夏流離譚

もう一度、きみ(死体)と夏休みを
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第3話:アロスティチーニ

公開日時: 2022年8月22日(月) 21:00
文字数:3,958

 翌日、仕事を休んだ。無断欠勤は二年間の社会人生活でも初めてであった。


 なぜ休んだのかというとひとえに気持ち悪かったのである。吐き気がした。湿気ごもった電車に出荷されることに耐えられる気がしなかった。


 最初は何も問題がないと思っていた。しかし今朝目が覚めて冷蔵庫のウーロン茶を見ると、すぐに夏川の静脈血を想起し下腹部が疼いた。吐き気がした。ときに、きっと無断欠勤をしおおせる世の人々はこのように圧倒的な無力感にさいなまれた事だったのだろうと理解した。


 そして社用の携帯とパソコンを今日はクローゼットに封じ込めることに決め、ぼくは再びベッドインした。

 

 *

 

 事情聴取がひと段落し、第一発見者であるぼくは未だ疑われており電話にいつでも出られるよう構えておけと脅しをかけられつつも一旦解放された。ぼくはなんとなく、夏川と行く予定だったサイゼリヤへ向かうことにした。


 サイゼリヤへの入店自体は案外一年ぶり程度だった(サイゼリヤで毎晩デキャンタとハムで晩酌をしている同僚・同部署の大山という謎の男に一度連れられたのだ。ぼくはそれを以後拒んでいるわけではないが大山が出社をサボりまくっており滅多に鉢合わせなくなったのだ)が、日曜日の昼下がりに独りで入店する二十四歳女性というのは曰くがつかないとやっていられないだろう。


 本来同伴するはずだった夏川が死んだ以上、あの大山曰くバグうまイタリアンランドへ単騎で臨む理由もないのだが、せっかく貴重な日曜日を布団の中で半合法のYouTubeを観るに費やしたりインターネットで釣り記事を回遊しつづけて連続的に月曜日になっていたりの普段の使い方よりかは余程マシだと思ったのである。

 

 ずっと太ももの付け根が湿った感覚があった。ポケットにある夏川の遺書は血濡れが不思議と乾かない。思い出したくない彼女の遺言が勝手にぼくのまわりで反響を始めた。

 

『私は今日死ぬことにした。夏へ行くために必要なことだからだ。

 

 この世界を離れ、夏へ行くために一番大事なのは雰囲気だ。主人公気分だ。狂気だ。だからこの伝え事ばかりは敢えてLINEではなく手紙というノスタルジックな形を選んだ。

 

 おそらく玲奈君がこの手紙にありつく頃、私の死体を見つけては諸々の厄介事に巻き込まれようとする予兆を肌に感じていることだろう。まだ死に方は決めていないが、一見するだけでは気づかれず、玲奈君が第一発見者となるような死に方を模索するつもりである。つまり君にとってできるだけ厄介となるように仕組ませていただく。これも君の為を思っての、夏の為を思っての事であるとどうか理解いただきたい。

 

 少し、自分語りをしよう。


 私の一生(もうすぐ死ぬつもりだからこの表現が適当だろう)を思い返せば、ただただ空虚でつまらなかった。俗にいう青春の対極にあったという感想しか残らない。私は本だけが友達であったが、ただただ人生が一面的で、放課後にアイスを食べに行く同級生、ラウンドワンに行く同級生、集まって試験勉強をする同級生、文化祭よりも部活動を優先する同級生、そういった「色々」が人生に含まれている輩が羨ましかった。世界に対して多くの顔をもっている彼女らが輝いて見えた。


このように私は究極の俗物であることを当時は認められず、自分こそがもっとも人間強度の高い変人であろうと信じ振舞ってきた。しかしいまや、自分がただ彼女らの青春が羨ましく、横取りしたかっただけのオタクだったのだと解ったのである。


要するに自分は、もう一度青春をしたくて、夏に生きたいだけなのである。


そんな青春をはらんだ彼女らすら埋没してしまうこの世界についに絶望したのが高校を卒業したころである。だから私は、この世界に轟く究極の青春、青春を超えた青春、すなわち夏へ行く方法を模索した。そしてついに私は解き放たれた

 



 ──遺書はここで途切れていた。段々文字がかすれていたのでインクが切れたのだろう。

 

 インクが切れてくれて、夏川が事切れてくれて本当に良かったと思った。

 

 読み返し、思い返す度にぞわっとする。自分が書いたのか、と見紛ってしまうからである。

 

 *

 

 サイゼに入ると見知った顔の男が飲み食いしていた。


「あれ、お前」


「たまたまです」


 気がつくと大山と相席する流れになっていた。ぼくは社会という世界ではひたすらレッセフェールすることで生き延びてきたのである。

 机には食べかけの皿や半分空いたデキャンタ、グラスがおひとり様とは信じがたい量広げられていた。大山曰く午前中のパチで当たった分で豪遊しているらしい。


 職場でも例外なく友達の少ないぼくであるが、この男は


「で?俺のホームに来た理由は?」


「だからたまたまですって」


「そうか。あ、すみませんアロスティチーニ一皿と生ジョッキひとつ」

 

