今回は、ほぼルナンの過去となる双子の妹アンナとの別れのエピソードです。ルナンが何故鏡を見るのを嫌うのか。海賊掃討戦となると血道を上げて奮戦するのか、その訳が明らかとなり、彼女が長らく抱えていた心の傷とは?この辺りを中心に再現ドラマで進める予定です。
発令所を後にしたルナンとアメリアは、ATMコーナー並みに手狭な通称コードルームと呼ばれる『暗号保全解読室』の中で二人きりとなっていた。内部は完全防音が施され、士官の守秘義務に抵触するため暗号保全AIにも会話記録や画像などを残される心配もなかった。
ルナンはこの部署に到着してもなお目を血走らせ
「離せぇ! 殴るんなら殴れぇ」とても分別のある大人とは言えないほどに凶荒してしまっていた。
アメリアは心の均衡を失くしてしまった友人の肩を押さえつけ、カマキリの頭部に似たヘルメットを外して顔を顕わにした。足元の床に装備が転がると意外に大きな音が反響した。次に両手の手甲を器用に外すと、ルナンの頬にそっと添え
「さぁ、おいで」そう言うなりアメリアは相棒を力強く抱き寄せ、自分の顎下に彼女の金髪を包み込んでは頬ずりを始めた。
左手を背中に右はルナンの後頭部を何度も撫で、そして身体を入れ替えて二人分の体重を壁に預け
「大丈夫だぞ。なぁ? ゆっくりッ深呼吸しろ」と、優しく囁くアメリアの姿は親友と言うよりむしろ、何かの弾みで癇癪を起こしてしまった我が子を宥める母のよう。
それでもルナンはその小柄な体躯でもがいていたが、全身に友の温もりが徐々に浸透していく。互いの頬を通して慈愛に満ちた息遣いが耳からのみならず、体の芯に響く。
やがてルナンも抗うをやめアメリアに全てを委ねる内ついに『心の箍』が外れた。今まで自分に巣くっていた悪い澱を吐き出すかのように、大声を張り上げ年端もゆかぬ童の如く号泣し始めた。
「くっそー!どうすりゃいいんだよぉ。オレに艦長なんて務まる訳ないんだよ!」と喚きちらすルナン。
「うん。わかんねーよなぁ。かまわねぇ! ぜーんぶ、ぶちまけろ!」
「みんなが言うんだぁ。目で訴えてくるんだよぉ『それでいいんですか?』って。『大丈夫ですよね?』ってさあ。ちくしょう!そんなの判るかよぉ!怖いよ、怖いんだよぉーアメリアーっ」と、心中で抱え込んでいた恐怖と不安を搾りだすように訴えたルナンはまた吼えるように泣き始めた。アメリアは何度も相槌をうちながら、両手で彼女の頬を押さえ、額に優しくキスしてからまた強く抱きかかえた。
泣きじゃくるルナンは更に
「本当は、オレは士官様なんて務まる人間なんかじゃない……。どうしようもない臆病者で卑怯者だ!アメリア……オレなぁ」涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をスカーフェイスの友に向ければ
「ルナンよぉ……どうしたぁ?」と、親友の顔を怪訝そうに覗き込んだ。
「そう、そのルナン・クレールって名前は後に名乗った。オレの本当の名はハンナ!ハンナ・ブッセルって言うんだ。オレはあの日、自分の妹を助けられなかった。逃げちまったんだぁー!いや違う。見殺しにしたんだよーオレはさぁ!」
アメリアはこのルナンの口から唐突に発せられた告白に声を失い、その話に耳を傾けるしか術が無かった。
それは一〇年前、ルナン・クレールがまだハンナ・ブッセルとして日常を家族とともに過ごしていた頃に起きた事件であった。
火星統合暦〇〇九四年九月七日。何の前触れもなく、”奴ら”は来た。ハンナの生まれ故郷であった軌道要塞『アルデンヌ』の一都市、ヌーヴォーナンシー市を所属不明の連合海賊団が襲撃したのだった。当時、ハンナと妹のアンナは共に一四歳。
