光を待つひと

七屋 糸
七屋 糸

『「何十年と前の話です」』

公開日時: 2021年9月18日(土) 19:30
文字数:1,757

「あなたは彼女に、わたしが待っている人に少し似ています」


「待っている人?」


 老人はわずかに口角を上げて答える。


「えぇ。とてもうつくしい、赤切れた手を持つ人でした。あれは苦労を知る人の手だ、彼女は嫌がったけれど」


 ひび割れた老人らしい声が柔らかさで滑らかに伸び、うっとりするほど優しげに聞こえる。しかし手袋に隠れた自分の手のことを思うと、そんな風に思われる”彼女”という人が気になってくる。


 さして自分が苦労しているとは思わないが、冬場の手の赤切れは仕方のないこととして何年も前に諦めた。うちは裕福な家じゃない、家のことを済ませ、家計の足し程度に働けばどれだけ気を使ってもこうなるのだ。


 しんしんと降り積もる雪の合間に、通り過ぎる車のクラクションだけが嫌に耳をつんざいた。雪の夜に掻き鳴らされる生活音は憎らしいほどに温度を持って、取り残された者を追い立てに迫ってくる。


「もしかして奥さまですか」


「いいえ、わたしはしがない独り身の老人ですよ」


 立ち入ったことを聞いてしまったかと思ったが、彼はわたしに気を遣わせないためかカラリと笑って見せた。


「ですがわたしは彼女を愛していました、添い遂げることはできなかったけれど。

何十年と前の話です。これでも昔は少しばっかり出来た家の次男坊でしたから、両親が決めた婚約者がいましたし、貧しい家の出の彼女はそれを引け目に思ったのでしょう。ふたりきりで遠くへ行こうと約束した夜、彼女は待ち合わせの場所に姿を現しませんでした」


 人々を運ぶのが汽車だった時代、今のような「好き合うもの同士が一緒になる」ことはまだ当たり前ではなかったのだろう。小さい頃におばあちゃんが聞かせてくれたおじいちゃんとの馴れ初めも、ふたりの両親が決めたお見合い話だったなと頭の片隅で思う。


 その頃の若者たちは、どうやって気持ちを押し殺していたのだろう。何か特別な術があるのなら教えてもらいたいとすら思う。


「それに比べたら、今はずっと良い時代になりましたね」


 わたしにではなく、ざらついた灰色の空に語り掛けるみたいに老人は言った。若者に押し付けるのとは明らかに違う口調だったが、今を若者として生きる自分にとっては「そういうものかな」とうまく呑み込めない。


「そうでしょうか、まだ世界のどこかには好きな人と結ばれない人だってたくさんいます」


 多少非難めいた話し方だったかもしれない。初対面の人にこんなことを言う自分に、目の奥がじわりと痛くなる。泣きたいのとは違っていた。雨が降るのを「空が泣いている」というなら、ちょうど雪が降っている空のような、まだ形容の仕方のない気持ちだった。


 うつむいて手元を見ると、右手の手袋の指先がほつれて糸が出ている。引っ張ればするすると縫い目をたどって抜けていくかもしれない。


 老人は目尻に刻まれた幾本かのシワを深めながら言う。


「そうですね。まだ世界のどこかには彼女と同じように悩む人もあるのでしょうが、世の中はどんな時も今が一番良い時代だと思うんです。だって未来は選ぶことができるのだから」


 終電はまだ来ないが、それに乗ればわたしは住み慣れた家へ帰れる。残されたチャンスは、いや頭が沸騰しそうなほどに手を伸ばしあぐねている選択肢はふたつにひとつ。


 老人の言葉が形になって、雪の層に重く沈み込んだ。あとから後から重なってくる粒の小さな雪を払い、白い景色に埋もれてしまわないように拾い上げる。


「お互いの欠けに苦しんでいることを、彼女はわたしに言いませんでした。あれはきっとあの人の優しさでしょうが、わたしには彼女の辛さと気遣いを知らないことがとても惨めでした。たとえ傷をつけることであっても、知る必要のないことであっても、ただ能天気にいることは惨めなんです」


 ホームの向こう側の灯りがひとつ消えた。古い家が狭い間隔で並ぶ昔ながらの街は寝静まるのが早く、白と黒のコントラストが取り残されたものたちの色がより濃く映し出す。そのせいか無性に心細いような気持ちが全身を絡めとる。


 今夜会いに行くとも、行かないとも言わなかったことが今さらになって後悔される。ただ待っているだけの時間というのは途方もなく長い、そう自覚した瞬間は身体がカッと熱くなったように思ったけれど、左足の親指が痺れたように冷たいから、それも気のせいなんだろうか。



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