英雄リンゼイを讃えた祭り。それに行くためには、いくつか超えなければならない壁があった。
その中でも一番高い壁こそ、屋敷を抜け出すという大仕事だ。
「今日は久しぶりに、庭でかくれんぼしますわよ!」
朝起きてすぐ、私は使用人たちに宣言する。
身支度をしてくれていたメイドは、目を丸くしていた。
今思えばきっと、妙にテンションの高い私に驚いていたのだろう。
それを悟られないよう、落ち着いた声色で彼女は話す。
「お嬢様、この寒さではお体にさわります。部屋の中で過ごされてはいかがですか?」
「いいえ! 今日はかくれんぼしますの! 寒いのなら、暖かい服を着ればいいでしょう!?」
「…………。かしこまりました。お召し物を交換いたします」
そうして、外用の服を用意させることに成功したのだ。
第一段階はこれでクリア。次にやることの布石も、すでに打っていた。
「では、私たちは隠れさせていただきます」
「いいえ! 今日は私が隠れますわ! 頑張って見つけてくださいましね!」
「えっ……。はい、かしこまりました」
いつも鬼しかやらない私が隠れる方に回ると言い出したのだから、彼女らは相当戸惑っただろう。
だが、そんな様子を見せることなく、顔を手で覆い隠し、ゆっくりと10秒数え始める。
それが屋敷を抜け出すための作戦だとも知らずに……。
「1……、2……、3……」
ゆっくりと数える声を聞きながら、私は約束の場所へと向かう。
それは、自室のクローゼットの中。当然、メイドたちと遊んでやるつもりはない。
そこにはすでに先客が居るのだ。
「よう、うまくいったか?」
「ええ、作戦通りですわ!」
「しっ……。まだ大きな声を出すなよ」
「あらら、ごめんなさい。楽しみで楽しみで、つい……」
「そうかい。あとは任せな」
中に居たヴァイスは、得意げな顔を見せる。
彼にとってみれば、この屋敷の警備などざる同然だ。
だが、私という荷物を連れて抜け出せるほどのざるだとは、幼い私も思っていなかった。
「ところで、どうやって抜け出しますの?」
「んなもん、堂々と玄関からだぞ?」
「へ? そんなの、見つかってしまいますわよ!?」
「ま、見てなって」
そういうと、ヴァイスは私の手をとり、クローゼットの扉を開ける。
目の前には、私を探し回るメイドの姿があった。
ビクリと肩を震わせ、立ち止まる私。それを気にすることなく、手を引くヴァイス。
驚きながら静かに目の前を通り過ぎても、彼女が私たちに気づくことはなかった。
そしてそのまま廊下へと出て、数多くの従者たちとすれ違ってもなお、誰一人として私たちに視線を送るものはない。
驚きよりも戸惑いが勝った頃には、玄関ホールを抜け、庭を抜け……。いつの間にか、街までやってきていたのだ。
周囲には店々が立ち並び、路面に向かい商品が陳列されている、賑やかな場所。
初めて来る喧騒の中、新しく目にするなにもかもよりも、私は別のことに驚いていた。
「なっ、なんで気づかないんですの!?」
「当たり前だろ? 俺のことに気付けるのなんて、お前くらいなもんだ」
「だからって、私が気づかれない理由には……」
「そりゃ、俺の周りも気付かれない範囲に入ってるからだ。こんな感じにな」
そう言うと、ヴァイスは通りがかった八百屋で、山積みにされている林檎をひとつ手に取り、店主の目の前でかじる。
けれど店主は、その行為に怒るでもなく、捕まえようと動くでもなく、威勢のいい声での客引きを続けるだけだった。
そして、もう一つ林檎を手に取り、私へと差し出す。
だが、私はそれを受け取るわけにはいかなかった。
「ちょっとあなた! それは盗みではなくて!?」
「今さらどうした? 俺はいつもこんな感じだぞ?」
「まさか……。あなた、盗人でしたの!?」
「そう言われてもな……。俺が金払おうとしても、相手にされねえし。
というか、それ以外の方法で食いモン手に入れられねえしな」
「そんな……」
いままで見てきたものも驚愕だったが、彼の普段の生活がそのようなものだということもまた、ひどくショックだった。
それは彼が日常的に盗みをしていた事実にではない。
彼が、誰にも視認されていないがゆえ、食事も与えられていないということに対してだ。
彼と初めて会った時、その時彼は何をしていたか……。
屋敷に忍びこみ、私用にと用意されていたお菓子を食べていた。その時に気付くべきだったのだ。
彼は、盗まなければ生きてゆけない、そのような生活をしていたのだと。
彼の日常を考えると、それはあまりに寂しく、残酷だと感じたのだ。
「…………。けれど、だからといって私も同じようにするのは許せませんわ」
「じゃあ、どうすんだよ? お前、金持ってるのか?」
「ええ。屋敷には私のお小遣いがありますわ。
一度取り戻って、りんご分をお支払いいたしましょう」
「けっ……。マジメちゃんかよ」
彼はあきれたように言うが、それを無視して私は屋敷へと彼の手を引き戻る。
まさか、屋敷では今一大事になっているとは、つゆとも知らずに……。
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