と腐敗白骨化を無視して内部を膨張させる現象となった。後は限界までコピーを増産させたら外の世界へ飛び出る。そして新たな苗床を獲得するために人体に取り付くのであった。

 この新型ウイルスには対処攻略するのに最も厄介な点があった。それは後に『固有変性遺伝型』と名付けられた特性による。

 

 「何だぁ?その変性なんちゃらってのは」と、アメリアはルナンに喧嘩を売るみたいに詰め寄る。話を振ったルナンはどこか申し訳なそうにぼそぼそと続けるしかなく。

「だからぁ人間の体内に取り付いたウイルスはその人体の遺伝子に潜り込んで内部構成ゲノムを改編してしまうんだ。そしてその人物にとって最も致死率の高い病気を発生させる事になるの。ある人は悪性インフルエンザの症例。他の患者はエボラ出血熱、ペスト、コレラの症例もあったんだぜ」

「お医者様は大変だなぁ!」

「そりゃあね。何せ患者が生きている内は原因がウイルスなのか、別の所以であるか判別できないんだから。それを特定する過程でバタバタ亡くなっていく」

「死後にウイルスの所為だと判っても後の祭り。感染は広がったってか。オイッたまんねぇなぁ。ルナンよぉ」

「全くだよ。最終的に累計二五万人にまで増えていた入植者の七割近くが感染。未感染者の集団は慌てて軌道上のフォボス、ダイモス両衛星の基地へと退避せざるを得なかった」


 このウィルス特性の最たる物として上げられるのが、遺体の血液中からは必ずある酵素が発見されていることである。火星に住む健康状態の人間なら一〇〇パーセント自然発生させる事のない、『デキストリナーゼ二〇五九』と二一世紀後期に発見された不活性酵素なのだが、それが天然で存在するのは地球の深海六千メートル級に生息する甲殻類の体液からしか採取できない。火星移住の希望者はSF小説とかでもてはやされた冷凍睡眠ではなく、“ゲノムフリーズ”なるこの酵素を基にした薬剤を投与されて移住用の船団内で体温を二〇~二四度、細胞とか内臓、血液が壊死しないギリギリの仮死状態で一年近い、地球―火星間の長い航海を『冬眠というより半分死んだ状態』で過ごすことになる。

 このあたりの状況の類似性が『百家の災厄』事件の真相が、ともすれば地球側の細菌兵器開発の陰謀が隠されているのかも知れないと勘ぐる一部のマスコミ関係者が、独自の情報源をもとに怪しい書籍の元ネタになる事例は枚挙にいとまがないのである。


「それじゃぁ終わらなかったよな?あたしはその事後処理の方がよっぽどひどいと思うがね」

 ルナンは親友の言に肯く代わりに、目を伏せてこう呟いたのだった。

「熱核爆弾を使った。病に苦しんでいる同胞を入植施設ごと焼き払ったんだ。管理局と地球にある火星開発公社は彼らを、オレ達の祖先を見限って。残された人命の尊重と新たな文明の存続という名目の許に核兵器を火星でも使用してしまった」


 未曽有の危機にさいなまれ、混迷を続ける事態の収拾に苦慮した移民管理局は地球側の火星開発公社に在籍していた権柄づくで組織にたむろするアブラムシみたいなお抱えオブザーバー連中が提唱した、強烈な放射線がウイルス根絶に効果的であると言う、場当たり的で科学的根拠の乏しい意見を採用。無慈悲な決断を下したのが西暦二〇八四年の春の事。

 当時、地球から派遣されていた移民輸送コンテナ牽引用の大型宇宙船らは公社の要請を受け、地球の列強諸国から極秘裏に火星へ運び込んでいた一発の威力が広島型原爆の数千倍という化け物。メガ水爆を軌道上から投下した。助かる見込みも希望も無く、死体の処置もままならない殖民施設もろとも焼き尽くした。

