夏流離譚

もう一度、きみ(死体)と夏休みを
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第5話:ぼくはぼくの死を

公開日時: 2022年8月29日(月) 21:00
文字数:5,150

 夏川の言葉はどれも印象に残らない。

 

 ただ夏川が喋っていたのだという記憶のみがあり、夏川という存在は目を少しはなせば世界を流離しようとする。二日前の朝食が不思議と思い出せないような感覚である。


 ぼ く は割合記憶力に秀でたほうだと思うのでそれだけに夏川との日々の語らいは  ぼ   く  の記憶メモリにも引っかからない程彩りを欠いていたのだろう、ちなみに ぼ     く   の二日前の朝食は無である、ここ二カ月ほど出勤ぎりぎりまで寝ていたので朝食を食べていないから確実な記憶である。


 とかく。夏川と ぼ    の結論はいつもただひとつ。この世界がいかに狂っていて   く     たちの人生がいかに何者でもなかったか、ということに帰する。


 そしてただそれだけが、夏川が本当に伝えたかったことなのだと──彼女の真意を    はもうすぐ身を以て理解することになる。

 

 *

 

 玲奈ちゃん、今日はもう上がり?


「うん、この後用事ありまして~」


 いいなー退勤後に遊びに行く体力、もうあたしくらいの歳になると残ってないよー


「ちょっと私と先輩みっつしか変わらないじゃないですか!私の余命あと3年ってことですか?」


 おいあたしを死人扱いすな。

 てかアレ? 用事ってもしかしてアレですか?玲奈ちゃんいつもと違って髪結んでるよね、気合入っちゃってるんじゃない?


「もーそれ以上は野暮ですよー笑」


 はいはい笑 あーそういえば玲奈ちゃん、改めてだけど、


 昇進おめでとう!


「はい、ありがとうございますっ!」

 




 午後六時、オフィスのエントランスをいつもより軽やかに抜けられた。まだ日没していない中を退勤するのは久しぶりだ。


 このあとの待ち合わせ場所には向かいのスタバを指定されている。あの先輩今日は絶対定時であがるからって言ってたけど、どうせ呼吸をするように新しい仕事を任されていて、私が待ちぼうけになるのは目に見えてる。


 それが充分予見できていた私は、スタバの一席につくと仕事用のPCを開き、先輩が来るまでに片付けようと思っていたタスクにとりかかる。


 タスクというのは社内報の記入で、この度ありがたくも昇進したのに際して意識的に取り組んだこととか感謝の念とか、そういう感じのやつだ。要するに雑務も雑務なんだけど、これに限って取り組むのにいやな気はしない。社会人二年目、同期のなかで唯一の出世となると鼻高々にタイピングが進む。

 

『私は入社当時、学歴も頭のできも自信がまったくありませんでした。同期には有名な大学を出ている人、色々なことを知ってる人、などなどすごい人たちに囲まれて、ついていけるか正直不安でした。でも、入社時研修で教わった「素直の精神」を胸に、先輩方との一期一会も大事にして……ついにチームリーダーへと昇進することができました。私がこの二年間で学んだのは──

 

「よっす」


 後ろから肩を叩かれた。


 先輩はもう片方の手でスマホをみながら現れた。Google Mapで場所を調べているようだった。

 

 

 この後予約のお店の場所を調べてくれているのかと思っていたけど、事情はどうやら異なるようだった。


「あんな事があったのに、一日経ったらもう何ともなしって感じなんだな……」


「何か言いました?」


「いやいや、お前は鈍感でいいな」


 新宿駅までの道のりを並んで歩く先輩は不機嫌そうなご様子だった。


「ったく、小学校じゃねえんだからよ」


 お店は歌舞伎町の方面だったはずだけれど、先輩と私はなぜか新宿駅小田急線の構内へ向かおうとしている。

 先輩が言うには、


「玲奈の同期? だったと思うんだけど、今日全社会議スッポかした奴いただろ。そいつに今日の書類届けてやれ、ついでに元気そうか見に来てくれって」


「確かに風邪で休んだクラスメイトのお見舞いっぽいですね」


 私たちは駅の改札をくぐりぬけた。例の私の同期は小田急線各駅でいくつか進んだところに住んでいるらしい。駅のホームは仕事帰りのスーツ姿でいっぱいだった。小田急新宿駅に来たのは初めてだけど、柔らかいオレンジ色の蛍光が懐かしい雰囲気で好きかもしれない。


