口の中で吐き出されなかった悪態をかき混ぜながら、微動だにしない老人をベンチの斜め後ろの時刻表に寄り掛かって眺める。老人は見るからに目の細かい糸を絡み合わせたつるりとしたコートに揃いの帽子、撫でつけた白髪が印象的な人だった。防寒はコートに薄手のマフラーが巻いてあるだけなのに、どこか寒さを感じさせない凛とした居ずまいがかつては精悍な男の人だったことが連想させる。
しかし気にかかるのはあの眠そうな眼差しだ。少し頬のこけた横顔は定規で引いたようにすっきりと静謐なのに、目元だけはとろりと粘り気があるみたいに上瞼と下瞼がくっつきそうになっている。それが少しだけ、怖い。
「あの、隣いいですか」
わたしは上擦りそうな声で老人に話かけた。もし返事がなかったらどうしようかと思ったが、はっきりとした声音で「どうぞ」と隣の席を進めてくれた。冷え冷えとした固さの上に腰を下ろすと、意外にも身体の中心部分に熱が集中してかすかに寒さが落ち着いてくる気がする。
「次で終電ですね」
自分でも声の線が細くなっているのがわかる。人見知りな性格の上に、終電が来るまでの落ち着かない気持ちが重なって声が震えてしまった。だがそんなことは気にも留めていない様子で、老人は芯の硬さのある声で返事をする。
「そうでしたか。実は人を待っているので、電車に乗るわけではないんです」
そう言いながら吐き出される息の白さは淡く、体温が低いのだなと感じさせる。そういえば人間は年齢を重ねるごとに平熱が下がっていくと聞いたことがあった。
「汽車に乗っていたような古い時代の人間ですから、電車は便利だけれどどうも肌に合わなくてね。あまり乗らないんです」
老人が見せてくれた手元の切符は確かに最も安いホームへの入場券で、乗車を許すものではなかった。わたしは汽車に乗ったことがないので乗り心地などの違いはわからないが、車や飛行機の嫌いな人がいるように電車が嫌いな人もいるのだなぁと驚く。今の時代の若者にとっては電車が生活の足として当たり前のように馴染んでいるし、なければ恋人にすら会いに行くことができない。電車ならたった一時間の距離が、自らの足では一日とかかる距離になってしまうことがどれだけ歯がゆいだろうと想像する。
「それにしても、お嬢さんの夜のひとり歩きは危ないですよ」
嗜めるのとは違う声に多少の安堵を覚えながら、答える。
「わたしは人を、待たせているので大丈夫です」
「あぁ、そうでしたか」
老人はコートと揃いの帽子を白髪から外し、胸にあてるようにして片手を添えた。それが祈るような仕草に見えて、細かな雪の降り積もる夜に溶けていってしまいそうだと思う。祈りなんて、クリスマスに年端もいかない子供たちが歌う賛美歌くらいがちょうどいい。大人の祈りは黒く重い、鉛のような形をしているから。それと同じものがわたしの中にもずっしりと存在感を占めている。
決して嘘は吐いていない。彼はきっと、今もわたしからの連絡を待っている。誠実な人なのだ、はっきりと断りの言葉を突きつけない限り簡単には自らの発言を曲げたりしない。だから中途半端なフリをして両親と折り合いをつけることもできない。思いあがるつもりはないが、ふたりの夜明けの鍵は間違いなくわたしが握っていた。
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