太陽が南中に差し掛かった。
辺りから伝わる蝉の声は益々大きさを増し、人影の無い瓦礫の街並みを縦横に満たした。
流石に歩き疲れてか、南海子は足を止め、大成もそれに倣い、両者は無人の街の一角で立ち止まった。
上屋の煤けたバス停の、置き晒しにされたベンチに二人は腰を下ろした。
目の前を伸びる車道を通るものは何も無く、細かな亀裂の走った路面には陽炎が立ち昇っている。蝉時雨だけが辺りを満たし、時折吹き抜ける風が道端の雑草を音も無く揺らした。
道路を挟んだ向かいには、半壊したファストフード店が静かに佇んでいる。白昼の街並みは崩れ掛けても尚眩しく、動的な気配をまるで覗かせない景観はさながら透明な樹脂で満たされているかのようであった。
沈黙が、日陰に座る二人の間に降り積もって行く。
「それで……」
少しして、大成はやおら口を開いた。
「……今幾つになんの、歳は?」
問われた少女は、自身の足元に向けて細めた目を据える。
「……判んない。忘れた……」
他人事のように素っ気無く答えた相手へ、大成は瞳だけを向ける。
「学校は?」
やはり自分の足先を見つめて、南海子は短く答える。
「……行ってない」
「行けよ」
少し呆れたように、大成は促した。
「どんな時でも夢や目標を持つのは大事だぞ。そりゃ、昔程面白くはないだろうけど……」
相手へと言い聞かせる傍ら、大成は鼻息をついた。
この時代、最も強く影響を受けたのは教育の現場であった。
『休眠期』が設けられてから小中高の学期制度は大掛かりな変更を余儀無くされ、全てのカリキュラムがそれまでの三分の一にまで圧縮された。朝の九時から夜の六時まで密度の濃い授業が日々徹底され、それに伴い各部活動は休止、若しくは廃止を迫られた。
国の復興と言う点から見ても、休眠に入るまでに必要十分な知識を得る事が第一とされ、各教育機関は厳密な意味で教育のみを行なう場所と化したのである。そして部活動の休止に伴い、野球を始めとする各種スポーツは折からの食糧不足に加え、人材の確保が極めて困難となった事も手伝って軒並み休止に追い込まれたのだった。
再び黙り込んだ白い服を纏った少女を、傍らから『墓守』の青年は覗き込む。
機械越しに見た映像ではなく現にこうして間近で捉えてみれば、『彼女』の様相には幽玄たる趣は微塵も見当たらなかった。
着ている服には様々な染みや綻びが目立ち、袖口から覗く肌は埃だらけである。髪には頭垢が絡み付いて斑模様を描き、全体的に血色も良くない。周囲に人のいない中で暮らしていれば当然であろうが、普段の栄養状態も衛生環境も劣悪であろう事は想像に難くなかった。
『彼女』は廃墟の中に現れ消える幽霊などでは決してなく、飽くまで一人の人間に過ぎなかったのである。現実に目の当たりにしてみれば、こちらと何も変わらぬ血肉を持った一人の人間であった。
その事実が、大成の胸に落胆と安堵が入り混じった奇妙な感慨を生じさせたが、それから更に数拍の間を置いて、彼は隣に座る少女へと再度訊ねる。
「……家族は、誰かいないのか?」
その質問を浴びせられた刹那、南海子は両膝の上で握った手をぴくりと震わせた。
何処か遠くから、扉が風に揺られて軋む音が聞こえて来る。
大成もまた相手が滲ませる気配の変化を感じ取って、小さく頭を振った。
「……悪かった。俺と同じって事でいいのかな? 俺も家族はいない口なんだ。前の戦争で皆死んじまった。十九の時に……」
さばさばとした口調でそう言うと、大成はバス停の上屋越しに空を仰いだ。
「悲しんでる余裕も無かったからな。マジであの頃は、ショック受けてる暇すら無かった。ああ、死んじまったのかって頭ん中では理解出来ても、感覚の方はてんで付いて来なかった。実感が湧いたのは何年も経ってからだ」
寂れたバス停の上に広がる空は何処までも蒼く澄み渡り、崩れ掛けたビルの上に掛かる雲は日を浴びて白く輝いていた。
「……でも、不思議なもんなんだよな。傍にいた時にはこれと言って意識した憶えも無かったってのに、いなくなったのを理解出来てからは、ふとした弾みであれこれと思い出が浮かび上がって来るようになったんだ」
大成はそう告げてから、ふと寂しげな微笑を浮かべた。