 他方、先輩は露骨にどんどん表情を硬くする。私との食事をじゃまされたことを怒ってくれているんだ、と解釈するのは好意的がすぎるだろうか。


 私は視線をあげて先輩に話を振る。身長差があるのだ。


「でもメールとかドライブでデータを送ればいいんじゃないですか? わざわざ直接届けなくても……それに忙しい先輩が行く必要は……」


「と、俺も抗議したんだけどな。一応俺がアイツの上長にあたるから、と俺の更なる上司四十四歳の前で玉砕した。上長つっても部署が同じで俺が一番年齢近いってだけなのに……それにアイツ、無断で連絡つかずサボったのは今回がたぶん初めてだけど、何かにつけて休もうとしたり土壇場で有給入れたり……まあ要するに、今回の件だけじゃないってことだな」


 それで俺の責任になるのマジで意味わかんねえ、と先輩は微笑みながらつぶやく。今回の件で先輩までが評価を下げたらかわいそうだ。部下の責任をもつのは上司、とはいえ部下だって社会人なわけだし、最終的には自助しなければいけないだろうに。


「部下が玲奈だったらどんなに楽だったかと思うよ」


「私と顔を合わせる機会が増えて楽になりますかね?」


「心労は増すかもな」


 二人で笑いあう。ふと幸せなひと時だなと浮かれ気が頭をよぎる。


 新宿、終点です──車内にお忘れ物がないか、お確かめください──


「アイツ、学歴は良いくせに典型的な……陰口はやめとくか。アイツなあ、アイツ……っと…」


 怪訝な様子の先輩。


「どうしました?」


 五番ホームから、快速急行、小田原ゆきが発車します──


「いや……こんなこというのすごい可笑しいんだけどさ──俺の部下でお前の同期のアイツ……」

 

 アイツ、なんて名前だったっけ

 

 えええ、いや何言ってるんですか先輩。ボケですか? ん? ボケにしては真面目な顔ですね。あ、シュール的な? 最近流行りの。違います?


 違いますか。じゃあ目をつぶって答えますけど、同期のあの子は、


 あの子は、

 

 思い出せなかった。そういえばさっきから一度も、私も含めてあの子を名前で呼んでいなかったな。


 おもわず天を仰いだ。柔らかいオレンジ色の蛍光。天井がゆらめいて見える。

 

 



 次に来た小田急各駅に乗り込む。車内では誰もがスマホを覗き込むようにみていた。

 

 新宿を出発。南新宿、参宮橋と過ぎてゆく。誰も降りる素振りを見せない。誰も気に留める素振りを見せない。

 

 *

 

 以前君には精神と肉体に関する話をしたね。現時点での私の考えを述べれば、身体なんてものは肉同然の世界であって、もはや「私」の精神を縛る牢獄としてすら機能していない、これが真理も真理だということだ。私は精神であり、私は世界の中で圧倒的に孤独である。この孤独は私に限らず、誰だって本来的には備えているものなのだよ。しかるにそう気づいてしまっているのは世界でも私だけではないかと謎めいた確信が今やある。


 そして君にもそのことにいち早く気がついてほしい。精神の流離する真実に、私が気づけたのだから君にも気づけるはずだ。否、気づけるように諸々の環境を整えたし、それでもまだ十全でないようだからそろそろ実力行使もやむを得ないのだが──荒っぽい展開が立て続けで、君には相当の負担を強いてしまったことを次に逢ったときに謝ろう。


さてもようやく。君と私だけの「流離譚」が始まろうとしている──

 

 *

 

 各駅しか止まらないこじんまりとした駅で私たちは下車した。降りたのは私たちだけだった。


 先ほどの一件で先輩と私の間に気まずさが残っている。なぜ先輩にとっての部下、私にとっての同期の名前が、これから訪ねようとしているその子の名前が思い出せなかったのだろう? 折角その子へ書類を届け次第先輩との楽しい用事が待っているのだから、わだかまりは今のうちに解いておきたい──という焦りと、原因究明への好奇心と、これ以上──これ以上深入りしないほうがいいんじゃないか、という謎の危ぶみ。危ぶみが私たちを支配していた。会話をするのが怖い。十年ぶりに会った親戚に先輩が見える。


 スマホでGoogle Mapを覗き込みながら住宅街へ歩みを進める先輩。目を少しでも離せばどこか知らないところに行ってしまうような気がして、私は無言足早についていく。時間が果てしなく延びて感じる。


 そうだ。記憶障がい的なものかもしれない。先輩も私も最近激務続きだったし。二日前の朝食が思い出せないようなことくらい、健常であってもあり得るだろう。ちなみに私はここ二ヶ月くらい、激務で忙しくて出勤ぎりぎりまで寝ていたので朝食を食べていないから二日前の朝食は無である、


