暗闇の中、名前を呼ぶ声が聞こえる。
聞き覚えのない女性の声。鈴の音のように澄んでいて綺麗だった。
「おい。修也。明石修也」
呼び声に応じようとするが、まぶたに力が入らない。意識も曖昧だ。
「目を覚ませ。世界の命運は君に託された。君が起きなければ、物語は始まらないぞ」
まるでゲームの世界で英雄が目覚めるかのような扱いに困惑する。
俺はただの学生だ。世界の行く末を左右する力なんて持っていない。この女性が何を言っているのかさっぱりだ。
ふと鼻孔をくすぐる匂いに気づく。バニラの甘い香りだ。きっと彼女の香水の匂いだろう。
頭の中が少しずつクリアになっていき、意識が覚醒する。
まぶたを持ち上げ、上体をゆっくりと起こした。
周囲を見回す。誰もいない。先ほど俺に話しかけた女性はすでに帰ったようだ。
俺が眠っていたのは手すりのついたベッドの上だった。四方は白いカーテンで囲まれている。窓から射し込む陽光は優しい。
あとは……テレビがある。その横にはテレビカードを挿入する装置があった。目に映る物すべてが白いこの部屋で、真っ黒なテレビは異質に見える。
ここは……病室?
「さっきの女の人は誰だったんだろう……っ!」
額に微かな痛みが走る。
頭を右手で触れてみた。
……包帯が巻かれている?
俺、どこかで怪我をしたんだ。いったいどこで?
考えていると、カーテンが静かに開いた。
ひょっこりと顔を出したのは三十代くらいの女性だった。白衣を着ているので医者だろう。
俺と目が合うと、医者は笑みを浮かべた。
「あら。明石さん、目を覚ましたんですねぇ」
優しくておっとりした声。先ほどの女性とは違う声音だ。
「先生。あの、俺はどうして病院に……」
「覚えていないんですか?」
「えっと……はい」
「夕方、うちの病院の近くで倒れていたところを搬送されたんですよ。頭を打ったらしく、額から軽く出血していました。気を失っていたのもそのせいでしょう」
「……転倒? 出血?」
まったく記憶にない。下校途中に事故に遭ったのだろうか。そもそも通学路に病院なんてあったかな……?
そこまで考えたとき、ふと違和感に気づいた。
――俺、どこの学校に通ってた?
名前と高校生だってことはわかるんだ。絶対に記憶はあるはず。でも、見つからない。思い出せない。頭の中は乳白色の濃霧で覆われていて、記憶へと続く道を閉ざしている。
わからないのは学校だけじゃなかった。
俺の友達ってどんなヤツらだ? 家族は? 好きな食べ物は? 俺の誕生日っていつ?
必死に記憶をたどったが、何も思い出せなかった。
脳の奥のほうが鈍く痛む。ぐわんぐわんと鐘を打ち鳴らしたように鈍く響いている。
頭を抱えると、医者は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「明石さん。痛みますか?」
「先生……自分の名前と俺が学生ってこと以外、思い出せないんです」
「思い出せない?」
医者は顔を歪ませて、言いにくそうに口を開いた。
「……記憶喪失かもしれません。のちほど検査しましょう」
記憶喪失。
あまりに衝撃的なその言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
病室を出て行った謎の女のことなんて、もうどうでもよかった。
◆
退院してから半年が経った。
私立柚鳥学園高等学校。
それが俺の通っている学校のようだ。
検査の結果、やはり俺は記憶喪失だった。未だに過去のことは思い出せないでいる。
原因は頭部に衝撃を受けたせいだと医者に言われた。ただし、肝心の「頭部に受けた衝撃」の原因は明らかになっていない。
どうやら俺は友達が多かったらしく、クラスメイトにとても心配された。みんな優しくて思いやりのあるいいヤツばかりだったので、学園生活にもすぐに馴染めた。
仲間たちのおかげだろうか。今では無理に過去を思い出さなくてもいいかなと思っている。
過去がないなら、これから作ればいい。
新しく思い出を作ることは、記憶のない俺にとって大切な使命のように思えた。
「ねぇ修也。一緒に帰ろ?」
