オズナ王子への学園案内は、昼食を迎える頃には終わってしまっていた。
当然といえば当然だが、一年生の使う施設などたかが知れている。なので、私が案内すべき場所もまた限られている。
そういった理由もあって、学園の隅々まで案内する必要などないのだから、一時間もあれば十分回れるのだ。
けれど彼は、ことあるごとに座って休憩しようと誘い、そのたびに執事が冷たいお茶を差し出すのだ。
さすがに、お茶の時間のように茶菓子まで用意することはなかったけれど、遅々として進まない案内に、少々苛立つほどだった。
それでも彼にとっては、想像以上に早く終わったようで、少々困惑した表情を浮かべている。
帰るにはまだ早いと、中庭のベンチへと二人で腰掛けた。
背後に木が植えられていて、心地よい木陰になっているおかげで、降り注ぐ日差しは暑さではなく、美しい光の波を地面に描いている。
風になびく髪をかき上げると、オズナ王子が私の横顔をのぞきこんでいるのに気づいた。
「どうかされましたか?」
「いや、エリヌスが無理しているんじゃないかと、少し心配になってね」
「そんな、無理などしておりませんわ。もう一周……。いえ、三周回ったって平気ですわよ」
「ふふっ……。面白いことを言うね。
まさか体育祭でもあるまいし、校内を何周も歩くなんてしないだろう?」
「体育祭の競技にだって、そんなものはありませんよ。
けれど、体育で使う施設は案内しておりませんでしたね。
午後からは体育館や剣術の訓練所、プールなどを案内いたしますわね」
「さすが、アーテル学園は国内最大の教育機関だけあって、施設が充実しているね。
慣れるまでは道に迷ってしまいそうだよ」
「心配なさらなくても、すぐに慣れますわ。
九月からは、毎日通うことになるんですもの」
「そうだね。君とも、毎日会えると思うと嬉しいよ」
オズナ王子は、そう言って優しく微笑む。
それは上品で気品あふれる、王子という肩書きがなくたって、世の女性を皆虜にしてしまうような笑みだった。
いけないいけない。彼は私の元を去る人、油断していると、王子のオーラに圧倒されてしまいそうだ……。
「でっ……、では、そろそろ次の場所へ……」
「慌てることもないだろう? 時間は十分あるのだから、あとは午後に回せばいいじゃないか。
それにこの暑さだ。ちゃんと休まないと、体に差し支えが出てしまうよ?」
「いえいえ。私は本当に、全然平気ですもの。
もしや、オズナ王子がお疲れでしたかしら?」
「そうじゃないんだ。少し、心配しただけだよ。
…………。エリヌス、なんだか昔より、たくましくなったかい?」
「たくましく、ですか?」
「あ、ごめんね。ちょうどいい言葉が見つからなくて。
昔は、少し歩いただけでも疲れていたようだったから……」
「そういえば、そうかもしれませんわね。
屋敷の冒険の時も、歩けなくなって、おぶってもらっていましたわね」
「そうそう。それで、まるでお兄ちゃんだって言われたんだよね。僕たち同い年なのに」
「ええ。それからですわね、お兄ちゃんとお呼びしていたのは」
思い出話に、笑顔の花が咲く。
懐かしくて、少し恥ずかしい小さい頃の私たち。
その風景は、今でも昨日のことのように思い出せた。
けれど、オズナ王子の笑顔はすっと引いてゆく。
「…………。僕は、留学している間も、エリヌスが無事かずっと心配していたんだ。
僕が居ないと、何もできないんじゃないかって。
でも、君は僕の知らないうちに、強くなっていたんだね」
「ずっと、心配していただいてたんですね。ありがとうございます。
けれど私も、いつまでも誰かに頼り切りになるわけにはいきませんの。
公爵として、なにより一人の女として。自分で歩いてゆかなくてはなりませんもの」
「そう、だね……。うん、喜ぶべきだよね……。
ごめんね。少し、寂しいなんて思っちゃって……」
留学なんて言いながら、実情は人質だ。戦争に発展させないための、生贄でしかない。
そんな彼が、どのような生活を送ってきたかなど、少し想像を巡らせることができる人ならば、察するだろう。
たとえ人質でも彼は王族。だから、苦しい生活を送ってきたわけではないはずだ。
衣食住は保証されるだけではない。最高級のものを、最高の状態で提供されていたことは、聞くまでもない。
けれど、その周囲には誰が居ただろうか。同い年の友人と呼べる人は居ただろうか。
きっと、そんな間柄の人はいない。誰もが彼と距離を取り、腫れ物のように扱うだろう。
彼の怒りに触れることは、二国間の外交問題へと発展するのだから。
オズナ王子は、きっと留学先で思い出に縋りながら過ごしてきたのだろう。
すでに存在しない、幼い頃の私の幻影にすがり、そのポッカリとあいた胸の穴を塞ごうと、必死にもがいていたはずだ。
その結果、元々世話好きだった彼は、病的なまでに「幼く弱い私」に固執した……。
そして、今の私に幻滅した。そう考えるのが、自然に感じたのだ。
けれど、それを悟ったとして、私に返す言葉は持ち合わせていなかった。
いまさら、弱い少女を演じるなんて手遅れだったし、なにより私自身が、それを許せなかったから。
「ごめんね、こんな話しちゃって。それじゃ、お昼にしようか。
ランチボックスを用意してもらってあるんだ。もちろん、エリヌスの分もね」
「はい」
彼にとって必要なのは、今の私じゃない。だからこそ、彼は私から離れていくのだろう。
その事実に湧き出る感情は、寂しさであるはずなのに……。
なぜか私は、妙な納得感しか持ち合わせてはいなかった。
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