「今、私が食べているパンのにおい……?」
エージェントNは肯定を示すため、静かに首を縦にふる。
「ん? なんだ? ソイツはこのパンのにおいがしたって話してんのか?」
「あ、うん。そうなんだけど……」
どうしよう、この話をヴァイスにそのまましちゃいけない気がする。だって私の食べているメロンパンは、ヴァイスの持っている黒パンとは違う。
黒パンは他のパン屋さんにだってある、いたって普通のパンだ。けれどメロンパンは、セイラさん発案の、カノさんの店でしか買えない珍しいものだ。
そしてこのアイディアを盗んで同じように売り出している店は、少なくとも私の知る限りではひとつとしてない。
つまりそれは、店にパンを買いに来たお客さんの中に、この事件に関わる人物がいるってことだ。
さらに悪いことにレジ打ちをしていた私は、確実にその相手を顔を合わせているということでもある。
そこから導き出される答えは……。ヴァイスの無茶振りを誘発する原因にしかならないってこと!!
「なに変な顔してんだ?」
「ぴゃっ!? なっ、なんでもない!」
「まあいいが、詳しく聞かせろ」
「えーっと、その……」
絶対正直に言ったら「そのパン買った奴全員思い出せ」とかめちゃくちゃなこと言い出すに決まってる!
そんなの常連さんならまだしも、全然記憶にない人の方が多いし、なにより誰がどのパン買ったなんて覚えてるはずないじゃない!
でもこの男ならそのくらい朝飯前な気がするのよねぇ……。で、自分にできるからって、私にも当然できるはずなんて思い込んで、無茶な注文してくるのよ。勝手な想像だけど!
「ま、まぁあれよ。パンなんてどれも似たような匂いだし?」
「はいはい、嘘はいいから正直に話せ。なんとか誤魔化そうとしてるって、顔に書いてあるぞ?」
「くっ……」
やっぱ無理よねー! そりゃ、あの貴族の荒波の中を口八丁で生きてる情報屋に、ド凡人の私が口で勝てるはずないもの!
分かってはいたけどさ、正直に通訳するしかなさそうね。
「えっとね、私の食べてるこのパンと同じ匂いがしたっていう話なの。
メロンパンって言うんだけど、これはカノさんの店でしか売ってないのよ。
だからその……」
「なるほど。その猫の感じた異変をもたらしたヤツを、お前は見ているはずだってことだな」
「だからって無理よ!? お客さんの中の誰が鉄の死神かなんて、わかりっこないもの!」
「は? 何言ってんだ?」
ヴァイスは心底あきれた顔をする。なんかいつものことで、この顔にも慣れてきた私が嫌になるわ。
それでも一発殴ってやりたい衝動は起きるんだけど!
「なにって、つまりあれでしょ? メロンパンを買った人の中に、鉄の死神がいるって……」
「なんでそうなるんだ?」
「え? 鉄の死神はパンを持って、標的の様子を見に行ったってことじゃないの?」
「遠足かよ……」
大きくため息をつき、やれやれと首を振るヴァイス。やっぱり実際に一発殴ってやろうかしら。
「そりゃお前から見たらそう見えるだろうよ。その異変から事件が起きるまで、時間的開きもそうないんだからな」
「そうでしょ? 私にしては鋭いでしょ? そんな顔してるのも、ただ私を褒めたくないだけなんでしょ?」
「変なトコでひねくれるな。だいたい鋭くもなんともねえよ」
「なんでよ!?」
「まあ、色々な可能性を考えるのは悪くはねえさ。けどな、お前の今の状態は、ただ先入観に縛られて現実が見えてないだけだ。
その猫の情報が正しいか、本当に匂いの主は鉄の死神なのか、もしくは関係者であっても本人じゃない可能性だってある。
そういう考えられる可能性全部を潰して、その上で確信を持った時に情報ってのは価値を持つんだ。
んな適当な想像だか妄想だか空想だかわかんねーもんにカネ出すほど、貴族どもはバカじゃねえぜ」
「むっ……。むむむ……」
確かに言う通りかもしれない。すっごい言い方がムカつくけど!
でも、ちょっと見直したなとも思ってる。やり方や態度やら諸々はともかく、ヴァイスは情報屋としての仕事にプライドを持ってるんだって分かったから。
けどまー、言い返したくなるよね。態度が悪いから!
「じゃあなに? エージェントNの見つけてくれたのは、なんの手がかりにもならないってわけ?」
「そりゃまだ未確定だ。なんでお前さんには、これから来る客の様子をチェックしてもらう必要があるだろうな」
「なによそれ。結局今回、なんにも成果なかったじゃない。たいそうな作戦でもあったのかと期待したのに」
「まあそれも、お前が杖を奪い返されてなきゃ、かなり進展したんだろうがな」
「あっ……」
そうだったー! めちゃくちゃ重要な物証取り逃したんだった!!
それを言われると私も弱いのよねぇ……。
「で、でもそっちだって、なんにも手がかりつかめてないでしょ!?」
「なに言ってんだ。一応小さいながらも、手掛かりになりそうなモンは手に入れたさ」
「へ?」
「これだ」
ヴァイスは上着の胸ポケットに手を入れ、何かを取り出す。
彼の手のひらに転がされたものは、金色で先のとがった筒型の、金属片のようなものだった。
「なにこれ?」
「おっと、お前さんは触るなよ」
手に取ってよく見ようとすれば、さっとヴァイスは私から手を引き離す。
まったく、なに些細な嫌がらせをしてるのやら……。
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