その日の昼過ぎ、ハンナは補習試験を終え、午後の仕事に向う前の腹ごしらえの真っ最中だった。
二人が通う、地元に駐屯する軍管轄の『ヌーヴォーナンシー市立初等訓練兵学校』では午前中は座学の授業で午後からは同敷地内にある工場区画での勤労奉仕。姉ハンナは鉄工部、妹アンナは縫製部、離れた建屋でそれぞれ仕事に精を出す日々だった。
広大な敷地の八割方は工場施設であり、その一画に申し訳程度の校舎とグラウンドが併設されていた。
学校の生徒と工場の従業員らは、ちょうど区画の境とされる体育館二つ分はある大食堂で、昼食と時には夜の残業食を摂るのが日常となる。
ハンナは一人で溶接用の前掛けと作業着姿で、テーブルの上にヘルメットと防塵ゴーグルを置き、ミートソース風パスタに食らいついていた。いつも仲良く席を同じくする姉妹だったが、同級生らは二人が双子と聞くとそのあまりの容姿の違いに首を傾げるのが常。特に男子たちの人気はアンナに集中していた。
いつもふて腐れたような顔付きのハンナに比べ妹の方は誰にも愛想が良く、茶色の髪をお下げに一本にまとめて可愛らしいおっとりした雰囲気。そして姉の事を誰よりも慕い姉にとって世話好きでかけがいの無い妹であった。
(アイツはどんどん、女っぽくなって、家にいると母さんが二人いるみたいだ。それに比べて……)
姉ハンナの顔つきは父親似で小柄で痩せっぽち。一見すると女子には見えない。それに対して妹のアンナはもう充分に成熟して顔立ちもぐっと大人びて日頃から実年齢より二、三歳は上に見られていた。
ハンナの同僚、男性従業員らの間でも”縫製棟にいるかわい子ちゃん”の中で人気上位ランクに名前が挙がるほどであった。
そんな大好きな妹はもう既に午後の仕事に従事している頃だろう。軽く舌打ちしてハンナはぐるっと食堂内を見渡してみた。
周囲にはシフトの都合で遅めの昼食を摂っている年嵩の男性従業員の姿もちらほらあった。この時間帯ともなると、通常のランチタイムに比べると三割ほどの席しか埋まっていない。
ハンナが今日も残業かなと、仕事の進捗具合を気に掛けつつ、昼食を平らげようとした時だった。工場施設全体にサイレンが鳴り響いた。薄いベニヤと鉄板で拵えられた安普請の食堂全体がびりびり震えている。
「……?今日、避難訓練なんてありましたっけ?」不審に思ったハンナが傍の従業員に訊ねても相手も首をひねるばかり。
そのサイレンが鳴りを潜めてから一〇分ほど経過したであろうか、いきなり食堂の天井から耳を弄さんばかりの轟音が降って来ると同時に自分が腰掛けていた所から少し離れた数基の長テーブルが、木端微塵に吹っ飛んだ。
その反動でハンナは思わず仰向けに転がった。皿に残っていたパスタが降りかかる。突然の事で動けないでいる彼女の目に、薄い鉄板を重ねただけの屋根に大きく穿たれた幾つもの穴が映った。その向こうには、空中に浮遊して何かしきりにうごめいている物体が…。
「逃げろぉ!外へ出ろ!」誰かが叫んでいる。その声に押されるように数名の従業員が外に向けて開きっ放しの大扉から躍り出ていった。ハンナも慌てて起き上がり後に続こうとした。
先に逃げた数名の頭上から連続した銃撃音がしたかと思うと、周囲で土煙が上がった。途端に一人の従業員が叫ぶ事すら無く崩れ落ちた。少し痙攣してから、そのまま動かなくなってしまった。周囲からみるみる拡がっていく赤い水溜りが。これを目の当たりにしたハンナは驚愕で足が竦んだまま、大扉の影に身を隠し、そっと空を仰ぎ見た。