放課後の教室で帰り支度をしていると、クラスメイトの湊結愛に声をかけられた。ふわっとしたショートボブの女の子だ。トレードマークのアホ毛は今日もひょこひょこと忙しなく動いている。
「……そういえば、結愛はいつも俺と一緒に下校しているよな。どうして?」
「ふえっ? そ、それは、そのっ」
結愛は顔を赤くして、あたふたし始めた。
特徴的なアホ毛が右へ左へひょこひょこ動いている。
「その慌てよう……わかった。結愛は下校友達、俺しかいないんだな……変なこと聞いてごめん」
「哀れむのやめてよ! 普通に友達いるから!」
「その友達にいくら金払ってんの?」
「まさかの料金制! 悲しすぎるよ! 友情はお金で買えないよぅ!」
「友情はお金で買えない、か。俺も昔はそう思っていたぜ……」
「何その意味深な発言。修也の過去にいったい何が……って、あんた記憶喪失じゃん!」
結愛は俺の肩をビシッと叩いた。
「さすが結愛。ツッコミのキレが違う」
「むぅ。こっちは迷惑なんですけど。修也がボケまくるせいで、よく夫婦漫才ってからかわれるんだからね」
「え? じゃあ、なんでいつも俺と一緒に帰るの? 余計に誤解されるじゃん」
「そ、それは、その……修也が記憶喪失だから、いろいろ大変かなぁって思って」
「もう半年も前の話じゃない?」
「う、うるさいなぁ! いいから修也は私と帰るの! 幼なじみ命令なの!」
結愛は顔を真っ赤にして、俺の胸をぽかぽか叩いた。
「ははっ。からかって悪かったよ」
結愛の頭をそっと撫でる。
こうしてあげると、結愛は静かになるのだ。
「んなっ……きゅ、急に何よ。ずるいんですけど」
結愛は唇を尖らせて俺を睨んだ。何がずるいのかよくわからない。
結愛は俺の幼なじみだ。家が近所で、小さい頃からよく遊んでいた……らしい。
記憶喪失になった当初は、結愛がいつも俺のそばにいてくれてフォローしてくれた。面倒見がよくて、優しくて、甘いものと可愛いものが大好きな女の子。それが湊結愛だ。彼女には本当に感謝している……口に出すと恥ずかしいから言わないけど。
「結愛。そろそろ帰ろうぜ」
「あ、待ってよぅ!」
俺たちは鞄を持って教室を出た。
廊下を歩いていると、女子生徒が前から歩いてきた。
すれ違った瞬間、どこか懐かしい香りがした。足を止めて振り返る。
その女子生徒は長い黒髪を優雅に波打たせて歩いていた。ニーソックスに包まれた脚は細く、しなやかで美しい。
彼女は手に漫画を持っていた。漫画を片手に校内をうろつくとは、よほど漫画が好きなのだろう。
「あの人、漫画好きの生徒会長だよね」
「へぇ、生徒会長」
ということは三年生か。俺の一つ年上だな。
「……何ずっと見てるの。修也のすけべ」
「あ、いや。なんか会ったことがあるような気がしてさ。どこで会ったんだっけ……気になるなぁ」
「な、何よぅ。修也はああいう大人っぽい女の子がタイプなの?」
結愛は不安そうな顔で俺を見つめた。先ほどまで元気よく揺れ動いていたアホ毛は力なく垂れ下がっている。
「そうだなぁ……一緒にいて元気がもらえる明るい子がタイプかな」
「……えへへ。そっかそっか」
「なんだよ。しおらしくなったと思ったら、急に元気になったじゃん」
「なんでもないでーす」
結愛は俺のおでこを嬉しそうにぺちぺち叩いた。萎れていたアホ毛はぴょこんと立っている。お前のアホ毛、どういう仕組みで動くんだよ……。
近所の商店街を歩いていると、結愛は唐突に「ねぇ。またクラスのみんなで今度カラオケ行こうよ」と提案した。
「いいね。みんな盛り上がってたもんな。例の『知らない曲を入れてノリで歌ってみる』って企画、めっちゃ面白かったよ」
「ねー! 音程わかんなくて適当だった!」
「結愛の歌った『愛・編む・スイーツ・ペロリスト』は最高だったな。後で調べてみたら、二十年前に解散したアイドルの曲らしい」
「『君は特上スイーツさ、ぺろり食べちゃいたいよ』の歌詞には笑ったね……あっ! スイーツで思い出した!」
商店街を抜けたところで、結愛は思い出したようにぽんと手を打った。
「修也、コンビニ寄っていい?」
「うん。俺も買いたい物あるからいいよ」
「ありがと。えへへ、今日は新作スイーツの発売日なんだぁ」
「結愛は本当に甘いもの好きだよな」
「いいじゃん。女の子は甘いものと可愛いものが大好きなのだ!」
結愛は楽しそうに笑いながら、コンビニに入っていく。俺も彼女に続いて入店した。
俺は新作スイーツに興味はない。真っすぐに雑誌コーナーに向かい、お目当てのコミック誌を見つけた。
今日は『週刊少年ワンダー』の発売日。
俺はこのコミック誌で連載中の『異世界ツーリスト』という作品のファンだ。単行本はもちろん購入しているし、雑誌で最新話をチェックしている。記憶にはないものの、家に全巻そろっており、昔から愛読者だったのだろう。
異世界ツーリストは週刊少年ワンダーを代表する人気作。主人公が滅びゆく地球を飛び出し、移住先を求めて様々な異世界を旅する物語だ。
突然の地球滅亡の謎。次々と異世界を滅ぼしていく黒幕の存在。地球再生の鍵。多様な異世界設定……魅力は語るに尽きない。これらの設定は、少年ワンダーのコンセプトである『驚きとワクワクを読者に届ける』と見事にマッチしている。
先週号は仲間が裏切るところで終わってしまった。今週号では、きっと裏切った仲間の真意が明らかになるはず。
……続きが気になって仕方ない!
「買う前だけど、ちょっとくらいなら立ち読みしてもいいよな?」
もう我慢の限界だ。俺の全細胞が、血液が、心臓が、異世界ツーリストを求めている。今すぐ異世界ツーリストを読まないと死ぬまである。
俺は生命維持のため、週刊少年ワンダーを手に取った。
表紙の隅っこに書かれていた、衝撃的な一文が視界に入る。
『異世界ツーリストは作者の都合により無期限休載となります』
「そんな! 俺に死ねと!?」
休載の詳細は書かれていない。確かなのは、俺の生きがいがなくなったことだけだ。
涙をこらえ、ぱらぱらと少年ワンダーのページをめくる。
とある作品のページで手が止まった。
漫画のタイトルは『僕たちはラブコメができない』。通称『僕ラブ』。高校生の男女が高校を舞台にわいわいとお馬鹿なことをやる日常コメディだ。
特徴は何といってもその画力。作者の描く女の子はどれも可愛くて魅力的だった。連載当初は「神作の予感!」とネットで話題にもなったっけ。
だが、人気はすぐに落ちていった。『僕ラブ』は高校生の日常ばかり描かれ、肝心のラブコメ要素は皆無だったのだ。要するに、タイトル詐欺である。
しかも、週刊少年ワンダーのコンセプトと真逆の日常漫画。読者から支持は得られず、読者アンケートでは最下位の常連になってしまった。
「そういえば、読んだことなかったな……」
異世界ツーリストが読めなかった手持ち無沙汰から、気まぐれに読んでみた。
主人公はどこにでもいる男子高校生だった。何気ない日常を送りながら、学園生活を満喫している。
続きを読んでいくと、主人公の名前が俺と同じ『修也』であることに気づく。
共通点を見つけると、不思議と『僕ラブ』に興味が出てきた。俺はどんどんページを読み進めた。
しばらくして、ページをめくる手が止まる。
「え……はっ?」
衝撃的な展開を目の当たりにした俺は、震える手でページをめくった。
修也とその仲間たちは会話の流れでカラオケに行くことになる。彼らは個室に入り、『知らない曲を入れてノリで歌ってみる』という企画を実施。音程も歌詞もわからないまま、修也たちは聞いたこともない曲を歌うことになった……。
背中に刃物を押し当てられたかのような、底冷えする感覚。
もはや名前の共通点があるどころの騒ぎじゃない。
「これ……この前、結愛たちと行ったカラオケじゃないか……!」
内容が似ているなんてレベルじゃない。細部も同じだ。その証拠に、結愛が『愛・編む・スイーツ・ペロリスト』をめちゃくちゃな音程で歌っている……って、ちょっと待て。登場人物の名前、俺以外も一緒じゃないか。
おそるおそる自分の制服を見る。漫画の主人公が着ているものとまったく同じだ。
偶然ではない。ここまで一致すれば必然だ。
何故か俺は『僕ラブ』の主人公になっていたのだ。
はじめまして。上村夏樹と申します。
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