「俺、弟が一人いたんだけど、別に可愛げも無くって、生きてた頃は何かに付けて口喧嘩ばっかしてた。親によく呆れられたっけかな。だけど、今じゃあいつの顔を頻りと思い出すんだ。それも変に美化されたりとかじゃなく、昔のまんま小生意気で小憎たらしい様子が矢鱈と思い浮かぶんだよ。本当、不思議なもんだ……」
傍らで青年が懐かしそうに、或いはこそばゆげに述懐するのを、少女はそちらを一瞥する事もせずに聞き流していた。ただ、その眼差しだけは前方の一点を見据え、終始微動だにする事は無かったのであった。
そんな相手を、大成は目尻から垣間見る。
「そっちはどんな塩梅だった? 家族仲は良かった?」
南海子はただ静かに俯いた。
蝉の声が四方の日向から押し寄せて来る。
壊れた家電量販店の屋上で、大きく傾いた電光掲示板の上を厚みのある雲が緩やかに通り過ぎて行った。
ややあって大成は南海子へ、頑なに沈黙を守る少女へしっかりと顔を向けたのだった。
「……どうして、眠ろうとしないんだ?」
それまでよりも低い、そして硬い声が青年の口元から這い出した。
「俺は眠り続ける人達を見守るのが仕事なんだ。いつか皆が起き上がって来ると思えばこそ、こうして独りでいる事にも耐えられる。でもそっちは、どうしてそうやって独りぼっちでいられるんだ?」
日陰に留まる二人の間には、鳴り響く蝉の声以外、何の物音も届きはしなかった。互いの生む沈黙だけが塵芥のように降り積もる中、傍らに座る白昼の幽霊の如き少女を見据える『墓守』の青年の目元が次第に険しくなって行く。
そして大成が今一度口を開こうとしたその時、彼の隣で南海子は鋭い声を放ったのであった。
「あたしは……!」
一瞬、大成がびくりと背筋を正した。
それ程の声であった。
南海子は眼差しは両膝の先の地べたに向けたまま、それまでよりも数段張りのある声を懸命に絞り出す。
「あたしは、死にたくない……!」
執拗に纏わり付く何かを必死に振り解くようにそう告げると、白い服を纏った少女は再び沈黙したのであった。
バス停の日陰の中で、大成は静かに目を見張った。
一切が一瞬の出来事であったかのようにも思えるし、相応の長い時間を掛けて行なわれた事であったような気もする。とまれ、大成は突然の事に驚きつつも更に興味を惹かれた体で、隣に座る南海子を見つめ続けたのだった。
鳴り響く蝉の声だけが直前と何ら変わらず、二人の頭上に降り掛かった。
気まずく、むず痒い沈黙の果てに、大成はもう一度話し掛けようと徐に口を開く。
その時であった。
「あら? ナミちゃん、ここにいたの?」
場違い、或いは時代違いなまで明るい声が、廃墟の向こうから飛び込んで来た。朽ち掛けたバス停の日陰の中へ、日差しの下より遣されたその声が届くや否や、南海子は弾かれたように顔を上げた。
それまでより明らかに軽い動作で、その面持ちにも俄かに明るいものを滲ませて、彼女は声の主を一心に求めるようにベンチから腰を上げたのであった。
突然の事に、何より相手の豹変ぶりに驚いて、大成も思わず腰を浮かせた。
そんな両者の下へ、日向の方から足音が近付いて来る。焦る事もしない、実に緩やかで瀟洒な足取りであった。
程無くして、バス停の日陰の中に新たな人影が立つ。
「そろそろ戻るわよ。犬の唸り声が段々増えて来てるみたいなのよぉ。ぐずぐずしてるとトラブルに巻き込まれないとも限りませんからね」
大らかな響きを持つ女の声であった。
「はい」
南海子は笑みすら浮かべて、声の主へと頷いてみせる。
半分彼女に引き摺られる形でベンチから立ち上がった大成は、遅れて相手の顔を見上げた。
五十代と思しき壮年の女が、二人の前に立っていた。
埃だらけ、綻びだらけの粗末な黒い服を着た女が、人懐っこい笑顔を浮かべて南海子を見つめていたのである。
不意を突かれた格好で、大成はただ怪訝な面持ちを浮かべるのが精一杯であった。
履物もぼろぼろで、肩に大きなずた袋を背負っている。
次いでその女は、少女の隣に立つ青年にも目を向けた。
「……それで、ええっと、そちらの方はどちら様?」
何とも緩んだ声が、廃墟の一角に泡のように浮かび上がった。
蝉の声は依然としてけたたましく周囲に鳴り響く。
夏の日差しに彫り出されるようにして、三者を取り巻く崩れた建物の群は晴天の下に聳え立っていた。
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