――2日前 とある北米戦線の飛行場にて
帝國における諜報機関はかつて陸軍が所有していた「特務機関」に端を発する。
これらの機関はシベリア出兵を契機に現地情報を収集し、陸軍部隊を情報面で支援することを目的としていた。
その後、様々な特務機関が創設されたが、第一次蟲戦による陸軍の政治的没落がすべてを変えた。
特務機関は統合軍令部情報部へと整理統合され、その権限や活動範囲は軍事分野に限定される事となった。
そして、政治闘争の果てに内務省|統合情報局《GIA》が発足。警察官僚を中心とした人員を基礎に、諸外国における情報収集、影響力工作を行う組織となった。
初代長官である緒方竹虎は、あえて仮想敵国である合衆国のそれを参考にしてGIAを組織したと言われている。
そして現在。戦争の相手が同じ人類の国家から、異形の生物――BUG――へと変化しても彼らの仕事が変わった訳ではない。いや、むしろ彼らの仕事は増え続けていた。
国際連盟は「人類の団結」を唱えていたが、国家同士の対立が消失した訳ではない。むしろ、BUG消滅後の世界覇権を巡っての暗闘が続いてきた。
国際連盟というテーブルでは手を握り合いながら、テーブルの下で諜報機関同士は|陰謀を巡らせてきた《足を蹴りあっていた》のが本当のところだった。
内務省から独立し統合情報省となってから入省した佐野貴子にとって、それは職場の風景でしかない。
GIA合衆国工作第二班班長、彼女の現在の肩書きはそうなっている。もっともそれは省内のもので、対外的には外務省サンフランシスコ領事館一等書記官の肩書きになっている。
軍用機の機内ではいささか浮いて見えるツーピースを着ている彼女は、化粧っ気のない顔で情報端末を見ていた。
そこにはGIAがこの北米で行っている「|書類綴り《ドキュメント・スプリング》作戦」と呼ばれる作戦の進行スケジュールが記載されている。
この作戦における「書類」とは合衆国における高度重要人材を挿している|暗号名《コードネーム》だった。
合衆国政府との秘密交渉において、合衆国と帝國は両政府間で重要人材の「移民」を承諾していた。
特に科学技術関連の人材は重要視されており、いわばそれらの人材と交換に国際連盟加盟国は合衆国市民の脱出支援に乗り出したと言っても良かった。
人材の配分に関しては、各国の派兵規模に応じた配分がなされている。後々揉めないために、わかりやすい指標で手打ちがされている。
もちろんこうした裏事情は機密指定されており、マスコミ報道は|国民受けの良い美談《プロパガンダ》が埋め尽くしている。
合衆国側からすれば国土の大半を失うことが明白な存亡の危機に対する苦肉の策だ。
一方、帝國側にとって見れば自国に優秀な人材を囲い込める、千載一遇のチャンスであった。
冷酷な国際政治の現実がそこにあった。
とはいえ、すでに国土の過半が陥落しつつある合衆国本土から、人材を脱出させられるという困難な作戦が実現しなければ作戦は|画餅《がべい》に帰す。
佐野はそんな作戦の最終段階までこぎ着け、帝國航空宇宙軍の輸送機の機内で離陸を待っていた。
昨日まで戦時の合衆国各地の戦地を駆け回ってきたため、疲労の色が濃く出ている。化粧などしている余裕がないために、目の下にはくっきりとくまが出ていた。
すまじきものは宮仕えとはよく言ったものだ、と彼女は心中で毒づいた。
三十代も目前に迫った彼女にとり、美容と健康のために転職を考えたい状況ではあった
戦時下の帝國での転職活動はいささか困難に思えたが。
ここ数日の航空宇宙軍の輸送機を脅迫めいた折衝で確保し、各地からかき集めてきた人材を輸送機に乗せるまでの膨大な工程は思い出したくもない。
思い返せば、この「書類綴り」作戦は、様々な困難に見舞われていた。その多くが、合衆国側の事情に帝國側が振り回された結果であった。
最後の最後まで、米国側が人材の情報を出し渋ったのである。
米国内も一枚岩ではなく、特に共和党を中心とした勢力は国内に残っての徹底抗戦を主張していたからだ。
民主党を背景とした政府が人材の提供を認めたからといって、共和党や巨大な官僚機構が唯々諾々と従うとは限らない。表立ってのサボタージュこそなかったが、消極的抵抗は数え切れない。
それに加えて、大統領のハワイ脱出が遅れに遅れたことも作戦に影響していた。
大統領が最後までメンツにこだわって脱出を渋り続けていたから、そんなまことしやかな噂が流れていた。
まあ噂がどうあろうと、今さら失った時間的な余裕が戻る訳でもない。
