光を待つひと

七屋 糸
七屋 糸

『「一緒に暮らさないか」』

公開日時: 2021年9月16日(木) 19:30
文字数:2,067


 駅のホームのへりに立ち、遠ざかっていく電車の後ろ姿に手袋をした親指をあてる。羽虫でも押し潰すみたいに鉄の塊が見えなくなって、やがて雪景色の中へ溶けていく。絵画のように動かなくなった景色を眺めて、やっぱり乗ればよかったと今更に思う。


 時刻は午後十時。乗客の途切れたホームはコンクリートの無機質さが凶暴に足元を冷やし、座面の固いベンチにじっと座っているのさえ辛く感じた。わたしはカサついた赤切れの手を白い息で温めながら、あてもなく狭いホームの上を歩き回る。じっとしていると際限なく体温が下がり、足の先からダメになっていくような気がして意味もなく足の幅ずつ歩を進めていた。


 時々線路の向こう側のフェンスを透かし見ると、網状の薄緑色の線の間から大きな蝙蝠傘が見えた。男の人が傘の骨組みの芯の部分を肩で支え、小さな黒い屋根を作ってじっと立っている。しばらくの間その場に立ち続けているのか彼のいる場所だけが他のところに比べて雪の層が薄く、円を描くように丸くくぼんでいる。また傘の下には鉄色をした雀の像が、まるで雪宿りをしているようで可愛らしかった。


 小さな雀の銅像、あの場所を待ち合わせの目印として人が待っているのをよく見かける。彼もきっとそうだろうと思っていると、ホームと線路沿いの道路をつなぐ階段の出口から女性が小走りに駆けていき、黒い蝙蝠傘の中へ吸い込まれていった。淡いキャメル色のコートに白いマフラーを合わせた女の人。彼女は確か駅のホームの公衆電話で誰かと話していた、女性というよりは女の子というのがふさわしいような可愛らしい声の人だった。


 背丈の離れたふたりが歩幅を揃え、同じ間隔で白い地面を踏む。蝙蝠傘の頭に重なった雪の塊を崩しながら遠ざかっていく背中に、自分も幾度となくその道を連れ立って歩いた記憶が蘇る。


 都会からほど離れた殺風景な駅のホーム、夜は電車の扉が開くのと同時に公衆電話から迎えを呼ぶ人の列ができる。わたしも欠かさず数枚の十円玉を握ってその並びに加わっていた。体温でぬるく熱を持った硬貨で「着いたよ」「迎えに行く」とたったそれだけのやりとりを交わす。ほんの数十秒間のことなのに、心が浮足立つのを感じながら擦り傷の多い受話器を置いて待ち合わせの場所で彼が来るのを待っていた。


 雪でけぶる街の視界は悪く、黒い蝙蝠傘はすっかり景色に溶け込んで消えた。遠目からではふたりの作る足跡も数分で無垢な白い絨毯に戻ってしまい、瞬間的に華やいだ心は静寂を取り戻すどころかその静けさに凍えかけている。


 コートのポケットを探ると、何枚かの10円玉が擦れ合う薄い音がした。彼の家へ出かけていく時の癖で、いつも上着やスカートのポケットに小銭を入れてしまう。混み合う電車の車内で鞄からお財布を取り出さなくてもいいように、いち早く公衆電話で彼の声を手繰り寄せられるように、日常に溶け込んだ癖がガラスについた細かな傷のようなちり、と痛んだ。




 彼が「一緒に暮らさないか」と言ったとき、瞳はまっすぐに前を向いていた。隣に座っていたわたしは緩くS字を描く横顔に、珍しく上気した頬を見上げる。彼が二の句を継がないから、わたしの返事を待っているのだとわかった。しかし喉まで出かかった答えは、口を開いた風船のように瞬く間にしぼんでいく。


 それからいくらかの時間が過ぎて、わたしはずっと答えを探し回っているようで、実は立ち往生をしていただけのような、息の詰まる堂々巡りの末に彼の家の最寄駅へ辿り着いてしまった。自分の両親にも彼の両親にも一緒になることを反対されているなんて、まだ気ままに恋愛していたい友人たちに相談できるはずもなく、どこへも進めないまま約束の日が来てしまった。



 体の熱が逃げていかないように緩慢に動きながらホームを見渡すと、残っていたのはわたしと、ひとりの老人だけ。公衆電話を求める人の列は散り散りにどこかへ消え、冷たい風が惜しみなく体温を奪って去っていく。老人の座る濃紺色のベンチにも北風が吹きかけ、仕立ての良さそうなコートの裾が遊ぶみたいにはためいていた。もういつでも受話器をとることはできるのに、どうしても手が伸びていかない。たとえば彼とわたしを知る人のいない地の果てで結ばれたとして、それが誰のためになるというのか。


 今夜は特別に冷える夜だ。ホームを抜けて駅舎へ入れば多少は寒さを凌げるだろうが、老人はしわの刻まれた瞼を重そうに半分閉じて雪が降るのを見ていた。少なくとも日付が変わるまでは砂絵のようにざらついた空に星があらわれることはないだろうに。


 終電までは三十分以上ある。わたしも階段のへりの欠けを数えたり、かじかんだ手をさするのに飽き始めていた。時計は秒針から目を離した分しか進まず、たびたび目配せをするわたしには5分間が倍くらいの長さに感じられる。ホームに天井から吊り下げられた大時計は彼が誕生日にくれた腕時計と違って時間が狂うことはないけれど、代わりに小さなつまみを回して時間を早めることも遅めることもできない。ただされるがままに待つこと以外選択肢がない。



読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート