夜もふけた屋敷の中、静かに時の流れる部屋で寝息を立てる少年と、竪琴を奏でる男が一人。
スゥスゥとリズムを刻む寝息に、弦を弾く指が止まる。
男は起こさぬようすっと立ち上がり、少年の額にキスをしてから、部屋をほのかに照らす蝋燭の火を吹き消した。
少年、そう表現するには少々大人びているが、兄フリードにとって弟テオは、いつまでも幼い子どもだ。
反抗期が親に向かわず兄に向かっても、彼の心の中に荒ぶる葛藤を、兄に直接ぶつけることは叶わずにいた。
それはひとえに、フリードのスキルによるものである。
キィ……、と音を立てようとする扉を黙らせるようにゆっくりと閉め、まだ少し昼の暑さの名残が横たわる廊下へと、フリードは歩みを進めた。
「こんばんは、フリード様」
「おや、これはこれは……。君はいつも突然だねぇ」
目の前にすっと現れた人物に、フリードはいつもながら驚きを隠せなかった。
まるで背景の一部が、突然人の形を纏ったように、彼はいつだって突然現れるのだ。その相手とは、情報屋ヴァイス。
「驚かせてしまったようでしたら、申し訳ございません。
弟君との貴重なお時間を奪わぬよう、こちらで待たせていただいたのです」
「それはどうも、お気遣いありがとう」
すっと頭を下げ、謝罪の意を示す情報屋。しかしその実、弟との一挙手一投足さえも、情報屋は見ているとの脅しだ。
言葉にするのであれば「情報屋と侮って、敵に回すようなことのないように」という忠告である。
貴族社会で育ってきたフリードもまた、言葉として発せられぬ言葉を理解できぬわけはない。だからこそこの男が、屋敷に勝手に出入りすることを、問題にすらしなかった。
叩けば埃の出る身なら、なおさらのことだ。
「こんなところで立ち話するものでもないね。どうぞ、私の部屋へ」
「恐れ入ります」
警戒心を持ちながらも、利益ももたらす相手であるとフリードは理解している。そのため、なんの躊躇もなく自室へと招き入れた。
そしてご丁寧にも、その日の昼に保健室でしていたように、情報屋へと紅茶を淹れるのだった。
「お気を遣っていただかなくとも結構ですのに」
「待たせてしまったようだからね。せめてものお詫びさ」
「では、ありがたく頂戴いたします」
ニヤニヤと表現した方が適切な、営業スマイルの情報屋は、差し出された赤い茶を口に含む。それを見届け、フリードはハープを奏で始めた。
これではまるで、召使いが主人に対する施しを行っているように見えるだろう。だが、事実はそれとは異なっている。
弦を爪弾くフリードに対し、情報屋は部屋をぐるりと見回し言葉を発した。
「また、楽器が増えたようですが……」
「ああ。私は楽器を触っている時が、最も心が落ち着くものでね」
音楽を奏でるのをやめず、彼は顔も見ずにそう答える。
そこに誰もいないと言わんばかりに。実際、他の者がこの部屋の中を見ても、フリードが独り言を呟いているようにしか見えなかっただろう。
「学園にも、私物の楽器を増やしているようですね」
「必要なら惜しまないさ」
「必要なら、ですか……。学園内ほど、安全な場所はないかと存じ上げますが」
「そうではない、業務に必要なのさ。学校医としての仕事にね」
「と、いいますと?」
表情を変えず、情報屋は問い返す。知っていても知らないふりをするのもまた、彼のいつものやり口だ。
それは、すでに知っていることに付随して、新たな情報をこぼす可能性に期待しての、いわば呼水なのだ。
「君も調べはついているだろう? 私のスキルのことさ」
「ええ、失礼ながら調べさせていただいております。
フリード様の奏でる音楽を聴いている間、どのような相手も戦意を失う……。そのようなものだったかと」
「戦意ねぇ……。正確には、敵意や殺意……。いや、言葉尻など関係ないか……。
荒れた精神状態を落ち着かせる、そのように捉えてもらえれば十分さ」
「どちらにせよ、王宮の次に安全と言わしめる学園内においては、不要なスキルに思えますが」
「もちろん、外からの攻撃においてはその通りだろうね」
そう言いながらも演奏をやめないのは、情報屋に対して警戒しているということの表れだ。
それをヴァイスも理解しつつ、別に咎める気もない。なぜなら、本当に危害を加えるつもりなら、今回のようにわざわざ相手に自身の存在を明かさず、気付かれることなく近付き、暗殺することも可能だからだ。
無駄な足掻きだと内心嘲笑いながら、情報屋は話を聞いていた。
「では、一体なにを警戒しているのでしょう?」
「生徒たちだよ」
「生徒たち、ですか……」
「そう。君にも思い当たる節があるんじゃないかい? 自身のスキルが分からず、不安に苛まれる、あの鬱屈とした日々にさ」
「ははは、残念ながら経験がありませんね。私はむしろ逆ですから。
あまりに強いスキルに振り回され、制御できるようになるのに苦労した側なんですよ」
「おや、これは失礼。無能力者のスキルの強さは、我々の想像もおよばぬほどだとはね」
「いえいえ。誰しもがそれぞれに、悩みも苦労も持っているものですから」
「そうかもしれないね。それはたとえスキルを持たぬ者だとしても、また同じなのかもしれない……」
貼り付けた笑みを崩さぬ二人。
ゆるやかに流れる音楽の中、腹の探り合いは続いていた。
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