その日は雲一つ無い晴天で、天空の真中にはこの宇宙都市に拡がる世界を照らす人工太陽が残暑の光を湛えている。直径五メートルしかない核融合反応が生み出したプラズマ発光体。その姿を遮るようにして、一機の無人飛行型ドローンが屋根の影から姿を表した。
大きさは二人乗りのコンパクトカー程で、中央に球形のボディ。それを中心に正三角形状に伸びるアームの先にはそれぞれ一基の高速回転しているプロペラが。中央ボディの下部には偵察用のカメラと同軸に配置されている一基の機銃が見て取れた。銃撃されたのだとハンナは状況を理解した。血の池に塗れた遺体の周囲には動かぬ証拠となる金色に輝く空薬莢が散乱していた。
ドローンはしばらく留まり機銃を装備した砲塔を回転させ、新たな獲物を物色しているようだったが、やがて少し高度を上げ他の区域から飛来した同型のドローンと一緒に三機編隊で、何処かへ飛び去った。
この頃のドローンは基本的な人工知能しか搭載しておらず、司令区画からの遠隔操作タイプのみである。ただその大きさは二一世紀初頭に登場した上空撮影可能で人一人が携行できる玩具ではなく、大型化し殺傷能力を有す火器を搭載。軌道要塞内部に広がる狭小な空を戦闘機やヘリの代わりに偵察、あるいは地上制圧の支援攻撃可能な現有兵器としての進化を遂げていた。
ハンナは戦慄く足でテーブルに戻ると震える手でヘルメットとゴーグル、防塵マスクを着用して被害にあった従業員の亡骸を見ないようにして外へ出た。
「おい!」いきなり声をかけられると同時に肘をつかまれたハンナは反射的に身を縮み込ませた。そこには自分が所属する鉄工部を預かる班長の馴染み顔があった。
「なんだぁ班長か。びっくりさせないでよぉ!」安堵したハンナであったが怯えて震え声が収まらない。四〇代で浅黒い顔の班長は彼女の肘をつかんだまま食堂を離れ、自分たちが日々仕事に勤しむ鉄工部の大きな工場棟の方角に向って歩き始めた。
「目を伏せていろ。子供にはキツイからな」彼は上ずった声のまま彼女を先導していく。言われるままに周りを見ないようにするが、そこかしこに先刻の食堂前と似たような光景が飛び込んでくるのであった。真っ赤な水溜りに突っ伏したままの遺体の数々。
(人間っていっぱい血を溜め込んでいるんだなぁ)班長に連れられて歩きながらもハンナは自分でも意外に落ち着きを取り戻して、その多くが警備員であることにも気付いた。
軍管轄化にあるこの施設にはそれなりの兵士が、と言っても予備役にあるシニア世代の人員であったが配属されてはいた。今しがた飛来したドローンは、彼らが常駐している詰め所や食堂を真っ先に狙ったらしい。彼らが銃を抜いて応戦した様子も見られなかった。
やがて二人はうねった通路をぬけて見渡しの利く広い場所に着いた。大型トレーラーが出入りできるこの開けた場所は、晴天の朝なら全員でラジオ体操したり、昼休みは工員がキャッチボールしていた。それ以外の時間帯では製品出荷用車両の待機場になっている所だ。そこには同僚である男性の工員が十数人立ち尽くしていた。皆、不安気に辺りを伺っては、互いに小声で自分が知りえた情報をやり取りしている様子だった。
班長は脅されて集合させられている同僚たちの近くでハンナを手離すと今度は、皆が申し合わせたように彼女の手を引っ張って次々とリレーのバトンを手渡すように集団の中央にいざなった。そして、中でも一際、体の大きい連中が彼女を隠すように壁の如くに取り囲んだ。
