一歩、また一歩と川岸へ近付くにつれ、その音は次第に大きくなって行った。
降り頻る豪雨の音を裂いて伝わる、轟々たる水の音である。
雨の中、息を切らして川縁に辿り着いた大成は、残された力を振り絞るようにして土手に上がった。
そして、その面前に一面の濁流が広がったのであった。
渦巻く雷鳴に喩えてすら決して大袈裟でない轟音が、すぐ目の前から押し寄せて来る。星も見えぬ暗闇の中で詳細は判らなかったが、土手から見渡す限りの一面が猛々しい奔流に覆われていた。
河川敷は敷地全てが既に水に浸かっていたのであった。
土手の上に立ち尽くし、大成は眼前の有様にただ絶句する。
初めてこの場所に訪れた際には、眩い日差しに軽やかなせせらぎが絶え間無く反響していた。世界の美しさと言えば大仰であるが、たとえ人の世が壊れ掛けていようとも、尚も続いて行く天然自然の健気さが表れているかのようだった。
それが今、森羅万象は悉く正気を失くして猛り狂い、己を含めたあらゆるものを呑み込んで打ち砕く無慈悲な狂乱を前面に押し出している。
諸行は無常にして無情であり、それこそがこの世の根幹を成しているのだと、相対するものを苛烈に喝破するかの如くに。
半ば呆然と打ち拉がれていた大成は、ややあって首を幾度か振った。
今は兎に角、『ここ』にいた者達を、『ここ』にいる筈の者達を何とかして探さ出さねばならぬ。大成は自分の目的を今一度思い返した後、四方へと必死に目を配った。
氾濫した河川は動き続けているが故に闇の中でも判別は付いたが、他の景色は依然として深い闇に呑み込まれたままであった。大成も時を経た為か、暗闇に目が慣れ始めてはいたが、それでも濃い宵闇の中から人の影姿を見付け出すのは困難である。土砂降りの雨を挟んでは尚更、河川敷の様子を細かく窺う事は難しかった。
大成は土手に立ったまま、懐中電灯の明かりを忙しなく動かし続けた。そもそも都市が水害の危機に瀕した際に備え、予め浸水させる目的で拓かれた河川敷には、本来の役目に則って猛々しい水の流れが広がるばかりであった。
どれ程の間、横殴りの雨に打たれていただろうか。
大成の目が矢庭に細められた。
地表を蠢く者共を残らず打ち据えるような激しい雨の中、ましてや深い闇の中に於いてそれは酷く曖昧なものであったが、それでも大成は濁流の一部と化した河川敷の一点に動く者の姿を見付けたのであった。
頭から流れ落ちる雨水が引切り無しに目に入って来る中で、大成は額に手を翳して遠方の一角を真剣に凝視する。
果たして彼の縋るような希望通り、水に呑まれた河川敷の奥に人の姿が微かに見て取れたのだった。
土手の上から判別出来る人数は精々五六人と言った所であろうか。腰の辺りまで水に浸かりながら、それでも一箇所に集まって動かずにいる。
いや、動けずにいるのだろうか。
人影の周囲にバラック小屋は最早見当たらず、支柱らしき残骸が川面から幾つか突き出ているのみである。『彼ら』はそうした住居の残骸の一つに銘々にしがみ付いて、押し寄せる水の流れに文字通り死物狂いで耐えている最中にあるようだった。
かつての集落の位置こそ判別の付けようが無かったが、『外』で暮らす者が元々極少数である事、同じ河川敷に他に暮らしていた者達がいなかった事から考えて、暗闇に浮かぶ小さな人影こそがあの『村』の住人達である事は疑いようが無かった。
「おおい!」
大成は懐中電灯を振り回して、大声で叫んだ。
雨も風も益々狂乱の体を強く晒す中、その声が届いたかどうかも定かではない。小さな電灯の光が相手の目に触れたかどうかも確かめる術は無い。
しかし、大成には闇の中で寄り添う生き残りの内、誰かがこちらの姿に気付いたように見受けられたのだった。
『彼ら』の方へ電灯を向けながら、大成は声を限りに叫ぶ。
