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完結済 短編 現代世界 / 日常

続々りんりんりんと世界が泣いている 僕と私とぼくの物語 喪失と赦しの最終章

公開日時:2024年12月26日(木) 15:32更新日時:2024年12月26日(木) 15:32
話数:1文字数:5,668
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 「やだ! 行くったら行くんだもん!」

 

 夢だった。

 それはいつもの夢だと分かる見たくもない夢だった。

 

 夢の中で小学校一年生のぼくが、五歳上の兄に怒りながら叫んでいる。

 

 ぼくはこの日、どうしても川に行きたかった。クラスの友達が学校に持ってきたアメリカザリガニ。それを捕まえに行きたかったのだ。

 

「お父さんもお母さんも、子供たちだけで川に行っちゃいけないって、いつも言ってるじゃないか」

 

 六年生になる兄が、駄々をこね続けるぼくに困り果てた顔を向けている。その時、兄が浮かべていた表情は今でもはっきりと覚えている。

 

「何で? 何で行っちゃ駄目なの?」

 

「だから、危ないからだって」

 

「やだ! 行く! 行くったら行くんだもん!」

 

 先程から繰り返している会話だった。

 

 行くな。行っては駄目なんだ! 

 

 ぼくはこうして何度も同じ夢を見る。その夢の中で何度も同じ叫び声をあげる。

 だけれども、いつも夢の結末は変わらない。まるで録画機のように同じ夢が繰り返されるだけだ。

 

 この後、優しかった兄は駄々をこね続けるぼくに、とうとう折れてしまう。そして二人で近くの川に行ってしまうのだ。

 

 川辺に着いたぼくは兄の制止を無視して、川の中に張り切って入って行く。そして川の深みに嵌りこんでしまう。

 

 焦ったぼくはそのまま溺れてしまいかろうじて兄に助けられるのだが、ぼくを助けた兄が水面から浮かび上がることは二度となかった。

 

 

 

 

 ベッドの上で目を覚ましたぼくは無言で涙を拭った。いつもそうだった。この夢を見た後、ぼくはいつも涙を流している。

 

 待っていたかのようなタイミングで、目覚まし時計が起床時間を告げる。朝なのだ。もうベッドから立ち上がって、高校に行かなければならない。

 

 階下で朝食の準備をしている母親には泣いていたことが分からないように、ぼくは改めて両手で顔をこすって涙の跡を消す。

 

 テーブルには朝食が並んでいた。父親はすでに会社へ行っている。いつもの変わらない光景だ。兄がいなくなってからも変わることがない光景だ。

 

「おはよう」

 

 母親が起きてきたぼくに声をかける。その声は大きくも小さくもない。

 

「うん、おはよう」

 

 ぼくは返事をして食卓に座る。母親が食卓の向こうで、まだ朝だというのに疲れたような顔で目頭を押さえていた。

 

 朝食の香りに紛れて線香の煙とその香りが、兄の記憶を静かに運んできた。心が少しだけ押し潰されるのを感じて、ぼくはその思いを頭から追い出す。

 

 父親と母親は毎朝、仏壇に線香を上げて手を合わせていた。ぼくも同じだ。学校に行く前には必ず仏壇に手を合わせる。

 

 別に両親からそれを強要されているわけではない。ただそうしなければいけないと、ぼくが勝手に思っているだけだ。

 

 仏壇に飾られている時を止めてしまった兄の写真は、いつも笑顔で小学校六年生のままだ。ぼくが兄の年齢を超えてしまっても、こうして高校一年生になっても兄はあの時のままだ。

 

 そんなことは当たり前なのだけれど、その事実もぼくの心を苦しくさせていた。

 

 早く朝食を食べて、仏壇の兄に手を合わせて学校に向かわなければ遅刻をしてしまう。ぼくはそう思いながら食卓の上に手を伸ばしたのだった。

 

 

 

 

 勉強が嫌いなわけではない。でも学校はつまらなかった。あの時を境にして、学校を面白いと感じたことはないのかもしれない。

 

