コンコンと、静かに父の執務室の扉を叩く。
扉の前で佇む執事は、私たちの存在に気づいていない。
けれどノックされた先の部屋では、確かに音が聞こえていたようだ。
静かに扉を開ければ、父はこちらを見つめていた。
当然、ヴァイスが共にいるのだから見えてはいないのだろうけれど……。
「ヴァイス、あなたたちは外へ……」
「おい、一人で大丈夫かよ?」
「これは、私が話を付けないといけないことですもの」
静かにそう告げれば、ヴァイスはエイダ親子と共に廊下へと出てゆく。
屋敷に来た時から驚きの連続だったエイダたちだったが、なおも変わらず困惑の表情で立ち去った。
「エリヌス、そこにいたのか。
ふふっ……。まさか、かくれんぼで執務室に隠れていたとは、誰も気付くまい」
突然目の前に現れた娘に、冷静な反応を見せる父。
けれどそれが、騒ぎを大きくしないための父の方便であることは、当時の私であっても気付いていた。
「…………。お父様、お話がございます」
ただの官僚で、たまたま功績を残し、王女の婿となった。ただ運に恵まれた、平凡な能力しか持たぬもの。
父への周囲の評価は、仕事ぶりが当たり障りのない平凡なものであるがゆえに、低く見積もられていた。
その平凡さが、腐敗の蔓延るこの国の中枢では異常なことを、当時の私含め誰も気付いてはいない。
だが、父は彼らが思っているほど、愚かではない。
それは当時も今も、変わらぬ父の異常性だろう。
その日一日のことを包み隠さず話した時、父は小さくため息を漏らすだけだった。
「知っていたよ。君たちが屋敷を抜け出したことはね」
「まさか、お父様もヴァイスが見えるのですか!?」
「いや、そうではないさ。ただ、異常なことに気付くことができるのだよ。
おそらく、これが私のスキル。異常であることに気付くだけの、平凡なスキルさ」
「異常であることに気付く?」
「君のお友達は、私にも見えない。けれど、何かおかしいということは気付くことができるのさ。
だから君が屋敷を抜け出した時も、君がいないことに気付いていたのさ」
「でしたらなぜ……」
「屋敷の外を探すよう命じなかったのかって?」
私は、コクコクとうなづく。
叱られたかったわけでも、その時止めてほしかったわけでもない。
ただただ、父の行動が理解できなかったのだ。
「それが、異常なことではないからさ。
いつまでも幼いままではいられない。
いつか君も、屋敷の外へと出てゆく日が来る。
それまでに、ちょっとしたいたずら心や、冒険心。
あとは少々の反抗心が、そういったことをさせる。
それが娘の健全な成長であり、異常なことではないと、私のスキルが語っていたのさ。
だから止めなかった。ただそれだけのこと。
それがどんなに、父親として寂しく感じることであってもね」
父は私が屋敷に籠りきりの生活をするではなく、「見えない誰か」とであっても、楽しく過ごしていることを喜んでくれていたのだろう。
そしてそれによって、本来叱るべきことをしてしまうのも、成長だと目を細めていたのだ。
けれど当時の私には、言葉上は理解できても、父の心のうち全てを理解するのは難しかった。
親としての気持ちを察するには、幼すぎたのだ。
しかし少なくとも、父が寂しく思っていることだけは、その表情から伝わっていた。
「お父様がそのように考えているとも知らず、勝手なことをして申し訳ございません」
「気にすることはないさ。エリヌス、外は楽しかったかい?」
「はい……」
「だったらいいんだ。君が楽しい日々を送っているなら、私はそれで十分だ」
「…………」
「では、連邦から逃れてきたという二人を……」
「お父様、その前にひとつ、よろしいでしょうか」
「どうしたんだい?」
「もし、ご迷惑でなければ……。次は、お父様とお祭りに行きたいです」
父は私を見る目を見開き、一瞬動きを止める。
驚きと不意打ちに、エイダたちの処遇を決める考えも止まったかのようだった。
「ははは……。君は、私が寂しいと言ったから気を遣ってくれているんだね。
気にすることはない。離れてゆく子を見守るのもまた、父親の務めというもの」
「いえ、そうではありません。私が、お父様とゆきたいのです。
それとも、お父様と一緒に過ごしたいというのは、おかしいことなのでしょうか……」
「本当に君は……。嬉しいことを言ってくれるね。
ふふっ……。では今度は私も、仕事のふりをして、こっそり屋敷を抜け出すとしようか」
父は満面の笑みでそう言い放つ。今思えば、これが父の異常な私への執着の原因だと思う。
もちろん当時の私は、知るはずもなかったけれど。
だが、それによって救われたのも確かだ。きっと、父が公正な判断を下すことに執着していたら、今の私は、学園にすら通わせてもらっていなかったのかもしれないのだから。
「では、二人を部屋へ入れておくれ。あとのことは、私に任せておきなさい。
外に行って疲れただろう。エリヌスは部屋で休むといい」
「はい。よろしくお願いします」
上機嫌に筆を取り、書類を作り始めた父に小さく頭を下げ、部屋を出ようとドアノブに手をかける。
ひんやりと冷たい感覚に、この後の母のお説教を思うと、背筋を冷たい感覚が走った。
「エリヌス、どうしたんだい?」
「えっ……。あの、その……。お母様にも言わなければと思いまして……」
「ああ、それならこちらから伝えておくよ」
「でも……」
「心配はいらないさ。波風立てずに物事を運ぶのは、私の得意とするところだからね」
上機嫌で小さくウインクする父の姿に、母のお説教の想像より冷たいものを感じたのは、それが初めてのことだった。
残念ながらそれから先、その冷たさを幾度と感じることになるのだが……。当然、その時の私は知るよしもなかった。
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