 その日、火星の赤道付近を中心にいたる所で閃光が生まれ巨大な火柱と不気味なキノコ雲が立ち昇っていった。その後には黒い斑点が火星上に幾つも刻まれたと言う。

 ウィルス感染をまぬがれ、フォボスに避退した移住者らはその光景に驚愕し、ある者はその場で泣き伏し、ある者は膝から崩れ落ちた。そして多くの人々が火星本土に残らざるを得なかった憐れな同胞へいつまでも祈りを捧げたのだった。

 核攻撃を行った地球ー火星往還用の大型宇宙船数隻は任務を終えると何ごとも無かったかの様に火星空域を離れ、地球への帰還軌道へと移っていった。お悔みの通信一つすら残さずに。


 結局ルナンたちの先祖と言うより地球の無慈悲で冷酷な政治判断が結局、二度火星の地上を滅ぼした事となった。一度はウイルスで。二度目は水爆の業火で。


 「そして、ご先祖達は火星本土からの撤退を余儀なくされた。でも、処刑人は生き残っている。あたしらの言う『本土病』だな」

「効果的なワクチンは未だに開発されていないのが実状さ」

「それで、お前の妹さんは『本土病』で亡くなったって?」

「ウン?あ、あぁそうだよ……」ルナンは少し言いよどんでから

「まるで、SFの古典『宇宙戦争』の逆バージョンじゃないか。侵略者の地球人どもは、ウイルスの猛威で遂には火星を追い出されてしまった」と慌てて話題を変えた。

 二人はここで互いに顔を見合わせ、また眉間に皺をよせた。

「なぁルナン。前から不思議に思ってたんだけんどな、なんでぇこんな悲惨な状態なのに、あたしらのご先祖は地球に帰らなかったのかねぇ?」アメリアは抱いて当然至極の質問を浴びせてきた。

「アメリア君。帰らなかったんじゃなくて、帰れなかったんだよ!理由は二つ」ルナンも即興で学校の先生みたいな話し方で、彼女の顔の前に二本の指を立てた。

「まず一つ、ゲノムフリーズって言う人間の仮死状態を維持できる技術が我々には無かったこと。それと惑星間航行用の核融合パルスレーザー型エンジンの開発ノウハウも無い。このテクノロジーの情報公開を地球側は全く行っておりません。」

「じゃあ、後一つは?」

「風評被害だよ」とルナンは床に音を立てて何回も踏みしだいた。

「当時の移民管理局と火星開発公社は一度は移民団総引き揚げ計画を立て、実行に移そうとしたらしいんだが、いきなり頓挫させられたんだ」

「へぇーどうせ資本家連中と政府筋のお偉いさんらが結託して握り潰したんだろうなぁ!」

 アメリアの呆れ果て半ば憤慨するような呟きに、ルナンはかぶりを振りつつ

「……地球の一般市民、大衆からの移民団に向けてのネガティヴキャンペーンが世界各国で一斉に上がったんだよ」と、寂し気に声を落としてこう言った。

「『ウィルスで汚染された火星人どもなぞ、地球圏に入れるな』とか『無理やり帰還するつもりなら、宇宙艦隊で撃破すべし!』そんな声に押し切られる形で遂には実現できなかったらしいんだよなぁ」

 二人はほぼ同時に俯いて大きくため息をつき

「ひどい話だべや。ずーっと宇宙の難民で居ろってのかよ」

「全くだよ。一般大衆からの差別発言やら誹謗中傷で地球上のサーバーはどこもパンク状態になったらしいですねぇ」

「何で夜更けの時間帯にこんな”重い話”をしてるんだよぉ!あたしらはぁ」とアメリアが今更ながらに言った。

「いやぁ、火星本土が見えたからつい。でもアメリア君、先祖の偉業と挫折を知る事は我ら末裔まつえいの大切な義務でもあると思うのだよ。オレは」次にルナンはテーブルの上に放置されていた液晶モニター用のリモコンを手に取った。