 友達はいない。あれからできたこともないのかもしれない。いじめのようなことも今までに何度かあった。でもぼくがあまりにも無反応だったので、いずれもすぐに収まってしまった。

 

 何に対しても基本的には無反応だという自覚。それは確かに自分でもあった。何かに関心を向けてしまうことが、兄を忘れてしまうことに繋がってしまう。そんな思いが心のどこかにあるのかもしれない。

 

 ぼくは昼休みの屋上で少しだけため息をつく。手には購買で買ってきたカレーパンがある。でも今日は食欲がなくて封を開ける気持ちになれなかった。

 

 少しだけうつむかせていた頭を持ち上げると、僕の視界には女子生徒の姿があった。昼休みに屋上でよく見かける一つ上の先輩だ。

 

 彼女はもの凄く難しい顔をしながら、焼きそばパンを食べていた。口元を汚したり、こぼしたりしないように焼きそばパンを食べるのは、案外と難しかったりする。だからそんなにも難しい顔をしているのだろうか。

 

 そんな顔をするぐらいなら、焼きそばパンなんて選ばなければいいのに。

 

 ぼくはそう思いながら、漫然とそんな様子の彼女を見ていた。

 ぼくの視線に気がついたのだろう。彼女が視線を僕に向けた。

 

 もぐもぐもぐごっくん。

 

 そんな音が聞こえてきそうだった。彼女は口元をハンカチで拭いながら、ぼくに視線を向け続けている。

 

 ぼくも今さら視線を外せなくなって、曖昧な表情で彼女に顔を向けていた。

 

 彼女はこの高校である意味、有名人だった。こうして屋上でよく会うからということではなくて、他の学生とほとんど関わりがない僕でも彼女の顔と名前は知っていた。

 

 彼女は父親を殺されていた。当時はニュースなどで何度も取り上げられていて、ぼくもそれを目や耳にしたことがあった。

 

 学校内の噂では、彼女を人質に取って父親を殺したのは中学時代の同級生だったらしい。そこにどのような事情があったのかは知らない。

 

 その同級生は彼氏だった。彼女は妊娠していた。彼女にフラれた同級生が逆上して父親を殺した等々、色々な噂が流れていた。その噂の中に真実があるのかどうかは知らない。

 

 そう言えば先日、唐突に天国はあるのかと彼女に訊かれたことを思い出した。あの問いかけは、同級生に殺された父親を思ってのことなのだろうか。

 

 ぼくに問いかけた後、空を見ながらあの時、彼女は涙を流していた。ならばきっとそういうことなのだろうとぼくは思った。

 

 そんなことをぼんやりと僕が考えていると、彼女は立ち上がってぼくの方に向かって歩いてきた。

 彼女の手にはまだ食べかけの焼きそばパンがある。その姿が何だか少しだけおかしかった。

 

 彼女は無言で、印象的な薄い黒色の瞳を真っ直ぐに向けてぼくの前に立った。

 

「いつも一人でお昼を食べてるよね。クラスに居場所がないのかな?」

 

 いきなり直球で斬り込んできたなとぼくは思う。それに、いつも一人なのはそっちも同じだろうとも思う。ぼくが返事をしないでいると、彼女は再び口を開いた。

 

「隣に座ってもいいかな?」

 

 少しだけ迷惑な気持ちがあったが、拒否する理由も特にはない。ぼくは黙って彼女に頷いた。

 彼女は隣に座ると、手にしていた焼きそばパンを思い出したように一口だけ齧った。

 

 また食べる時に難しい顔をしている。

 ぼくは横目でそれを見ていた。

 

「食べないの?」

 

 ぼくが持っているカレーパンを彼女が指差した。

 

「うん。何だか食欲がない」

 

「ふうん」

 

 頷くぼくに彼女はそう返事をしたものの、大してそれには興味がないようだった。

 

「この間、天国の話をした時、見たわよね?」

 

 何と言えばよいのか分からなくてぼくは頷いた。

 

 何を? 

