ヴァイスは、理解力が低いわけではなかった。
ただただ、今までなされるべき教育がなされていなかっただけだ。
聞けば男爵家だというのに、家では誰も相手にしてくれず、食事さえ用意されていない体たらくだそうだ。
その話に私は憤慨したけれど、彼は「誰からも目視されていない」という状況なら仕方ないと、半ば諦めの混じる声色で語っていた。
私にとってみれば、普通に見えるし触れる相手なので、周りの大人がわざとそうしているようにしか感じなかったのだが……。
ともかくそんな状況なら、教育も施されていないのが当然であり、四苦八苦しながらも、私と同水準になるまで、日が暮れるまで勉強していたものだ。
「あら、もう日が沈みますわ。今日はここまでにいたしましょう」
「ああ、ありがとな。おかげで最近は、家庭教師の言ってることもなんとなく分かってきたんだ」
「そう、それはよかった」
「それじゃ、俺は帰るから」
「ええ。最近は暗くなるのが早くて残念ですわ」
「まあ、俺は暗くなってから帰っても、別に平気なんだけどな」
「そんなの危ないですわよ!」
「俺に気付けるのなんてお前だけだし、襲われたりもしねえよ」
「そうではなく、夜道は足元も見えにくくて危険でしょう?」
「あー……。まあ、それも平気だ。多分」
「油断禁物、ですわよ」
「ああ。それじゃ、また明日な」
「ええ、また明日。お気を付けて」
「ありがとな」
そう言い残し、彼は扉を開けて出てゆく。扉の前に待機しているメイドも、彼に気付くことはない。
彼だけでなく、彼が踏みしめる絨毯の足跡にも、彼が開いた扉にすら、気づくことはなかった。
その様子に私は、本当に彼が父の言う、イマジナリーフレンドなのではないかと不安を募らせるほどだ。
本当に彼が存在していないなら……。私はおかしくなってしまったのだと、肌寒い夜を不安と共に過ごしていた。
それでも次の日に姿を見せてくれるだけで、私の心は少し晴れたのだ。
そんな秋の日々が通り過ぎ、雪の降り積もる白い季節がやってくる。
その頃にはかくれんぼにも少々飽きが来ていたし、寒い中隠れるのも辛いだろうと、遊びは本を読むことに変わっていた。
暖かい暖炉の前で、二人で並んで本を読めるようになったのは、日々の勉強のおかげだった。
けれど、彼はそんな日々に少々退屈していたのかもしれない。本当は本を読むよりも、外で遊びたいと思っていたのだろう。
実際に、その年初めて雪が積もった日には、使用人たちを連れて外で雪遊びをしたものだ。
けれど、雪だるまを二人で作ろうと言い出し、目標の半分の大きさの雪玉を作る頃には、私は動けなくなってしまったのだ。
その後、二日ほど寝込んだのを彼は気にして、外で遊びたいとは言い出さなくなった。
そんな彼の心境を察したわけでもないが、寒いからとずっと部屋に居ることに、私も少々飽きてきていたのも事実だ。
何度も読み返し、一字一句そらんじられるおとぎ話のページをめくりながら、私はつぶやいた。
「退屈……。ですわね」
「ん? そうか?」
「そうですわよ! 毎日屋敷の中にこもりっきり。
この本のような、世界を見て回る冒険をしてみたいですわ!」
「お前……。すぐに動けなくなって、その辺でうずくまってるのが想像できたんだけど」
「むっ! そんなこと……、たぶんないですわよ」
「ないと言い切らないのな」
「…………」
ヴァイスは、この頃から口達者だったように思う。
ちょっとした言葉の端を拾い上げ言い返す。これは、教育うんぬんではなく、地頭の良さだ。
もしくは大人に認識されていないからこそ、普通の子どもでは知り得ない、大人とくに貴族たちの舌戦の現場に居合わせたせいかもしれない。
妙に偏った知識と立ち回りのうまさは、すでにこの頃から会得していたのだ。
「まあでも、退屈なのはそうかもしれないな」
「ですわよね!? なにか、面白い遊びでもないかしら……」
「遊びでいいのかよ」
私にとっては、冒険とはすなわち遊びの一種だった。
オズナ王子との屋敷の冒険、その記憶がそのように思わせていた。
物語のように世界を回りたいと言いながら、その世界とは屋敷の中だけだったのだ。
しかし彼の提案によって、私の世界は広がることになる。
「お前さ、平民たちが英雄と呼んでる、リンゼイってヤツのこと知ってる?」
「リンゼイ? 誰ですの?」
「そっか、知らないか。国の歴史も勉強してるから、知ってるかと思ったんだけどな」
「英雄でしたら、大抵の方の名前を憶えているはずですが……」
「ま、ソイツのことはいいんだ。直接関係ないし」
「なんですの? 気になるじゃありませんの」
「いやな、そのリンゼイってヤツを讃えた祭りがあるんだ」
「お祭り? 私、そういうの行ったことありませんの!
でも、本の中には出てきますし、行ってみたいと思ってましたの!」
その頃の私にとっては、祭りとは本の中の出来事だ。
後に英雄となる平民が書き記した物語、それに出てくるキラキラとしたイベント。
そんなものは実在しないと思うほどの、縁遠いもの。そういった印象を持っていた。
だから、本当にそういうものがあるのだと知った時、強く胸が高鳴ったのを覚えている。
「なら、連れて行ってやろうか?」
そんな私が彼の言葉に「いいえ」と言うはずなどなかった。
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