 ちょうど今、彼女らが乗り組んでいるフリゲート艦『ルカン』の位置から、火星の衛星軌道上を中心にその全域を取り囲むようにいくつもの光点が現われ始めていた。

 ルナンは画面上に現われている光点の一つに、リモコンからの矢印型カーソルを合わせると、拡大映像に変更させた。

 少し間があってから画面が切り替わり、今まで画面を占領していた赤い惑星に代わって映し出された物。それは巨大な円筒形の人工構造物。

アイランドⅢ型と分類される宇宙都市、二〇世紀から実現の可能性が取り沙汰され、SF雑誌の表紙等の題材に描かれてきた、俗に言うスペースコロニーと呼ばれる建造物であった。


「火星の本土を追われ、かといって故郷の地球にも戻れなかったご先祖達が、宇宙の安住の地として必死に作り上げたのが小惑星をベースにした衛星宇宙都市だったわけだ」とルナンはモニターに映し出された映像を眺めながら呟いた。


 このメガ・ストラクチャーの平均的な仕様としては

 円筒形の両端の直径で八キロメートルから、最大で二五キロメートル。長手方向では三〇キロメートルから一二〇キロメートルと様々な規模の都市が存在する。ベースとなる改造可能な小惑星の軌道を修正、火星の衛星軌道に固定させてから、内部をくり抜き円筒形の内側を生活の足場として、市街、工場、農地などを造成。

 長軸方向で回転運動を起こして、遠心力による人工の重力を生み出させた。その中心軸の無重量空間には核融合エネルギーを転用した、小型の直径僅か五メートルほどの人工太陽を発生させ、完全密閉型である宇宙都市の内径世界に光と温もりを提供した。

 水資源は宇宙空間を小惑星、隕石と同様に漂う彗星の卵と言われる汚れた雪玉を前述同様に遷移させた上で分解。宇宙都市内部の飲み水、あるいは湖、人口の河川に利用したのである。

 これら宇宙都市の重力はほぼ地球の1Gに設定されており、内部の時間も地球の標準時に合わせて二四時間。一年は三六五日とされた。

 火星の人々はその巨大な茶筒状の内壁に相当する居住世界を、“内径世界”と呼んでいる。この内径世界にも様々なタイプがあり、海洋を擁する『海洋群島型』や内部に人工湖を中心にする『内陸湖沼型』等がある。

 火星の自転速度とシンクロする同心円軌道を描き、大小さまざまの人工衛星都市が火星上空の高度六千キロメートルから四万キロメートルに及ぶ衛生軌道上の長大なベルト帯と北極冠から南極冠上空までの宙域を占有している。

 もはや火星の地上には定住する者無く、ある一定期間、レアメタル等の鉱物資源、岩塩層などのミネラル成分の採取、水資源を採掘する季節労働者が滞在する施設しか存在していない。火星本土は宇宙都市を繋ぎとめるための港のボラード的な役割しか担っていないのが実情だった。

 火星移住者の末裔まつえいたちはこの人工宇宙都市をスペースコロニーとは呼ばなかった。人々は自分たちの新たなる故郷に親愛の情を込めて我が邦城くにじろまたはオービット・フォートレス『軌道要塞きどうようさい』と呼んだ。

 『百家の災厄』事件以降の入植事業はまさにこの『軌道要塞』の確保と建設、小惑星改造という難題との終わりなき戦いの連続であった。

 地球側国連の連合機関『火星開発公社』及び『火星移民管理局』の上層部、並びにこれまで多額の出資を行ってきた先進国の首脳陣はこの移住事業の大幅な方針転換に難色を示した。しかし、一度スタートさせてしまった全地球規模的大事業の頓挫を公表し、更にはこれまでの移住者、事件以降二万人弱と大分減ってしまってはいたがその全員の帰還に関する世界規模の風評被害をかんがみて、しぶしぶ認めざるを得なかったのである。

