酒の一気飲みはしてはいけない。
それが二十歳になった俺が、学んだ事だった。
ぐらぐらと視界が揺らぎ、俺の周りで飲んでいる友人達の楽しげな声が遠ざかり、全身が異常に熱くなる。手足は痺れ、心臓はこれでもかと言うほど早く脈打ち、横たわったまま指一本さえ動かせない俺は悟った。
あ、俺、死ぬわ。
そう思った瞬間、ぶつっとテレビの電源を急に切ったかのように、俺の意識は消えた。
俺は暗闇の世界の中、全く動けなかった。
俺の死因は、急性アルコール中毒か、と人事のように思った。馬鹿だなぁ俺、何やってんだろ俺、と責めた所で時既に遅し。
せめて好物のミートスパゲティを腹いっぱいに食べて死にたかったなぁ――と思っていたら、どこからか、ぷぅんとミートスパゲティの匂いがしてきた。
香ばしく、よだれが垂れてきそうな、美味そうな匂いだった。
いいなぁ――と思った瞬間、暗闇だった世界が急に晴れた。
白塗りの壁の天井と目が合った。
体が、重くない。
俺は起き上がった。やけに体が軽いし、ミートスパゲティのいい匂いが、むっと俺を包み込んでいる。辺りを見回した。
俺は驚いた。透明の大きな壁が見えた。
よくよく見ると、それはガラスのコップだった。大きい。自分の背丈よりも大きなコップに、俺は驚いた。
俺は動く、と同時に気づいた。
俺の視界の下で、スパゲティの細い麺が、うごうごと動いているではないか。
「ぎゃあ――!!」
思わず叫んだ。
その瞬間、別の所から「きゃあ――!!」と女の悲鳴が聞こえた。
はっと顔をあげると、年配の女が俺を指さして、ぶるぶると震えていた。
「み、ミートスパゲティが、ミートスパゲティが喋って、動いてるわ!」
「は?」
もう一度、俺は自分の体を見つめた。
うごうごと、気持ち悪く動くパスタ。
ガラスのコップに映る、ミートスパゲティの姿。
右腕を動かしてみた。同時に、ミートスパゲティの麺が、ぐにょんと右上に伸びた。
「おぉぉぉぉぉえぇぇぃぃぃぃぃ!?」
もしかして、このミートスパゲティは俺か!?
嘘だろ!?
さっと、青ざめた気がした。
人は想像を超えた異常が起きると、やけに冷静になれるものだ。とにかく、ここから逃げなければ。このままでは食べられてしまうかもしれない。
俺は動き、飛んだ。食卓から、床に着地する。
べちゃっと音がした。
「いやぁぁぁ!! ミートスパゲティ、こっちに来ないでちょうだい!!」
女は、すっかり腰を抜かしてしまった。
俺は腰を抜かした女の傍を通り抜ける。
「すまないな。脅かすつもりは無かったんだ。俺の存在は、忘れてくれ」
ぬるぬると動き、玄関と思える場所に向かった。ほんの少し開かれた木の扉の隙間に、体をくい込ませ、外に出た。
爽やかな青空と、涼やかな風が、体を吹き抜けていく。レンガの床の上を、ぬらぬらと動きながら、俺は走った。
走っていると、通りを歩いている人間は、俺を見るなり、ぎょっとして立ち止まる。ありえないものを見る冷たい視線は中々心に堪えるが、それよりも恐ろしいのは子供の無邪気さだった。とても怖かった。
「スパゲティだー!!」と言って、俺を追いかけたり、わしづかみにしてこようと手を伸ばしてきたり、俺を踏もうとした子供もいた。
俺は必死に走り、逃げた。
レンガの通りを走り抜け、路地裏に身を隠した。大きな樽の隅に、身を縮こまらせ、ふぅと息を吐いた。
さて、どうするか。
というより、ここはどこなのだろうか。
赤茶色のレンガの通り。通りを走り抜ける馬車。西洋の立派な服を身につけた人々。
こっそりと辺りを観察していると、背後から「離しなさい!!」と鋭い声が聞こえてきた。
ぎょっとして振り向くと、男二人と、緑のドレスを着た小柄な少女の姿が見えた。少女の腕を一人の男が掴み、少女は痛そうに顔をしかめていた。
「姫さん、ちっと顔を貸してもらうぜ?」
「無礼者!! 私に触るな!!」
帽子をかぶった長い金髪の少女は、幼い顔立ちとは裏腹に、迫力のある大きな声を上げた。
これはもしや、いや、もしかしなくても事件現場である。
「一人で街にいるのが悪いんだぜ、姫様」
「違う。従者共がわざと私の元から離れたんだ。好きで一人でいた訳ではない!!」
「おや。姫様は嫌われ者のようだねぇ」
「ああ。嫌われ者さ。だから、お前達のような者にも、よく目を付けられる。さぁ、いつまで私に触れている。さっさと離せ!!」
「姫様、気丈なのは結構だが、もう少し人質としての――」
少女は、はっと嘲笑った。
「人気のない所まで、私が連れて来られた振りをしてやったのだ。公衆の面前で貴様らを倒しては、私は目立ってしまうからなぁ?」
「なんだと?」
赤いヒールを履いた少女は、男の足を思い切りヒールで踏みにじった。
「なっ!!」
男は痛みで怯んだ。その瞬間に、少女は腕を振り払い、肘で鳩尾を強く打った。少女を掴んでいた男は、腹を押さえて膝をついた。
「くそ!!」
もう一人の男が、少女に殴りかかろうとした瞬間、咄嗟に俺は男に飛びかかった。
男の顔に俺の体が、べたっと張り付く。
「うわっ、なんだこれ!?」
男は、少女を殴りかかるのをやめて、張り付いた俺を引き剥がそうと躍起になった。
少女は、驚いたように目を見開いていたが、すぐに真顔になった。
「さっさと、眠ってろ!!」
どすっと、男の腹を打つ鈍い音が聞こえた。
男は白目を向いて、無言で仰向けになって倒れた。
「ふん。愚か者が」
「す、すげぇ――」
感心して言うと、ドレスを軽くはたいた少女と、目が合ったような気がした。
「おい、お前」
「は、はい」
「喋ることが出来るのだな」
少女は可愛らしく、お辞儀をした。
「助かった、助太刀感謝しよう」
「いや、俺は何も――」
「ところでお前は、なんだ? 新種のモンスターか? 見たところミートスパゲティにしか思えないのだが」
「いや、俺も分からないんですよ。気がついたら、こんな姿になってて――」
少女は、まじまじと俺を見つめた。
「ふん。お前、この先どこか行く宛はあるのか?」
「いえ――ないです。そもそも、ここがどこなのか分からないし――」
言い淀んでいると、少女は軽く息を吐いた。
「なら、お前。私の城に来い。助太刀をしてもらった礼だ。お前をかくまってやる」
「えっ」
「来るか来ないか、返答は一つにしろ」
俺は驚いた。だが、この申し出にありがたく縋らせて貰うことにした。
「行きます!!」
「よし。じゃあ来い」
そう言って、少女は帽子を取った。
「この帽子の中に入れ。私の隣を歩いていたら、目立ってしまうからな」
「帽子が汚れてしまいますよ?」
「構わん」
恐る恐る、帽子の中に入った。
少女は俺が入った帽子を抱えて、歩き始めた。
「お前の名前は?」
尋ねられて、全く思い出せなかった。俺の名前は、なんだっただろうか??
「ミートスパゲティなので、ミートと呼んでください」
「ミートか。私の名前はミーシャだ」
ミーシャと名乗った少女は、微かに口元を緩めて笑った。
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