ある老人がバーのカウンターに座っていた。冬の到来で外はひどく冷え込んでいるが、店内は暖房がほどよく効いている。この店は普段から多くの客で賑わうことはなかったが今日は老人以外に客は誰も居なかった。このため、店内に響く音といえば、お酒を飲むときにグラスに氷が当たる音とバーテンダーの作業をする音だけだった。
ビルのワンフロアを借りきって営業しているこの店は扉を開けて右側にカウンター席、左側にテーブル席が並んでいる。そして所々に壁時計などのおしゃれなインテリアが飾られ、室内は照明で程よい具合に明るい。音楽の演奏などはないので、ここに来る客はバーテンダーの提供するお酒を楽しみにやってくる。老人はその客の一人だった。
老人はグラスの酒を少しずつ口に運びながら、何かを思案するように一点をじっと見つめている。あまりにも静かな店内は彼の思考を遮ろうとはしなかった。
だが店の扉が開き、その静かな時間は終わりを迎える。イレギュラーな扉の開く音に老人は驚いて、その方を見た。
すると、そこにいたのは白髪交じりの中年男性だった。彼は足が悪いのか左足を引きずるようにしながら歩くと、一つ席を空けて老人の右側の席に座る。
この店では初めて見る客だったので、老人は男が座るとばれないように彼を観察した。男の口の周りには白髪交じりの無精髭が生えている。少し老けて見えるが40代くらいだろうと老人は考えた。服装はよれたコートにジーパンという店の雰囲気にはとてもではないが似合わないものであった。さらに新聞を左わきに挟んでいることが、そぐわない雰囲気を一層醸し出している。
彼はバーテンダーに「水をくれ」と注文する。バーテンは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに水をコップに入れ彼の前に差し出した。
彼は水で口を少し濡らすと、コップをカウンターに置いた。そして、わきに挟んでいた新聞を取り出し、それを広げて読み始める。新聞の一面の見出しは ”麻薬王にとうとう有罪判決か!?”といったものであった。
それを見て老人は顔をしかめたが、目線を自分のグラスに戻し、残っていた酒をグイッと喉に流し込んだ。もう一杯飲むかどうか考えていると、急に声をかけられた。
「あんたはこの店の常連なのか?」
声の主は横に座った男であった。
「そうだが? 何か?」
と答える。すると、男は広げていた新聞紙から顔を出して、こちらに話しかけた。
「あまりにも外が寒いもんでね、この足だから家に帰るまでに凍死しちまうのさ。だから、この店でいったん体を温めようと思ってね。ここで会ったのも何かの縁だ。実は今日は俺にとって祝うべき日なんだ。一杯奢るから、話し相手になってくれないか?」
「別に構わないが……だが君は祝い事だというのに、バーにまで来てお酒を注文しないのはなぜかね?」
と老人は聞き返した。男は新聞をカウンターに置いて答える。
「あんたなら経験があるんじゃないか。約束してるんだよ。酒を飲まないってね。この年になってから、いろいろと制約が多いのさ!」
多少、違和感を感じながらも、「確かにな」と老人は答えた。バーテンに「同じものを」と手元のグラスを掲げながら、注文していると、またその男は話かけてきた。
「ところで、今日はどうして一人で飲んでるんだい?」
「ここで、この時間一人で過ごすのが、私の最近の日課なんだ」
そう老人は答えると、今度は男に質問を投げかけた
「よく思えば君は今日は何のお祝いなんだね?」
「引退祝いってやつかな。俺は今日で、今の仕事を辞めるんだ」
男はすぐに答える。
「君の歳で仕事を引退するのかね? どの仕事でもこれからが一番の稼ぎ時だろうに……」
すると男は、「俺の仕事は若い時しか務まらないのさ」と言った後に、少し考えるそぶりを見せてから、こう答えた。
「実は、俺は殺し屋をやってたんだ……」
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