 以来、一〇〇年近い期間に造成された軌道要塞は一〇〇基を数え、年二回のペースで千人近い新規の移住希望者と軌道要塞建設用の資材を満載した移住船団が星の海原を勇躍越え続けた。

 一時沈静化したウイルス禍以降に増え続けていった新たな移住者はその民族性、宗旨、言語習俗の近しい者同士が集い、連合して国家を形成するに到った。

 ルナン・クレールの生きた時代においては、火星の周辺宙域には大きく五つの連邦国家が誕生していた。またこの連邦国家誕生の経緯には地球上における大規模な国家間の統合と再編成といった動きに多大な影響を受けていた。火星側は自分たちの連邦形成に大きく寄与して出資、資材類を提供するいわば”親元”とも言える連合国家を『宗主国そうしゅこく』と呼び、畏怖の対象とした。

 当初国連主導の二つの国際機関『火星移民管理局』と『火星開発公社』がその主導権を二一世紀終盤には各宗主国に譲り渡してしまった事により、それ以降の入植は宗主国側の思惑と計画により、火星本土における勝手な領土割譲と軌道要塞建設を容認せざるを得ない状態となって久しい。

 地球には国際連合からより強固な”地球連邦”的な政体は遂に誕生せず、かつての先進国を中心に統合再編された各経済ブロックを固持した勢力をまとめ上げた。やはりこちらも五大連邦国家が火星への移住を強固に推し進めていた。


 火星における連邦国家のうち有力なのは五つ。これらを総称して火星列強と呼ばれる。

 (一)『アトランティア・ネイションズ』―北極冠上空七千キロから三万五千キロメートルに位置して広大な楕円型となる宙域を領有。軌道要塞三二基を勢力下に置く。総人口二億六千万人。

 宗主国は地球の北米大陸のアメリカ合衆国とU・Kを中心とする『北大西洋連邦・NAF』となる。

 (二)『神聖ローマ連盟』

 火星本土の赤道部を中心にクリュセ、ルナ、ケレウスの各平原とサイレナム地方東端部、バポニス山から赤道を挟んでマリネスク大渓谷全般にいたる上空、四千五百キロから六万八千キロメートルの宙域に勢力範囲を持つ連合国家。

 主に地球圏でのヨーロッパ出身者を祖先に持つ人々が居住している。ドイツ系、フランス、スペイン系の民族が優勢である。

 傘下の軌道要塞は二二基。総人口一億八千万人。火星統合暦MD:〇〇七六年より自由フランス共和国とドイツ選帝候領に分裂。いわゆる”二王朝時代”と称される断続的な内戦状態にある。

 地球の宗主国はEU加盟国を中心にトルコと一部地中海世界を取り込んで再編された『第三ローマ連邦共和国』。

 (三)『スサノオ連合皇国』

 本土のイシディス、ケルベロス、アルカディア平原及び、大シルチスの東部地域を版図として、その上空四千五百キロから四万七千キロメートルの宙域に、傘下軌道要塞二四基を誇る連合である。総人口は一億六千万人。

 地球における極東地域日本を始めとする東アジアの出身者を祖先に持つ民族の連合体。

 宗主国は環太平洋地域(日本、統一朝鮮、オーストラリア、シンガポール、フィリピン等)を中心に構成される『環太平洋同盟機構・PPAS』。

 この他に、地球のロシア連邦をメインにインド亜大陸を含む強大な連邦『大ユーラシア連邦』を宗主国に仰ぐ『大ロシア騎士団帝国』、中国とその周辺国で構成されるアジアの巨龍『大漢連邦』を宗主国とし、南極冠上空にかけて勢力範囲を有する『大漢中共連合』などが存在して、覇を競い、常に集合離散を繰り広げているのが現状である。


                   