 ぼくの注文をとる気は少しもないらしい。後でよくわからない謎のドリアを注文した。

 

 その後も大山はぼくがいることを半ば無視するように滔々と咀嚼しては物語りつづけた。彼は明確に自分の世界を持っておりぼくと異なる世界に生きていて、その距離感が社会では物珍しくてぼくにとってはある意味心地が良かった。あと彼は仕事の話をしない。だから相席を許している。


 他の同僚面々を思い起こせば、仕事と彼氏の愚痴しか言わず共通の敵を作ることでしか会話できない弱者の癖にやれ玲奈ちゃんは彼氏いるのだの職場のあの人がどうだの平気でぼくの世界につけ入り込んでこようとする身の程知らずばかりがぼくの記憶メモリを食っていることを知らしめるが、他方で社会とは身の程を知れば知るほど損をする機構でもあるので正しい淘汰の結果をぼくは厭がっているに過ぎない、つまりぼくが淘汰される対象であることを確認したに過ぎない。


 その点大山はぼくと同じ側の人間であると、情緒に疎いぼくでもわかる。


「困難は分割せよと誰かしらが言ったらしいが、分割の仕方がわからなくて困ってるってのに何の意味のないアドバイスで良い気になっているのがムカつくな。ところでお前、俺は貯金を少しずつ分割して使うといったことがまるで不得手なんだが、死んだ方がいいのか?」


「そうかもしれないですね」


 と、平素ならば生焼け返事をしていたところだろうが数時間前の出来事が出来事で、少しばかり返答に詰まってしまった。


 夏川はどうして死ぬ必要があったのだろうか?


 彼女の死に顔をまた思い出した。


 初めて気持ち悪さがこみ上げた。


「お、きたきたアロスティチーニ。これサイゼで一番うまいぜ」


 確かに美味しそうな旨味の香りがする。


「あなたが推すなら間違いないでしょうね。少し食べてみたいかも」


 などという懇願の垣間見に応じるはずもなく、大山は串から肉を外して口に次々と放り込んでいく。この食漢がぼくよりも瘦せ型であることは夏川の言葉を借りれば「世界が狂っている」である。


 この状況ならば、と思った。


「あなた友人亡くしたことあります?てかホカホカの死体見たことあります?」


「その二つの質問は並列してないように思うが、順に答えれば前者はイエス後者はノーだな。ホカホカのということで通夜は除いている」

「いや並列しているんですよ。さっき友人がホカホカの死体になっているのを見かけてきました」


 あえて軽い感じで言わなければまた気持ち悪さがこみ上げてきてしまうと思った。この下腹部の不快感はなにに由来するのだろう。


「はえー」大山はまったく興味がなさそうだった。最高だこの男は。「悲しかったか?」


「そのうち悲しくなるんでしょうけど、今は訳わからなさが勝っていますね」


 どこかで一連の出来事そのものを現実におけるものと捉え損ねている向きがぼくにはあった。それは夏川が未だにぼくにとって見世物だったからだ。アイドルだったからだ。タレントだったからだ。それは夏川がぼくにコンタクトを取って来、数瞬間にわたって毎晩語り合おうとついぞ変わらなかった。ゆえに夏川の死はドラマであり、アニメであり、ドキュメンタリーに過ぎなかった。


 でも、あの遺書を読んでだ。


 夏川という女性はどこまでもただの人間で、どこまでもぼくに近しい悩みを抱えていたのだ。

 

 そう知ってしまった瞬間、夏川(死体)はぼくにとって悪友になってしまった。そして夏川の死体はドラマでもアニメでもドキュメンタリーでもなく


「トイレ行ってくるわ」


 大山は急に席を外した。彼なりの気遣いと受け取った。しかしできればトイレ以外の場所を選択してほしかったものだ。


 このぼくこそ、トイレに駆け込んで思いっきり吐きたい気分なのだから。ぼくは数時間前に友人の死体を見て、しかも第一発見者として今後も司法の厄介になるであろう悲劇の当事者なのだ。

 

 テーブルのアロスティチーニは冷えて香りがまったく届かなくなった。

 

 *

 

 平日の二度寝はもう少し気持ち良いものだと思っていた。少なくとも大学生の頃はそうだった。というか、社用の携帯がクローゼット奥でひっきりなしにバイブ音を鳴らしており熟睡するどころではなかった。


 少し経って、そういえば昨日の取り調べの際に握られたぼくの携帯番号は社用のものにしてしまったと思いだした。あの取り調べのパープルスーツの男性などから連絡がありそれを無視していたのだとしたら厄介だなと思った。これ以上厄介事を増やしたくなかった。以後は取り調べに反抗することなく対応し、ぼくが無実であることをとりあえずは解ってもらおう。


 そうすれば、夏川はぼくにとって再び見世物へと戻る。出来事へと堕ちる。夏川はきっと自分が死ぬことで、ぼくをも巻き込み何かをしでかす目論見を立てていたのだろうが、それを酌量する余裕はもうぼくにはない。夏川のことをそのように出来事として処理精算できるのは今が最後のタイミングなのだろうと予感した。

 

 

 インターホンが鳴る。

 

 そしてぼくは最後のタイミングを逸することとなる。

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