 とは訊けなかった。彼女がその時に流していた涙のことを言っているのが明らかだったから。

 

「あれは何でもないんだよ。変に心配をかけちゃいけないかなって思ってね。」

 

 ぼくは別に心配なんてしてはいない。するつもりもなかった。

 

 他人にそこまでの興味なんてありはしない。彼女にしても、よく昼休みの屋上で見かける先輩だということだけだ。

 

 その認識は限りなく記号に近いものでしかなくて、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

 そこで会話が途切れた。少しだけ柔らかな風が吹いていて、彼女の肩まである髪をわずかに揺らしている。

 

「大丈夫。他人に興味なんてないから」

 

 僕は風に揺れる彼女の髪を見ながら言う。

 

 その時、彼女が今にも泣き出してしまいそうな顔をした。理由は分からない。

 それはぼくの気のせいだったのだろうか。次の瞬間には、柔らかな微笑を浮かべて彼女は口を開いた。

 

「他人に興味なんてない。前も私にそう言った人がいたんだよ」

 

 ぼくは少しだけ肩を竦めてみせた。他人に興味なんてないのだ。だから知らない人の話なんて、余計にどうでもよかった。そんなぼくの反応を気にする素振りも見せないで、彼女は言葉を続けた。

 

「私を包んでいた世界は、りんりんりんって泣いていたんだ」

 

 ……りんりんりん。

 彼女が言ったりんりんりんと泣く世界。それがどんな世界なのか。想像するのは難しかった。だけれどもその言葉には心が締めつけられるような、悲しくて寂しい響きが確かに存在していた。

 

「私の大切な人。その人がそんな世界から私を救ってくれたんだよ。私に居場所を作ってくれたんだよ」

 

 大切な人。

 殺された父親のことだろうか。それとも彼氏のような存在を指しているのだろうか。

 

 彼女が何を言おうとしているのか分からなかったが、居場所ができたのならよかったじゃないかとぼくは思う。どちらにしても、ぼくには興味もない関係のない話だった。

 

 父親を殺されたのだ。彼女が何かしらの痛みを抱えているのは想像できる。だけれども自身と並列で、ぼくのことを語られても困るというのが正直な僕の気持ちだった。

 

 曖昧に頷こうとするぼくの顔を彼女の薄い黒色の瞳が捉えている。頭の片隅で綺麗な瞳だなとぼくは思う。  

 

「何かを望むなら、願っているだけじゃ駄目なんだ。私の大切な人は、よくそう言ってたんだよ」

 

 願っているだけじゃ駄目。

 何かをしなければ、動かなければ何も変わらないということなのだろう。

 

 でもそんなことは分かっていた。何かをしなければ何も変わらないことなんて、少し考えれば分かることなのだから。

 

 ぼくは空を見上げた。空はどこまでも透き通るような青さだった。そこでは彼女の髪を揺らしている穏やかな風が吹いているだけだった。

 

 空の青さ。

 穏やかな風。

 

 ぼくはふと気がついた。そんなことを感じるのは、いつ以来だったろうか。兄が死んでからぼくを包む世界は、ぼくに何かを訴えることがなくなった気がする。

 

「空が青い……」

 

 少しだけ呆けたようにぼくは思わず呟いた。

 

「知らなかったでしょう? 気がつかなかったでしょう? 私もあの日までは気がつかなかったんだ。空って青いんだよ。そして今日の空は凄く青いんだよ」

 

 少しだけ嬉しそうな、それでいて優しい彼女の声だった。

 

 彼女がさっき口にした居場所という言葉。

 きっとそうなのだ。兄が死んでからぼくには居場所がなくなった。

 

 居場所なんて家にも学校にもどこにもない。居場所がなくなった世界で、両親はぼくの顔を見ると時に辛そうな顔をするだけだった。

 

 その顔を見るのがぼくは何よりも嫌だった。その顔を見る度にぼくの心はぎゅっと締めつけられたような痛みを感じてしまう。

 