 「どこの軌道要塞かな?でかいな! あたしらの邦城『ディジョン・ド・マルス』は見えないか?」と、アメリアが液晶画面に映し出された、円筒形の茶筒の外周に岩塊を牡蠣かきのようにまとった軌道要塞の全景を見据えながらルナンに問うた。

「残念ながら、ここからの位置だとちょうど、自由フランス共和国の勢力宙域は火星本土の影になって見えないな」と、ルナン。

「じゃあ、スサノオ連合皇国か、大ロシア騎士団帝国領の軌道要塞ってことになる」とアメリアが推測する。

「今、表示が出る。大ロシア騎士団帝国、首府城『ピョートル大帝』だそうだ」

「ほーう、さすがに立派だね!あたしらの首府城『イル・ド・フランス』に匹敵する大きさだな」

「これがオレたちのつい棲家すみかいうわけさ。軌道要塞って名前だけは立派だけど、要は宇宙のバラック小屋。火星から追い出され、地球にも帰還を拒否された祖先が生み出した我らの小さくいびつな世界」ここまで言うとルナンは首をうな垂れた。そこへアメリアが背後から寄り添いルナンの肩をしっかと掴んで

「それでも、おら達にはここしかない!たとえ歪な世界だとしても足掻あがいて、突っ張って生きていくしかないんだ」と、励ますように揺すった。

「そうだよ、アメリア。我らは火星人と言うよりまことの宇宙の民。我らにあの碧き惑星はもう必要ないんだ」

 ルナンはそのままアメリアの腕の中に寄りかかって、猫なで声を使って甘えだした。

「アーメーリーアーッ、今日いろいろあってぇ、オレちょっと寂しい。添い寝してぇ」と、上官であり、また親友から変なお願いをされたアメリア。彼女は友の肩を掴んで自分の正面に体の向きを変えさせてから、スカーフェイスの相好を崩した刹那。

 ふいにアメリアが「とりゃぁー!」とルナン目がけて頭突きを放った。額ならまだしもこの一撃はソバカス女の目の間と鼻の付け根辺りを直撃した。痛打された所を両手で抑え、膝から崩れ落ちるルナン。

「おめと添い寝だぁー。やなこったい!それとな」

「今のはケイトの分だぁ。さっきの事はおめの方がよう反省せんといかんべさ!」アメリアは鼻と口を両手で塞ぐソバカス女の前でしゃがみ込むと

「おめは気づいてないかも知れんけんど、ケイトはなやっと自分の理解者を得た。そんな気持ちでいるかも知れねえんだどぉ!」と、諭すように言い、彼女の両肩に手を添えた。

 ルナンはこれに何か言いたげでどこか感の触る嫌な眼差しを向けると

「また、そんな目付きになるぅ!おめ、実働試験中じゃ『ルカン』に撃沈マークの✕印を付けられても『スゲェ!やるなぁー』ってはしゃいでいたっぺな。それをケイトはな、嬉しそうに見つめていたんだど」

「そんな事言ったっけ?」と、ルナンはまた不貞腐れた態度をとるものの

「そいでぇおめの分析力とイマジネーションに関する事じゃおめとケイトは何か通じ合えるもんがあると、おらは睨んだんだべさ!」いつになく真剣に自分を見つめてくるアメリアから少し目を背けつつも微かに頷くルナン。

「いいがやぁ。次の当直に入ったらケイトに自分からしっかり詫び入れろぉ!おめの為だかんねぇ」立ち上がったアメリアは自分の手荷物を片付け、休憩室奥にあるベッド・ボックスルームに歩き始めた。

 「全部消して来いよ!もう熟睡できる時間は四時間ねえぞ!後、気密扉しっかり閉めて置けよ。どこかの阿呆にベッドさ忍び込まれたら、また一悶着だっぺ」とだけ言い残してアメリアは奥の暗がりに消えた。