「何?どうしたの、何が起きているの?誰か教えてよ」ハンナはやっとここで声を上げることができた。
「今から二時間前だ。アトランティア連邦の強襲上陸部隊が宇宙港の守備隊を襲って一気に攻め込んできたんだ!」ハンナの方に背を向けたままの男性の同僚が事情を説明してくれた。その人物は更に
「俺はぁ昔、軍隊にいたことがあるが、こいつらは正規軍じゃないぞ。装備は同じだが、中身の兵隊は別物だ。海賊だな。傭兵くずれの連中が徒党を組んで、アトランティア政府お墨付きの私掠船免状を持って略奪遠征に出向いてきやがった!この罰当たり共がぁ」と忌々しげに呟いた。
「でも、おかしいぜ!なんだか手際が良すぎる。さっきのドローンは警備兵の詰め所を真っ先に襲ったし、奴らは何が何処に保管されているかもう知っているみたいだ……」と周囲の従業員の誰かが話すのを彼女は耳にした。
ハンナは目を伏せながらも匿ってくれている従業員仲間が作る壁の合い間から周囲を観察してみた。自分達のように拘束された集団が、そこかしこに点在していてそのグループに対して四,五人の銃を構えた兵隊が配置されているのが判った。
なるほど、説明してくれた一人が言うように、襲撃してきた兵隊達の服装と装備は陸軍用野戦服と呼ばれる正規軍の規格に沿った物であるようだが、それを着込んでいる面々にいたっては様々で、肩までだらしなく髪を伸ばしてガムをかむ者。ある者はイヤホン付き携帯ミュージックに合わせてご機嫌にリズムを取っている。またある者はむき出しの肩から手首までびっしりとタトゥーが。
そんなならず者然とした連中は勝ち誇り、悠然と黒光りするマシンガンを携えて捕虜になってしまったハンナたちを威圧していた。
「いいか、お前らこの娘を奴らに渡すな!ブッセル大人しくしてろよ。マスクとゴーグルは取るな。そうしていれば男に見えるからな」班長が海賊連中に気を配りながら指示した途端に、周囲の男たちがより一層に壁を堅固にしてそそり立つ。
ハンナも言われたとおりにしゃがみ込んで膝を抱えていると、ふと妹アンナ、ここからさして離れていない別棟で、日夜ミシンで分厚い生地と格闘して、兵隊や士官の制服を作っている手先の器用な妹の事が気にかかって
「妹が、アンナが縫製部にいるんだ。向こうは大丈夫なの?うまく逃げられたのかなぁ?」とそのままの姿勢で周囲の大人たちに聞いてみたが、誰も何もいわない。
ハンナは妹の安否を気に掛けながらも正規軍を騙る、ならず者共の略奪行為に目を見張った。
奴らは自分たちが拘束されている場所から、ざっと五〇〇メートル先の出入り口となる大手門まで、びっしり兵員輸送用の軍用トラック、荷台が空のトレーラーの類を十数台を引き連れていた。脅された従業員たちが命ぜられるままに、フォークリフトを運転してトラックの荷台に次々と加工前の原材料を積み込んでいる。製品には目もくれず、転売すればキロ当たりで値の張る材料が略奪の本命らしかった。重量で何tクラスの鉄、アルミ製の各サイズの板材。ドラム缶ほどの大きさで一個当たりの重量が二〇〇キロを越える、自動ロボット向け溶接ワイヤー等、高価な資材が次々と満載されていく。
そんな折、別の集団で騒ぎが起こった。血気にはやった若手の従業員数名が賊共に歯向かったのだ。だが、ハンナ達から少し離れた所で断続的な発砲音が鳴り響くと、その従業員たちは動かなくなった。思わず彼女は目の前にある同僚の脚にしがみつき、震えあがるしか術がなかった。
こうした”略奪遠征”とよばれる暴挙は、惑星移住者の末裔たちが暮らすこの火星世界では年に数回起きていた。
