「玲奈君は、肉体と精神のどちらが大事と思うかね?」
いつかの夏の日の夜も夏川と通話をしていた。
「どちらも大事だ、二元論的に語ることに意味なんてない、精神のほうが大事だと言いつつも所詮君も肉の塊に過ぎないじゃないか、のどれかかな」
「なるほどいずれの言説もいっぱしの真理を含んでいるが、しかしこの度に限っては心理テストだと思って率直に答えてみてほしい」
「その言葉に甘えるとすればぼくは精神のほうが大事だ、と言うかな。こうぼくに言わせているのも二元論を前提すれば精神だしね。もっともこんなことを空け拡げに述べればすぐに街中のメルロ=ポンティの信者が襲い掛かってくるから、胸の内に秘めておこう、とぼくの精神は結論づけるけどね」
「玲奈君は捻くれているな。これがもし本当に心理テストだったら赤点に違いないだろう」
「再試上等だよ」
「しかし実のところこの私も玲奈君とおおむね同じような結論を抱いているのだ。というか、私は私の肉体を所有しているという考えをそもそも持たない。ゆえに心身二元論とはナンセンスである以前に四流シュールギャグであると思っている」
たとえば今玲奈君が耳にあてているであろう携帯電話、と夏川は言う。
実際ぼくは明日中に完成させないといけない営業資料を作りつつ、スマホを机上に置いてスピーカー機能で喋っているのだが。携帯電話って最早死語だし。
「玲奈君はこの携帯電話を玲奈君の身体の一部と思うかね?」
「ぼくは思わないけど、まるで身体の一部になっていると喩えるのは無理筋ではないんじゃないかな。一日何時間もスマホを触っている人を指してだね」
「玲奈君にとって携帯電話は身体でなく道具というわけだ。この二概念の境界についてはデカルト以来つねに論じられてきたところであるが」
「その点、夏川にとっては」
夏川、と発声することに未だに慣れきっていない自分に気づく。
「身体もスマホと同じ道具に過ぎないってこと?」
「違う。身体もスマホも道具で、道具は世界だ。ゆえに身体は世界だ」
「三段論法であること以外何も理解できなかったよ」
と言いつつ、ぼくは夏川の謂うところの「世界」について最近ようやく解釈できるようになってきていた。
すなわち、
「高校時代の私を玲奈君はきっとおぼろげにしか憶えていないだろうが、私は極度の運動音痴である。私が動かそうとイメージする通りに身体が動かないのだ。世界を動かせないのだ。また同様に、私は勉学に対しても私のイメージする通りに思考を巡らせられたことが一度もない。解けるはずの数学の問題が解けないし読めるはずのドイツ語が読めない、そんなことの連続であった。むろん相対的に成績は良かった方であるものの、この私のイメージと実際が一致しないという点において私は「思考音痴」と云うべき存在だった。
そして漸く結論づいたのだが、運動音痴であり思考音痴である私──ここでは一般に云う「精神」としての私──は結局、徹底的に世界に対して音痴である、このことに帰せられるのだ。うまくいこうとする私に対し、私の肉体をふくむ世界はあの手この手で邪魔しようとする。私は圧倒的に孤独であった」
孤独感が暴走してしまい、みずからの身体さえも世界側に措いてしまったということ。
肉体さえも自らのやりたい夏を阻むものと思えてしまい。
ソクラテスは毒杯を仰ぐことに少しも躊躇しなかったと云う。今の夏川ならば自ら薬局をめぐって劇的な毒杯を買い求めるだろうか。
これもかれもとどのつまり、
「世界って本当にくだらなくて馬鹿げてる」
「うん、世界って本当に」
くだらなくて馬鹿げてる、と呟きながらぼくは更新の済んだ営業資料を保存した。
明日の朝にはまた、社会に順応しなおさなければならない。
*
玄関を開けると青髪の少女が立っていた。
「『雪国』の冒頭のように抒情的で良い独白だ」
抒情も何も状況が呑み込めず固まっているぼくに対し、少女は舌足らずな声で言う。
「翻ってここは八月の東京の真昼でね。ただ立っているだけで身体が蝕まれてくるよ。わたしは駒子のように全裸ではないのだ。ひとまず中に入れてはくれないか、きっと冷房が効いているだろう」
ぼくの反応を待たず少女はぼくを横切って玄関を進んでいった。シャンプーと汗の混じった若い匂いがした。
インターホンが鳴った時、ぼくはきっと昨日の刑事が取り調べにでも来たのだろうと最初思ったのである。もう昼と言って差し支えない頃合いだし彼らの詮索に対してぼくもそれなりの覚悟はできていたつもりだった。夏川の死にまつわる顛末も、取り調べに素直に従うことにより幕を引こうと考えていた。
そのはずが目の前に青髪の見知らぬ少女(と呼ばうのはひとえに彼女の身長が一目で低かったからに他ならないので実際はさもあらずかもしれないが)が現れるやいなやぼくの住まうワンルームに無断で入り込むとくればいくら情緒に疎いぼくといえど胸の早鐘を連打せざるを得ない。
これ以上の悠長な叙述は後回しにしたほうがよいだろう。
とっくに家の奥まで入り込んでいた青髪の少女はベッドに腰掛けて辺りをきょろきょろと眺めていた。