 一人残ったルナンは金髪頭を掻き

「ちぇっ!わかったよぉ」と、未練がましくぶつぶつ言いながら、先ずは女性専用区画用の気密扉を閉めようと艦内縦貫通路側に開いている扉に手を掛けんとした時だった。その通路を船首側に移動していた二人の男性クルーと出くわした。

 ルナンは彼らの出で立ちに首を傾げた。二人は整備班でも甲板員でもなく、艦内規律違反と犯罪行為を取り締まる保安部員であった。

そろいの黒一色のプロテクター付防護服姿で手押し台車に何やら箱型の備品を運んでいる最中のようだった。

「どうした?君たち。あまり見ない顔だね、それに何で保安隊員が装備を運んでいる?」

 ルナンの問いに二人ともバツが悪そうに眼を逸らしている。やがて二人の内の一人、年嵩で中年の隊員が申し訳なさそうに

「あ、あの中尉殿ぉその恰好、何とかなりませんか?」と、言った。それに合わせてもう一人のっぽで年若の方が下卑た笑い声を上げた。

 どうやら二人は女性のくせにTシャツとボクサーショーツ姿を一向に気にしていないルナンとどう対処したものか困惑しているようすだった。普通なら可愛らしい悲鳴と共に奥へと引っ込みそうなものだが、彼女は相変わらず平然と彼らの返答を待っている。

「えー、私ら今回の航海に入る前に『ディジョン・ド・マルス』で臨時に雇用されまして、それで班長が艦内配置を早く覚えるようにって、こいつを船首区画のTT魚雷発射管室まで運ぶよう言い使った訳でして」仕方なくこう答えたのは中年の方。

「それは?」ルナンは腕組みしたまま、台車に乗せられている長方形のカステラ大で二つ。それぞれが赤と黒で塗り分けられている備品を顎で指し示した。

「TT魚雷換装に使うコンベア用交換リキッドですが。何か?」

「君らで作業を?できるのか?」

「ハイ。前の職場でも似たような作業を。……中尉殿、あのぉ……?」と、目のやり場が無くてしきりに辺りに視線を泳がせる隊員二人。

「勤務中に失礼した。しっかり頼む」非番でTシャツ姿の中尉はこう言うと、二人を目的の区画へと送り出してから気密扉をロックした。

「バカ野郎!非番でも上官と判ったなら、敬礼ぐらいしろ」

 ルナンは閉鎖した扉に向かって吐き捨てたが、どこか釈然としなかった。二人の保安部員の風体と雰囲気が気に入らない。とは言え、これ以上詮索しても詮無い事。最後に液晶モニターの電源を落とそうと、リモコンを画面に向けた際。

「うん?」彼女はそこでも異様な光景を捉えた。

 モニター上ではいまだに望遠モードで軌道要塞『ピョートル大帝』の堂々たる威容の外周を覆う小惑星の岩塊を映し出していたが、その映像が突如として歪み、全体像が平面となって斜めに傾いでいるように見えた。更に歪んだ映像の周囲から、僅かながら雷光が閃いたように見えた。

「はて、電波障害か?この近辺にデブリストームの情報はなかったが」と呟きながら、首を捻りながら画像を通常モードにすると異状はピタリと消え、先刻の火星全景に戻っている。

「まぁ、老朽艦だし、あちこちガタが来ているのだろうな」と、ルナンは結論付けるとモニター電源を切り、デカい尻を掻きながら言われた通り全ての電源をおとして仮眠室へと向かった。

               


私は各話の文字数を一万文字程度に抑えるようにしていますが、今回は倍近い文字数になってしまいました。

こういったSFテイストの作品ではどこかで世界観のナビゲートが必要ではありますが、地の文だけで長々と書けば、冗長になりがちで読者の皆様に飽きられてしまうと思い、随所にキャラ同士の会話、補足説明などを語らせてみました。少しでも読みやすくなっていれば良いのですが。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

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