まだ油断は出来ないけれども、とにかく彼らを帝國にお招きすればよい。
「やはり、ハワイに行くことは不可能なのかね」
元は仕立ての良いものだったのだろうが、今はいささか煤けて見えるスーツを着た老紳士が佐野に問う。
身長は佐野より頭一つぶん高いが、線の細い体型だ。
野暮ったいセルフレームのメガネが印象的で、禿げ上がり左右にわずかに残っている栗色の髪の毛はボサボサになっていた。
ニコラス・ゴールドマン博士、ノーベル物理学賞に毎年名前が上がるほどの有名人だ。
もっとも、佐野にとって彼は運ぶべき「書類」に過ぎなかったが。
「どうか、ご理解ください。すでに合衆国政府はハワイへの市民受け入れを停止しています」
「例の受け入れ制限措置かね。だが、我々の人数くらいは…」
ニコラスは同様にこの機に乗り込んでいる合衆国人に目を向けた。一様に疲れ切った顔で黙り込んでいる彼ら老若男女は、合衆国各界の重要な人材だった。
「残念ですが、合衆国政府からすでに受け入れは不可能と通達されていますので…」
佐野は決まりきった回答を、機械的に繰り返す。
嘘はついていないが、真実のすべてを言っているわけではない。
たしかに、合衆国政府はすでに避難船にすし詰めになって押し寄せる国民に対し、受け入れ停止を宣言していた。
すでにハワイ諸島が支えきれる人口をとうに越えていると判断されたからだった。
避難民の受け入れを宣言している帝國やオーストラリアなどへ向かうよう、指示がなされている。
しかし、もし帝國との取り引きが無ければ、一般人を追い出してでも合衆国政府は彼らを受け入れただろう。
すべては国際政治の縮図、そういう訳だった。
佐野はあくまで、対BUG戦争で生じた膨大な戦死者を背景とした「民主化」によって発言権を確固としたものにしつつある中流層を中心とした納税者たちに仕える|公僕《パブリックサーヴァント》だった。
取り引きの材料に使われる彼らを憐れむ自由はあっても、それに異論を差し挟む自由は無い。
「そうか、では仕方ないのだね。君の祖国は良いところなのかな」
「ええ、帝國はあなた方を歓迎します。研究活動に必要な設備や資金、住居に至るまで帝國政府が支給いたします。もちろん、ご家族にもありとあらゆる支援を…」
「それは有り難いね。よろしく頼む」
言いたいことを飲み込んだゴールドマン博士は、ここ数日の移動で皺の数が増えたように感じられる額をなでた。
無論、佐野とて博士が言いたいことくらいは察していた。
博士の立場はありていに言えば、祖国に売られた、そういうことなのだ。
――国が滅亡の淵にあれば、国家を国家たらしめる信用そのものが溶けて崩れ落ちていく。なんて恐ろしい。
佐野はそんなことを思いながらも、このBUGに浸食される世界で祖国が無事である幸運に感謝した。
いつ帝國が、合衆国のような立場に追い込まれても不思議ではないからこそ、だ。
「佐野班長、そろそろ離陸するそうです」
さっきまで空軍の輸送統制官と話していた彼女の部下が、声をかけに来る。
「ずいぶん時間をかけてくれたわね。トンボどもは」
「例の飛行型BUGのせいですよ。爆撃機がやられたことで、護衛の戦闘機が足りないそうで」
「この輸送機にも護衛はついているんでしょうね」
「まあ空軍の連中はそう言ってますがね。戦況が戦況ですから…」
「仕方ないわね。ここは戦場なのだから」
珍しく諦観めいた言葉をつぶやく上官に、座席に腰掛けて固定具を締めていた部下は目を白黒させる。
ジェットエンジン特有のエンジン音が響きはじめ、機体が振動する。
乗降ハッチに設けられた小さな窓から、機体が滑走路上を動きはじめているのが分かった。
不意に輸送機に由来するものではない、空気を切り裂く飛翔音が響く。
腹にこたえるような振動と炸裂音が響き、機体がわずかに振動する。
「戦闘かね?」
「ご安心ください。我が軍の砲撃のようです。この滑走路が危険にさらされることはありません」
我ながら詐欺めいたことを言っているな、と佐野は思った。
たしかにあの砲撃音は、帝國陸軍の保有する榴弾砲のものだろう。
だが、あの砲が射撃をはじめたということは。
この飛行場を守る部隊が、ろくでもないことになる可能性があるということだろう。
単純に軍事の専門家ではないから、推測ではなく想像しか出来ないだけ。
ああ、たしかに詐欺に違いない。
そして、詐欺師には最後まで騙し通す義務があるのだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!