 ぼくが原因で兄は命を落としてしまった。ぼくが川に行こうと我儘を言わなければ、兄が死ぬことはなかった。何をどう言い訳したとしても、その事実が変わることはない。

 

 きっとぼくは責められたかったのだ。お前の我儘で兄が死んでしまったのだと。全てがお前のせいなのだと。そうして皆から責められてぼくは楽になりたかったのかもしれない。

 

 だけれども両親がそう言って、僕を責めるはずはなかった。周囲の人たちだって同じだった。逆に皆がぼくを慰めた。お前は何も悪くないと。あれは事故だったのだと。

 

 ぼくはゆっくりと視線を空から彼女の顔に向けた。変わらずに彼女の薄い黒色の瞳が僕に向けられている。

 

「ふふっ。頬が濡れているね」

 

 泣いているねと彼女は言わなかった。

 ぼくは小さく頷いて頬を乱暴に拭った。

 

 願っているだけじゃ駄目。

 何かをしなければ、動かなければ何も変わらない。

 

 そう。きっとそうなのだ。

 当たり前のことなのだ。

 最初から分かっていたことなのだ。

 

 きっとぼくは謝らなければいけない。

 

 川に行ったこと。我儘を言って兄を巻き込んでしまったこと。ぼくは兄に、そして両親に謝らなければいけない。

 

 きっとそういうことなのだ。そんな単純なことなのだ。そんな単純なこともできないままだったから、ぼくはどこにも行けないままなのだ。

 

 ぼくは誰にも責められず、謝れないままでどこにも行けなくて、ぼくは自分の居場所を失ってしまったのだ。

 

 ぼくは再び空を仰いだ。そこに広がる青さは、まるで兄が残してくれた優しさそのもののように感じられた。その優しさがぼくの胸を静かに満たしていく。

 

 そしてそこにある優しい風が彼女の髪を揺らしながら、言わなければいけない言葉をぼくの中に運んでくるような気がした。

 

 涙が再び頬を伝っていくのを感じる。頬を伝う涙とともに、胸の奥にあった重石のようなものが少しずつ溶けていく。

 

 これは何の涙なのだろうか?

 

 あの日、彼女が言っていた。

 天国はきっとあって。この空の向こうと……。

 

 ぼくはそっと瞳を閉じる。優しい風が静かに吹き抜けていく。

 

 青い空と優しい風に包み込まれる感覚があった。そこには確かに優しかった兄の息吹を感じることができた。

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。

 今まで言えなかった言葉をぼくは何度も心の中で呟く。

 

 今さらになってぼくは気がつく。この命は兄が守ってくれたのだ。ならばこんな所で立ち止まっていていいはずがない。

 

 居場所がないと言って、子供のように蹲ったままでいいはすがない。

 

 その時、一瞬だけ強い風が僕を吹き抜けていった。

 

 やっと分かったのか? 

 当たり前だろう。

 馬鹿だなと明るく言いながら、あの日の兄が優しく笑う姿がぼくの脳裏に浮かんだ。

 

 ぼくはゆっくりと目を開く。無数の悲しみを吸い込んだ後の静寂のような空の青さだった。風だけがそこで優しく吹いている。

 

 そして、それまでと変わらずに彼女の薄い黒色の瞳はぼくに向けられていた。

 

 涙はまだ止められない。それが少しだけ気恥ずかしい。彼女はそんなぼくの気持ちを汲みとるかのように、優しく静かに微笑む。

 

「ねえ、もし次にまた会ったら、今私を包んでいるこの世界のこと、もう少しだけ話してもいいかな?」

 

 また会ったらって昼休みには、ほぼこうして顔を会わせているじゃないかとぼくは思う。

 

 彼女の言葉に答える前に、再び吹いた優しい風が二人の間を駆け抜けていった。

 少しだけ彼女にそう反発しながらも、ぼくは空を仰いでゆっくりと頷いたのだった。

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