この遠因となる列強間の軋轢は前述の『リューリック事件』によって地球側宗主国の影響から解き放たれた時点からより顕著な現象として蔓延りはじめていた。とは言え、全ての外交的なひいては軍事力を誇示する目的の諸作戦の全てに正規軍を宛がう余力などいずれの連邦国家にあろうはずもない。
こういった些末ないやがらせ的示威には、各国の軍上層部と政府関係者が結託、複数の領域に根城を持つ精強な海賊集団を取り込み彼らに”私掠船免状”なるお墨付きを与え敵対勢力への通商破壊戦、警戒の手薄な軌道要塞への上陸と略奪を黙認したのである。
ハンナことルナン・クレールの忌まわしい過去の記憶となっている、かつての自分の故郷『アルデンヌ』に対する略奪遠征もこういった施策から派生した示威行動の一環であったが、今回は複数の海賊船団が連合してほぼ数日に渡り総人口五〇〇万を有する、巨大な宇宙都市全土を占拠した稀有な例であった。この事件にブッセル姉妹は巻き込まれたのだった。
ハンナと同僚らが集められている場所からは、自分たちが仕事に勤しむ鉄工部の作業棟とすぐ隣の資材保管庫が有り、今そこでは海賊共が乱暴な脅し文句と銃で、従業員たちを酷使しているのが見て取れた。
そこを奥へと進むと、縫製部が入っている別棟がある。場所的にはハンナたちの位置からだと別の大きな建屋の影になってしまって見えないのだが、その方角から何やら歓声が挙がっている。
銃を携えた数人の賊徒が口々に
「いたぞ!」、「大漁だ!」、「上物ぞろいだ」などと周囲の仲間にアピールしながら作業棟の影になっている通路から出てきた。その後ろからは、ピンクの作業着を着用している女性従業員十数名が怯えながら一つに固まって歩かされていく。賊共の狙いは資材強奪のみならず”女狩り”も重要な目的の一つであった。
ハンナはその一団に目を奪われた。みんな一〇代、二〇代の女子を選んでこのまま資材と一緒に連れ去ろうとしている連中の魂胆は見え透いていた。そしてその後の彼女らに待ち受ける事態にも、まだ一四歳の彼女にでも容易に想像がついた。
そしてハンナはその中に双子の妹アンナの姿を認めたのだった。
ハンナは咄嗟に立ち上がると妹目がけて、わき目も振らず人の垣根をくぐり抜けて駆け出していた。
彼女の背後で「止せ!」「ここにいろ!」と同僚の発する忠告も耳に入らないハンナは妹だけを見て、装着していたマスクを顎までずらし、あらん限りの声を発して妹の名を連呼した。
その聞きなれた声にアンナが気付き、自分に向って走り寄ってくる姉の姿を認めると彼女のほうも声を嗄らすようにしてこう叫んだ。
「兄ちゃん、来るなぁ! 兄ちゃん逃げてぇぇー!」その叫び声はルナン・クレールと名乗っている今になっても記憶にこびり付いて離れない。
姉の身を気遣うアンナの悲痛な判断であった。女と解ればハンナも自分と同じ酷い目に会わされてしまうから。駆け寄ろうとするハンナの目には妹の両手をきつく胸の前で握り締め、両の眼に涙を浮かべながら首を横に振り続ける姿しか映らない。
あと五〇メートルばかりかという所まで近づいた時だった。ハンナは自分の腹部に何かがぶつかった強烈な衝撃を受けて、そのまま前のめりに倒れこんだ。
「何してくれてんだ!てめえはよぉー」
ハンナは背中越しに兇状を含んだがなり声を聞いた。彼女はお構いなしに立とうとすると、次に目に飛び込んできたのは軍靴の靴紐。ヘルメットとゴーグルを装着したままの顔面を正面から蹴り上げられた。今度は仰向けに倒れて、背中と後頭部がアスファルトに叩きつけられた。寝転んだまま、鼻の周囲がぬるっとする。鼻血が出ているようだ。