 あれ。じゃあなんで今の私は定時で帰ってるんだろう。よく帰れたな私。本当は残務とかあったんじゃないの? 昇進するくらいだからこんな定時の日没していない中いそいそとよくもね私、あれ私って最近何の仕事とかしてたっけ、


 私って、



 午後七時、空に闇が刺し始める。

 



 閑静な住宅街に似つかわしくない人だかりが前方にできていた。変哲のないアパートの入口付近に物騒な警棒を持って野次馬の交通整理をするポリス、パープルのスーツに身を包んだおどろおどろしい様子で電話やらメモやらをしている大人達。その後ろには年齢身長さまざまの家族づれや男性など、一様に神妙な面持ち。さらに後方にはパトカーが停まっている。


「マジかよ……」


 先輩が聞いたこともない頼りなげな声を漏らす。状況が呑み込めていない私に持っていたスマホの画面を差し出して促してくる。


 ちょうど私たちの目の前のアパートに目的地のピンが立っていた。


 同期の子、あそこに住んでいるんだ……しかしアパートのふもとは大人たちに完全に塞がれていて、そうでなくてもこれ以上近づいちゃいけない雰囲気が露骨にただよっている。

 

 立ち往生している私たちに気づいたのか、群がりから大人がひとり私たちのもとへ寄ってきた。パープルのしわがれたスーツがドラマやドキュメンタリーの類のオーラを醸している。


「もしかして君たちここの住人? ああごめんなさいちょっと今避難してもらってましてね、」


 先輩が一歩私の前に出て、


「事件とかあったんですか? 強盗的な……」


「だったらまだ楽だったんですけどねえ」パープルスーツの方──おそらくおまわりさん的な人だろう──は無理に明るい感じで言う。「二日連続は流石の私でも堪えますね。ねえ昨日の新宿での件から」


 新宿の件?


「あなた達もこの辺に住んでいるなら耳に入っているでしょう? 新宿駅前での殺人事件」


 さ、さつじん? そんなことがあったんですか?


「そりゃもちろん知ってますけど……」


 え? 先輩知ってるんですか? なんで私だけ知らないの


 てことは、と先輩は唾を呑み、刑事さんが口を開くのを待つ。次に発せられた言葉は予想通りのものだった。


 いやてか、新宿駅前での殺人事件って何? 知らないんだけど。

 

 その時、全身に寒気がした。

 


「ちょっと君!」


「おい玲奈! お前……」


 身体が勝手に走り出していた。


 物騒な大人たちを分け入ってアパートへと進む。階段を昇る。差し押さえ用の黄色いテープが廊下に張り巡らされていたが、知ったことではない。

 

 見慣れた玄関の前に着いた。


「やめなさい! 君! まだ現場は処理待ちで……っ」


 下の階から罵声がぼんやりと聞こえる。辺りは完全に暮れている。

 わずかに玄関は開いたままで固定されていた。視てはいけない事は理解できていたのに、私の好奇心はなぜか止まらない。


 その先を視ようと覗き込むと、

 凄まじい悪臭がした。


 腹の奥から吐き気がせり上がってくる。

 

 死体である。ここで殺人事件が起きたのである。死体現場を見たこともない私には刺激が強すぎた。

 いや、死体は昨日見たばっかりじゃないか。ちゃんと記憶している。私は記憶力に秀でているのだから。


 私が言いたいのはそういうことじゃない。

 

 

 ここは同期なんかじゃなく、紛れもない私の家で、

 


 奥で死んで転がっているのは、他でもないわタしで、

 



 会社や人間関係がうまくいっているこの自分は、わ  た    し なんかじゃなくて、

 我慢しきれず膝をついて吐いている私は、このぼくだ。

 

 

 ぼくはぼくが死んでいるのをこの目で視ている


 *

 

『本委員会は、件の新宿一帯連続殺人事件について事実関係を把握し、今後の対応について検証・検討するためのものである。

 事件の概要:令和三年八月二十三日(月)午後六時頃、アパート「XXレジデンス」(東京都世田谷区豪徳寺X丁目)にて、身元不明の被害者(死者)がふたつ見分された。一方は二十代半ば、もう一方は十代前半と推定される。身元は不明。

 被害者(死者)はいずれもうつぶせに倒れていて、身体の近くには刃物があり、血痕の状況から死亡推定時刻は午後四時程。

 被害者(死者)は折り重なるように伏せていたことから、無理心中の可能性もあり、詳しい経緯を引き続き捜査を進める。』

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