「エリヌス様……。セイラさんのこと、許してあげられませんか……?」
その言葉が発せられた瞬間、中庭の一角では時が凍りつく。
「いったい、なんのお話かしら?」
「あの……。私が働いているパン屋さんが、一年のセイラさんのお父さんがやっている店でして……。
それでその……、お二人にも仲良くしていただけたらと……」
「へえ……」
「あの子、悪い子じゃないんです! きっと、何かの思い違いとか、そういうのだと思うんです!
だって、一緒にいても全然……」
「なるほど、色々と話は聞いてらっしゃるようですわね……」
そーっと気配を消し、逃げ出そうとするヴァイスの腕を力一杯掴む。
そのまま引き込んで組み伏せ、逆海老固めをキメてやれば、ヴァイスは情けない声を上げた。
「ぎゃぁぁぁあ!! ギブギブ!! 死ぬ死ぬ!!」
「いったい何を吹き込んだか、ご説明いただけますわよね?」
「無理無理!! 骨折れるっ!!」
「説明が無理なら、折ってしまいましょうか!!」
「わかった! わかったから! 説明するから!!」
素直に喋るつもりになったようなので、固め技から解放してやると、ヴァイスはぐったりと芝生の上で横たわる。
「まったく……。余計なことを言わなければ、こんなことにもならずに済んだのに」
「だからって、謎の技をかけるな……。んなもん、どこで習ったんだよ……」
「秘密ですわ」
「そうですか」
その後ヴァイスは、言った通りミー先輩に吹き込んだ、私とセイラの件を白状する。
とはいっても、彼の知る情報は、表に出ているものだけだ。
懸念していた、知られてはいけない情報は、どうやらヴァイスでさえまだ掴んでいない。
ならば、この世界にそれを知る者は居ないといって問題ない。
少しの安心感と、この場をどう乗り切るか、その方法を私の頭はフル回転で探っていた。
◆ ◇ ◆
ヴァイスの知る情報、それはセイラが夜中の屋敷に忍び込み、私に危害を加えようとしたという内容。
けれどそれは、事実とは異なっている。
あの夜、私はいつも通り寝る準備をし、専属メイドのエイダにおやすみの挨拶を終えた。
彼女は廊下と私の部屋の間に挟まれた、メイドの待機室で他のメイドと共に、交代で仮眠を取りながら、警備を兼ねた世話をする。
けれど、夜に彼女らを呼ぶのは、幼い頃に悪夢でうなされた時くらいだった。
今では朝まで彼女らを呼びつけることもなく、闇が覆う夜は、お互い深い眠りにつくだけだ。
静かな月明かりがさす部屋の中、私はベッドへと横たわり、明日も楽しい的当てができることだけを考えて、眠りへと落ちようとしていた。
けれど夢と現の間を漂う瞬間、窓から聞こえるコンコンという音に、私は暗い部屋へと引き戻される。
虫か鳥か、何かが当たっただけだと思いながらも、身体を起こし、音のする方へと目をやった。
そこには月を背に立つ、少女の姿があった。
突然のことにびくりとなり、掛け布団を抱きしめる。
少女は窓を開け、そして静かに部屋へと足を踏み入れた。
「こんばんは」
「だっ……、誰ですの!?」
人差し指を口の前で立て、静かにのジェスチャー。
そして静かにこちらへ歩み寄り、目の前へとやってきた。
「あっ……。あなたは……」
「遊びに来ちゃった」
いつも通りの無表情で、ピンク髪の少女、セイラは悪戯っぽく言い放つ。
表情と声色が釣り合わず、月明りしかない闇も相まって、私は少々不気味さを感じた。
「驚かさないで下さいまし。
それに、遊びに来たいならそうと……」
「なんてね。これを渡しに来たんだ」
「え? なんですの?」
手渡されたのは、一冊の本。
つるりとした光沢ある表紙と、薄いながらも丈夫な紙でできた、手のひらより少し大きい本。
色々な本を目にしたことはあるけれど、このように製本されたものは、今まで見たことがなかった。
「本? これを私に?」
「そう」
「それなら学園で渡していただければ……」
「それはダメ。他の人に見られちゃいけないから。
この本は、未来が記された本。だから、二人だけの秘密」
「未来を記した本?」
「そう。この世界は……」
突然のことに、理解が追いつかない。
けれど、多分突然じゃなくたって理解できなかったと思う。
だって、意味のわからない言葉が多過ぎたんですもの。
この世界がゲーム? 私が悪役令嬢?
ただただ混乱し、理解できるはずの単語の意味を、ちくいち考え直していた。けれど、何も繋がらない。
言葉の点と点は互いに引き合わず、星座のように結ばれることはなかったのだ。
「私が悪役令嬢? それって何ですの?
それにゲーム? ゲームって、チェスのような?」
「説明が難しいな……。
ゲームは、読んでいる人が選ぶ選択肢によって、内容が変わる本みたいなもの。
そして、その本では読者が主人公。主人公を邪魔するのが、悪役令嬢」
「意味がわかりませんわ。もしかして、この本がそのゲームですの?」
「違う。その本は、ゲームのエンディングのひとつ、バッドエンドの先を書いた小説。
君が女王となった、この国の未来が記された本」
「私が女王に……?」
ふと視線を落とす。
本の表紙には確かに、私と似た人物が描かれていた。
少し大人びていて、そしてその頭には、クラウンが乗せられている状態で。
「今はまだ信じなくてもいい。
けれど、それを読めば本当だとわかるはず」
言葉を残し、彼女は窓の外へと飛び立ってゆく。
「お待ちになって!」
追いかけ窓の外を見ても、そこに彼女の姿はなかった。
「ここ、二階ですのに……」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!