それでもなお、立ち上がろうとする彼女は眼前にマシンガンを構えた賊の一人が仁王立ち。その慈悲一つも無い眼差しを目の当たりにした。
賊徒は軍用ヘルメットを顎のフックをダラリと下げたまま被り、サングラスにヒゲ面だった。制服と装備は官給品らしいが、その身なりは正規軍の訓練を受けた兵士ならば確実に懲罰ものといえた。
そいつはゆっくりと至近距離で銃口をハンナの頭部に向けた。
「やめてえぇー! 兄ちゃん、兄ちゃん!」と賊徒に遮られて見えないがアンナの泣き叫ぶ声が聞こえる。
ハンナは生まれて初めて銃口を実際に向けられた恐怖にその場で固まってしまってどうにもできない。ただ
(このまま、大人しくしていよう。女だとバレなきゃ助かるかもしれない。連れていかれるのはイヤだぁ。絶対にイヤだぁ。オレだって妹を助けようとしたじゃないか)とそんな自分に都合のいい言い訳だけが、くり返し脳内をよぎった。
体を小刻みに震わせて黒光りする銃口を見ているうちに、腹部からせり上がってくる不快感を覚えたハンナはそのまま耐え切れずに嘔吐した。茶色い吐しゃ物をアスファルトに両手を付いて勢いよくぶちまけた。いきなり走ったせいもあるし、銃把で思いっきり腹部を殴られたせいかもしれなかった。
身を屈めて胃が激しく痙攣するまま昼食の成れの果てを戻し続けるハンナ。その様子を見ていた賊はあからさまに嘲るような口ぶりで
「汚ねえなぁー」呆れたように、マシンガンを肩に担ぎ上げてから
「おうっ兄ちゃんよ、妹ちゃんの言うとおりにしとけ。安心しろや。お前の妹は俺らが遊んであげたら帰してやるからよぉ」と去り際にもう一回、ハンナの脇腹に蹴りを入れてから軍用トラックの方に向っていった。
その先では、アンナたち若い女性従業員たちが荷台の上に担ぎ上げられていく。その前に兵士のなりをした海賊共は”品定め”とばかりに銃の先で彼女達の尻や胸を突っついたり、撫で回していた。
そんな中でもアンナは姉のほうを見つめたまま来ちゃだめだと首を振り続けていた。
ハンナは吐瀉物で汚れたままその場から立てずにいた。震える口で
「アンナァ……アンナァ……」と意識を朦朧とさせて連れ去られる妹の姿を見ながら呟くのみであった。
立ち上がろうと思えばできた。だが、今度立ったら次こそは撃たれるか、女とバレて拉致されるかもしれないとの恐怖が先に立ってしまい
(このままでいよう。先ずは身の安全を図ってからアンナを助ける算段をすればいいじゃないか)と、また自分に都合良く解釈する意識が働いた。だが、突然
(でも……ダメやっぱり行かなきゃ!)今までと正反対の衝動が心に沸き起こり、再度立ち上がろうとした時、顔の浅黒い班長が背後から彼女の肩をグッと押さえ込み
「立つんじゃないブッセル。あとは警察か、軍に任せるんだ!死んだらなんにもなんねえからな。じっとしていろ。いいな!」と言った。
これで決まった。ハンナはその場で泣き崩れた。涙で滲む目の前で獲物を収穫し終えた賊徒たちの乗り付けてきたトラックが大手門から次々と出発していく。
ルナンはこの時の涙は自分が助かった安堵からと周囲に見せるための演技であったのかも知れないとの邪推に取り付かれ苦悶する時もある。そんな時彼女は自分がたまらなく嫌になる。
しばらくしてやっと現場に軍警察が来た。が、捜査員は事務的な態度しか取ろうとしなかった。
彼らの説明では、襲撃部隊は一度、郊外に設置された彼らの陣地に撤収したと言う。再編制された『アルデンヌ』側の守備隊もそれぞれ担当の市街区を防衛するのに手一杯で、敵の掃討作戦を開始できるのは応援の艦隊が到着してからだと言うのだ。
