彼のスキルは、大変便利なものだった。
どれほどの人混みであっても、彼が進めば海を割るかのごとく、相手が道を開けるのだ。
それはまさに、王の乗る馬車に対し、誰も邪魔だてせぬよう避けるかのように。
もちろん夕飯の材料を買いに来た、商店街にひしめき合う人々も例外ではない。
だが、情報屋ヴァイスにとってはそれが日常である。
そして、王のような気分に浸るためだけに、わざわざ貴重な時間を割いて商店街へとやってきたわけではない。
「邪魔するぜ」
からんからんと来客を知らせるベルがなる、ひと気のないパン屋。その戸を彼は開いた。
カウンターで暇そうに本を読む店主は、思わぬ人物の登場に目を丸くする。
「いらっしゃい。残念だが、売るパンはないぞ。
どこかの誰かが買い占めたおかげで、今日の分は全部はけちまったからな」
「いったい、どんな物好きがそんなことしたんだろうな?」
「ホント、物好きも居たもんだ」
くっくと笑いあう二人。
もちろんその物好きとは、目の前のヴァイスという青年だ。
「それで、その物好きさんが何の用だ?
ミーちゃんもセイラも、今は学園に行ってるぞ?」
「ああ、二人が楽しそうにしてたってのの報告さ」
「そりゃどうも。交代で休ませてはいるんだがな。
二人揃っての休みってのはないし、一緒に楽しんでるならありがたい限りだ」
「あの二人は人畜無害のカタマリみたいなもんだ。仲良くもやれるだろうよ」
「ミーちゃんはともかく、セイラは喋らないだけだがな」
「口は災いのもと。沈黙は金。それだけで十分優秀だろ?
なんたって、うっかり自身の出生を喋っちまったら、国際問題だ」
その瞬間、店の空気が冷え固まった。
店主のカノは即座に隠し持っていた短剣に手を取り、今にも目の前の男に投げんとしている。
「ただの平民の娘に、どんな国際問題が転がってるのかねぇ?」
「まあまあ、その物騒なモノから手を離しな。
悪いようにはしねえし、お前さんの考えてることなら、こんなトコ来ずにすでに実行してるぜ?」
「ほう、物騒なモンとはこれかなっ!?」
その瞬間、短剣が投げられた。
それは的確に、ヴァイスの頭を貫かんとひと筋の軌跡を描く。
けれど、ニヤつく顔に刺さるかと思われたその瞬間、そのニヤけづらは、ふっと視界から消える。
短剣はそのまま空を斬り、入り口の戸へとタンっという心地よい音で着地した。
「そうカッカすんなよ。短気は損気って言うだろ?」
「おまっ……」
カノが呆然とした次の瞬間、声は背後からかけられる。背には冷たいものが流れた。
即座に背後を取れる……。否、実際に取られてしまった。それはつまり、死を意味するのだ。
だが、背後の男から突き立てられたのはナイフではない。
「ひゃっ!?」
つつっと指で背を撫でられ、カノは無様にも悲鳴を上げたのだ。
「ぷっ……。なにおっさんが、歳ゆかねえ乙女みてえな声出してんだよ。
しっかし、さすが騎士様。鍛えられた身体ですこと」
クスクスと笑い、耳元でささやく。
カノは別の意味で危ない相手だと、再び冷たいものを感じたのだ。
「なんてな。俺にそっちのシュミはねえさ」
「人をバカにすんのも大概に……」
「バカにはしてねえさ。ちょっと試しただけだ。
まあ、これで分かっただろ? お前じゃ俺を殺せない」
「…………」
店に入った時から変わらぬニヤけづらが、どす黒いものへと変わる。
それと同時に、その男が敵わぬ相手だと、カノは悟ったのだ。
「俺たちの事を調べたのか」
「ああ。そういや言ってなかったな。俺は情報屋をやってんだ。
なんで人よりちょっとだけ、調べものが得意なのさ」
「…………。目的はなんだ?
俺たちの処分が目的なら、すでにやれているだろう?」
「へへっ、よくお分かりで。俺にその気はねえよ」
「なら、口止め料が目的か?」
「おいおい、俺は貴族専用の情報屋だぜ?
ただのしがないパン屋を餌にするほど、安くはねえよ」
「お前さんが誰を相手にしてるかなんて興味ないな。
何が目的か、さっさと言ってくれ」
「なに、簡単な話さ。ちょっとばかし、協力してくれねえか?」
まゆを釣り上げ、怪訝な顔をするカノ。
相手はいまだに、貼り付けた営業用の笑みを浮かべていた。
「協力……?」
「そ、協力。俺にはちいとばかし叶えたい願いがあってね。
そのためなら、汚い手でもなんでも使うつもりさ」
「ほう……。それは、セイラに関わることか?」
「間接的に、な」
「ふん……。その願いってのは、俺に言えることか?」
「ま、あんまり口外できる話じゃねえが……。
教えてやった方が、互いに弱みを握れんで、そっちもちっとは安心か」
「そうだな。俺とセイラの件もある。だから俺たちは裏切れねえ。
なんで、互いに知られちゃマズい秘密を握り合っている方がフェアだな」
「俺は別にフェアプレイ精神なんざ持ってねえがな」
ケラケラと笑うヴァイス。
そして笑い声からシームレスにため息をつけば、その心のうちに灯した野望を吐き出した。
「俺はオズナ王子の婚約者、公爵令嬢のエリヌスを手に入れる。そのためには、どんな手でも……。
たとえエリヌス本人を不幸に陥れる手であっても、なりふり構う気はねえ」
その時の表情だけは、作られたものではなかった。
ただひたすらに真剣で、真っすぐで……。そして深い闇を思わせる男の目だった。
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