『そこ』を満たす空気は、心なしか他の階よりひんやりとしているようだった。
無論、それは単なる思い込みに過ぎないのだろう。地下へ下れば下る程、地熱によって温度は上昇して行く筈なのだから。
薄暗く、そして広大な空間を見回して、大成は不思議と和らいだ面持ちを浮かべていた。
上下二段の『個室』が整然と並ぶ広々とした空間であり、他と何ら差異の見当たらぬ人工冬眠処理室の一つが青年の前に広がっていた。『墓守』たる彼にとっては充分に見慣れた景色であったが、然るに、ここは彼にとっても普段は足を踏み入れる事の無い区画なのである。
『施設』の最下層、地下十三階に設けられた特別区画、通称『氷地獄』。
その一角に、大成は佇んでいたのであった。
主に殺人などの重罪で服役中の囚人達が無期限の『眠り』に就かされている隔絶された区画であるが、大成が今身を置いているのは似て非なる別のブロックであった。
人工冬眠の技術が確立された当初より永い『眠り』に就く事を余儀無くされた人々の集まった区画、即ち、遠い未来に拓かれるであろう医療技術に望みを託し、仮死状態となる事を自ら選んだ傷病者達の集う一間であった。
望まぬ眠りと目覚めを繰り返す者達の訪れる『施設』の中で、この一角だけは別の空気を湛えているように大成には感じられた。機器の駆動音こそ上層階と変わらないが、薄暗い中に漂う気配にはより整然とした何かが含まれているように感じ取れたのである。
そして大成は、自身の横手に置かれた『個室』を覗き込む。
他の階層のそれと同じく蒼白い光が充満した『個室』の中には、一人の少女が静かに眠りに就いていた。
紛いようも無い南海子の姿が、そこにあったのだった。
『個室』の内で仰向けになった少女は穏やかに瞼を閉ざし、周りの人々と同じく安らかな眠りの中に落ちている様子である。
眼前の有様を凝視する内、大成の眉間に自然と皺が刻まれて行く。
嵐の夜、『彼女』もまた大成と同じく、河川敷に駆け付けた『防人』達によって救助されていたのであった。青年が最後の最後まで抱き留めていたのが幸いしたのか、他の野外生活者が全て行方不明となった中で、『彼女』だけは大成よりも下流の岸に打ち上げられている所を軍によって発見されたのである。
しかし、それまでに水を飲み過ぎた所為か、はたまた直前に流木と衝突したのが災いしたのか、『彼女』は救助された時点で既に昏睡状態に陥っており、以来目を覚ます事は無かったのであった。
回復の為に手を尽くしたあらゆる努力は徒労に終わり、『彼女』は遂に瞼を開けぬまま、唯一の解決策として『個室』内で事態の打開を待つ事となった。
大成は今も変わらぬ南海子の様子を確認すると、徐に鼻息をつく。
以前の『彼女』が蛇蝎の如く忌み嫌っていた『個室』、閉塞と死の臭いの充満した『個室』にて現在の『彼女』は静かに時を待ち続ける。同じように『未来』の進歩に己の『未来』を託した人々と共に、『個室』の扉が希望を込めて開かれる『その日』まで眠り続けるのである。
蒼白い光を漏らす『個室』の連なる空間に、機器の駆動音が寝息のように反響する。
ややあって、大成は南海子の眠る『個室』から離れると、ふと首を後ろに巡らせた。
彼の背後に、年配の女が立っていた。
「室長……」
「挨拶は済んだか?」
些か驚いた様子で声を漏らした大成の後ろで、彼の上司はやんわりと問い掛けた後、やおら微笑んだ。
「……いや、別れの挨拶と言うよりは再会の約束か。正に『また逢う日まで』、『次に目覚めるその時まで』という奴だな」
白内の遣した言葉に、大成はばつの悪い表情を返した。
然る後、『墓守』の青年は上司へきちんと体を向けて一礼する。
「……何て言うか、室長にこんな形でお別れを言うのは気が引けるんですけど、その、色々とお世話になりました」
「何、こちらも四年かそこらの付き合いだったが、思い返せばあれこれと世話になった。改まって礼を言われる程でもないさ」
「いえ、仕事の話ばかりじゃなく、後見人の選任にも力添えをして貰って、その後の手配も含めてどうお礼を言ったらいいか……」
大成が及び腰に述べた言葉に対して、白内は首を少し傾いで相手を見遣る。
「それこそ大した手伝いでもない。こちらで手を回した事と言えば、お前の身元保証と多少の口利きだけだ。これからそっちがやろうとしている事に比べれば、こっちがやった事なんて取るに足りない事だろう」
「けど……」
尚も何かを言い掛けた青年から視線を外して、年配の女は相手の後ろに覗く『個室』を一瞥した。
「その娘を独りにしておく訳にも行かないんだろう? 独りぼっちになってしまった者には、誰かが常に寄り添ってやらなきゃならん。それはずっと昔から繰り返されて来た事だし、共に『生きる』とはそういう事だ」
白内は穏やかに謳うようにそう言うと、相対する大成を改めて見つめた。
「家族を、家族になれるかも知れない相手をもう一度失くす必要は無い。どれだけ未来の事になろうが、僅かでも希望があるなら『未来』に賭けてみろ。たとえその時その場にいなくても、私はお前を応援している」
「……はい……」
こちらを真っ直ぐに見据え、大らかな眼差しと共に語り掛けて来る相手へ、大成は短い答えを返す事しか出来なかった。
そうして所在無さそうに佇む青年へと、向かい立つ年配の女は微笑み掛けた。
「私も戦争で家族を亡くした一人でね、独り身の辛さは熟知している積もりだ」
そう言ってから、白内はやおら目を細める。
「一時はそれで随分と思い悩んだりもした。果たしてこの先の人生に於いて、自分が生きて行く意味が何処にあるのだろうかと」
飽くまで泰然と述懐する相手へ、大成も自然と目を向ける。そんな彼の見つめる先で、人生の先輩たる年配の女はふと鼻息をついた。
「土台答えの出ない問題ではあるだろうが、だからこそ私はこう思う事にした。自分一人が生き残ったのなら、同じく生き延びた人達は自分の同類であり家族のようなものなのかも知れない。ならば、その大きな意味での『家族』を見守る事に、残りの人生を費やすのも悪くはないのではないか、と」
そう告げた白内は、目の前の青年へ今一度笑い掛けた。
「君らが揃って眠りに就くのなら、君らもまた見守るべき『家族』の一つとなる訳だ。私一人の勝手な思い込みに過ぎないが、それでも君達の未来に幸多からん事を願うよ」
「はい……有難う御座います……」
微かに揺れる声で謝意を伝えるのと一緒に、大成は深々と頭を下げたのであった。
周囲から伝わる機器の駆動音が脈拍のように空気を震わせる。
薄暗くも広大な空間は、時の流れの中に悠然と漂うかのように不変不動を崩さなかった。
あたかも、この場所だけが俗世の悲哀から切り離され、まだ見ぬ楽土を目指して漂流を続けているかの如くに。
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