それまでに拉致された少女らはどうなるのか?抗議するハンナと同僚たちだったが、この圧倒的不利な状況を如何ともできずに、ただ首をうな垂れるのみとなってしまった。
住まいのある四階建て集合住宅が軒を連ねる大型団地へどうやって帰ってきたのかはよく覚えてはいない。ただ、ルナンの記憶の中では、この後の事は忘れようにも忘れられなかった。
もうとっぷり日が暮れていた。暮れたと言っても軌道要塞内部では、地平線に沈む太陽の姿は拝めない。
そんな光景を見た者などいる筈も無い。軌道要塞自体の回転によって発生する遠心力を人工の重力として成り立つ閉鎖された歪で人間が唯一居住可能な宇宙都市では、朝日も夕陽もその内部の中心軸に存在する無重量ポイントに固定されている人工太陽が発する光の強弱で演出されるものでしかない。
自分の家のある棟へ向う途中に団地内に住む子供向けの公園がある。砂場、滑り台などの遊具の他に子供たちを遊ばせながら母親達が井戸端会議を開催するに格好の東屋もあった。その大きな屋根の下、吹き抜けのテラスにはいくつかのテーブルと椅子が据え付けられている。そこで一人の男が呑気に座っていた。
今日は街中が大変なことになっているのに誰だろう? とハンナは訝ったが近づくにつれてその人物が自分の父親だと判った。父ジョルジュ・ブッセルが占領している木製の粗末な造りのテーブル上には、ビールの空き缶が二、三本転がっている事に思わず顔をしかめた。
こんな日に酒。どうせこの騒ぎに託けて仕事もさぼったに相違ないと、日頃父親のだらしなさに憤懣やるかたないハンナは、妹が大変になことになっていることを、このろくでなしに告げようと小走りで駆け寄った。
「何だ? お前か。母さんならいないぞぉ。中に入れないんだ」父親の第一声がこれだった。
「親父ぃ!今日何があったか知ってるよな!よく酒なんか!訓練校が海賊連中に襲われたんだぞ」ハンナは出来上がっている父親を睨みつけたものの、ジョルジュはそんな娘をうるさそうにしながら
「そうらしいな……」とまるで人ごとのように呟くだけ。
「アンナが拉致されたんだぞ。助けにいけよ!娘だろう?何とかしろよ。親父ぃ!」いきなりハンナは父の胸倉をつかんだ。こうまで無気力で怠惰な人間だったとはの怒りに全身が震えた。
その時、父の上着の胸ポケットが異様に膨らんでいるのに気が付いたハンナは有無を言わせずそれを引っ張りだした。普段はあまりお目にかかれない火星世界の統合通貨であるジル紙幣。それも高額の千ジル紙幣の束だった。ゆうにハンナたち家族が半年は遊んで暮らせる金額はあった。
「何すんだ!返せ!」と取り返そうとするも酔いのせいか手許が覚束ない。娘の手から半分以上の紙幣がこぼれ落ちた。
父ジョルジュが散らばった紙幣を四つん這いで拾い集める浅ましい姿にハンナは心底から泣きたくなった。悔しさと情けなさで目線を下へ向けた時、足下に明らかに紙幣とは異なる紙片が四つ折りで落ちているのを見た彼女はそれを拾い上げ開いてみた。
呼吸が一瞬止まった。それは自分たち姉妹の通う訓練兵学校の見取り図だった。それだけではない。明らかに父の筆跡で、資材保管庫、警備員詰所、大食堂、そして縫製部という手書きの書付があった。
「オイッ! それもよこせ」娘の手からそれを引っ手繰ると何ごとか呟きながらそれをちぎって辺りにばら撒いている。
「おいっ親父。それどこへメールした?その金はどうしたんだよ?まさか売ったのかぁアンナを。答えろよぉ!」