「わたしの人生に足りないのは森の奥の木漏れ日が射し込む小さな神社のような世界だなと感じてやまないよ。ところでこの部屋はいい歳をした女性が住むにはあまりに殺風景だね。ベッドに衣装タンス、本棚など最低限のものしかない。色で言えば灰色だ。ローテーブルにいくつか置かれているコーヒー缶は何かを召喚するための魔法陣なのだろうか」
異様だった。さながら夏川のような語彙を放つには少女の声音はあまりに儚くて幼い。見れば少女は胸元にまで髪をローブのように下げており直ぐには気づかなかったが、紫のキャミソールにショートパンツといくら真夏とはいえよそを出歩くには無防備な格好、おまけに裸足である。布団の中からそのまま引っ張り出されたのかと謂う不自然さであった(今はぼくのベッドに座っているのでそういう意味では釣り合っていた)。
「ところで自己紹介が遅れたが、わたしは夏川という」
そういえば、本日はまだ何も飲み食いしていないことに気がついた。曲がりなりにも労働して価値を生んだことになっている平素と異なり今日はベッドと玄関を一往復しつつ二酸化炭素を振りまくだけのお掃除ロボ完全下位互換であるところのぼくなのだが、そういう分際の時に限って生理現象とは活発になるものである。時間もあることだし朝方に感じた薄気持ち悪さも和らいできたことだし冷蔵庫にありあわせのもので久しぶりに自炊でもしようかと思った。ぼくにもかつて独居を謳歌していた頃があったのだ。
ところで今この少女は
じぶんのことを夏川だとほざいた。
「そしてどうか赦してほしいのだが今のわたしは大部分の記憶がランダムに欠落しており自分のバックボーンすら判じかねている。憶えているのは自分が夏川という名前であることと女であることとだいぶんどうしようもない人生を歩んできたことそして、ある親友を探しているということだけなのだ」
「夏川」
「夏川と呼ばれるのは何故かむず痒いな、わたしは夏川であるはずなのに」
「ぼくの顔──あるいは声に覚えはない?」
「わたしが覚えのあることは先に列挙し尽くしたはずだが。答えの解っていることを敢えて問うなんて社会のようなことをするじゃないか。さては君、労働という自己疎外活動に明け暮れている者かね」
彼女の口ぶりにますます心当たりしかない。ここはひとつ、
「人間は労働するために生まれているからね。ゆえに人間はひとときも労働しないではいられない」
「パスカルみたいな詭弁だな。せっかく君との一期一会を大事にしようと息巻いていたのに対話する気が失せてしまうよ」
間違いない。この変人は夏川である。ぼくの知っている夏川とは見た目を大いに異にする、というかこの女は昨日死んだはずなのだがとにかくこの少女を措いて夏川がほかに存在するはずがない。存在してはならない。
一旦あらゆる事象に客観的な説明をつけることを放棄し、ぼくは夏川の隣に座り、ぼく自身のもっとも面白いと思う解釈に基づいてこの青髪との会話をつづけることにした。
「記憶が抜け落ちているといっても、五分前に世界が誕生したわけでもあるまいし、ここに来るまでの出来事などは言えるでしょう。言ってみてよ」
「君は自分が記憶喪失になったことがないからそのような事が言えるんだ。君の言葉を借りればわたしにとっては世界も五分前に誕生したんじゃないかと思うくらい直近の記憶さえも不確かなのだ。わたしはわたしという一人称や夏川という名前にすら今は絶対の自信がない。君の家の前で素足でアスファルトに焼かれながら玄関が開くのを待っていた以前の出来事の記憶は、故に君の問いに回答するならば言えないとしか言えないね。あるいはもう少し落ち着けば思い出すべきことも思い出すかもしれないが」
ばたりと夏川は電池が切れたように倒れ込んだ。ぼくのベッドにぼく以外が寝転がるのは初めての事である。
「済まない、少し休ませてはくれないか。足の裏が焼けるように痛いのもそうだが、なんというかこう充電が必要な感覚なのだ」
「と言われても」
首肯する気にも、とはいえ拒む気にもなれなかった。
ぼくはこの少女がどういう訳かは措いておき、夏川であると確信している。しかしその主張を補強するエビデンスが何も出てこない。この少女が夏川であると証明するにはどうすれば良いだろうか、最悪(?)夏川でなかったとして少女の身元親元バックボーンを突き止め送り返してあげることは、二十四歳女性ぼくにとって今や半ば義務なのだろうと思う。
もうこの際フルスロットルである。二十四時間前に友人の死体の第一発見者となり、二十時間前に容疑をかけられ取り調べを受け、死体になったはずの友人が見てくれを変えて妖精のように家に舞い込んできた、しかも記憶喪失とのたまう──ぼくの人生史上においても稀に見る濃いイベント続きだ。高校大学と本ばかり読んできたぼくには刺激が強すぎる。
つまり、ぼくも一度充電が必要だ。今度こそすべてを放棄してひと眠りしよう。次に目覚める頃には、夏川であるはずのこの少女ももう少し何事かを思い出していることだろう。
すっかり静かに寝息を立てている夏川に掛け布団を寄越した。確かに切れた電池を充たそうとするように深く眠っていた。妖精のように無垢な眠顔だった。
──結論から言えば、ぼくが呑気に睡眠を謳歌できたのはこの日が最後となった。
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