「金がいるんだ!借金返さねえとヤバいんだよ。アンナなら殺されやしねぇ。ちゃんと解放するって約束になってるんだから…。お前は”お目こぼし”に預かったみたいだな」面倒臭そうな父は胸倉をつかんでいる娘の手を力任せに振り払うと、ハンナが来た道を逆に辿っていく。
たった今、家族と地域社会を見方によっては軌道要塞『アルデンヌ』全体への父の裏切り行為を知ってしまったハンナは驚愕と戦慄で膝が震え始めていた。立っているのがやっとの彼女はそれでも父親にまだ家族を思う気持ちがあるのではとの一縷の望みをかけて、去り往く背中に大声で訴えた。
「助けてくれよぉ! アンナを連れ戻してよぉ。お願いだから家族守ってよぉ」
父ジョルジュは一度立ち止ってから振り返りハンナを見た。
その時の父の顔。何の関心も示そうとしない、口の端を緩めて卑屈な笑みを浮かべているその顔を思い出すと、ルナンは今でも取り乱してしまうことがある。
「……ムチャ言うなよぉ」それだけを残し、後は酔った足取りで歩き去っていった。
残されたハンナは東屋の床にぺたりと座り込んで膝を抱えているしかなかった。いつまでそうしていたのか、よく覚えてはいない。
この日を境にルナン、当時の名前でハンナ・ブッセルはささやかな暖かい家庭の全てを失った。妹アンナは二日後に変わり果てた姿で市郊外の雑木林で見つかったのだった。父、ジョルジュは未だに行方不明のままである。
母ニーナ・ブッセルとはこの事件をきっかけに疎遠となった。母はただ一人残った娘との同居を拒み、親戚に預けられる形で別居を余儀なくされた。
身の置き所のない厄介者として暮らし続けていたハンナは、一六歳を迎えると同時に義勇兵公募に飛びついて親戚宅を出、海軍船舶に住み込みで乗り組み、故郷を後にした。
その後、弁護士から母が再婚してブッセル姓を捨てたことが告げられた。多少のお金を受け取る代わりに親子の縁を切り、今後一切の接触をしないという宣誓書にサインしたのだった。以来、ハンナ・ブッセルは故郷の土を踏んだ事は一度とて無かったのである。
「お前はさぁ、自分だけ助かろうとしたんだろう……やっぱりあいつのガキだよ。あんたはさ……」
最後に聞いた母の言葉はルナン・クレールの心に深い疵となって今も残っている。
第十一話でした。ルナンことハンナ・ブッセルとして生きて来た彼女の辛くあまりに残酷な過去。そして永遠に拭えぬ心の傷を披露した回となりました。少し重い話でしたが、いかがでしたでしょうか?私も最初は地の文のみでサラッと書いてしまうのがいいのかと思いましたが、主人公ルナンが感じた恐怖、後悔の念そして実の父への憤りなどを踏まえると、やはり再現ドラマ風に仕立て上げた方が良いのだろうと考え書き上げた次第であります。
ここまでお付き合い頂いた読者様はどう感じられたでしょうか?ルナンは卑怯者ととるか、これは仕方ないと感じられたか、瀕死の重傷を負っても立ち向かうべきであったのではないかと思われた方もいらっしゃると思います。でもやはり私は無傷で生き残ってしまい、母から辛辣な言葉を受けたルナンことハンナが今後にこれをどう活かすのか、心の傷を拭うためにどんな未来を想い行動を選択していくかを描くためにこのストーリー展開にする事としました。
今まで親友アメリアにも告げなかった妹の本当の死因。これにアメリアはルナンにどう接するかは次回にて。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!