「こっちだ! 岸はこっちだ!」
横殴りの雨に絶えず顔を打たれながらも、青年は必死に呼び掛けた。
それに応じてか、濁流の中に寄り添う人々は僅かながらに動きを覗かせ始めた。遠目にも判る程の素振りで向こうも手を振り、何事かを大声で叫んでいる。雨と風が織り成す自然の雄叫びに掻き消されて確とは聞き取れなかったが、必死に何かを訴える様子は間違い無く伝わって来る。
土手の上からその様子を確認して、大成は尚も険しい面持ちを保つ。
『彼ら』は今、極度の混乱の最中にあるものと思われる。増水した河に集落を押し流され、完全に孤立した状態に置かれているのである。この風雨の中では岸の位置すら判らずにいると推察され、ともすれば容易く流されてしまう濁流の中にあって尚、どうする事も出来ずにいるようであった。
岸辺に立つ大成にしても、それは同じであった。
溢れた水は彼の佇む土手のほんの少し先まで押し寄せており、『彼ら』の元へ駆け寄る事は無論の事、迂闊に身動きが取れぬ有様であった。
大成は肩に担いで来たロープと浮環を降ろすと、しっかりと結び付けたそれらを手元で振り回した。いつか、遠い昔に見たような気がする西部劇の投げ縄の要領で、大成はロープに繋いだ浮環に勢いを付けると、荒れ狂う水の向こうへと投げ放った。
雨を割いて宙を舞った浮環は、しかし、濁流に取り残された人影まで達する前に水面へと落下し、忽ち下流へと流されてしまう。ならば、と今度は砲丸投げの要領で全身を使って投擲を試みたが、浮環はあらぬ方向へ飛ぶ上に結局は相手の手元まで届かず、激しい水流に敢え無く押し流されてしまったのであった。
せめてこれが凪いだ状態であったなら、或いは海上のように遭難者が多少なりとも身動きが取れる状況にあったなら、万に一つの成功も望めたかも知れない。然るに現状に於いては、風も水もこちらの遣す救いの手を無下に突き返して来るばかりなのである。
一人臍を嚙む青年の前で、雨の勢いと共に濁流の轟きも大きさを増して行った。今の彼に出来る事と言えば、『彼ら』の有様をひたすらに見つめ、そして呼び掛ける事のみであった。
濁流に半身を呑まれながら、こちらへ懸命に手を振っている小さな人影へと。
牙を剥き出しにした大自然に今正に打ち砕かれんとする『彼ら』の姿は、瞬く合間に闇の中へ溶け消えそうな程朧げに映り、それでいてはっきりと存在感を際立たせていた。
『死』を受け入れてありのままに生きると宣言した『彼ら』の元に、現実としての『死』が遂に間近にまで押し寄せて来たのである。一切の前触れも一片の情けも覗かせず、誰にも揺るがせに出来ない厳然たる事象として、この時、ありのままの『生』と『死』が夜の闇に刻み込まれようとしていた。
何か、まだ何か手立てがある筈だ。
まだ何か。
全身を雨に打たれながら、大成は火照るような焦りに駆られていた。
そして、彼は辺りを慌ただしく見回し、程無くして土手の一角に目を留めたのであった。
横手の少し離れた場所に一本の標識が掲げられている。海からの距離を記した目立つ所も無い代物であったが、大成はその標識の下へ急ぎ駆け寄ると、手にしたロープの端をポールにきつく結び付けた。
それから大成は自ら浮環を胴に通すなり、そのまま荒ぶる濁流へと歩き出したのだった。
雨も風も先程から勢いを些かも衰えさせていない。氾濫した河は嵐の下でいよいよ激しく暴れ回り、濁った水面から禍々しい雄叫びを上げ続けた。
その怒涛の中へと、大成は踏み込んだのであった。
流れの速さは正に殺人的であり、僅かでも重心を傾ければ即座に下流へ押し流されてしまうだろう。大成は腰の辺りまでを水に沈めて、摺り足になって慎重に歩を進めた。実際には十メートルも離れていないだろう遭難者達までの距離が、何百メートルもの隔たりに感じられる。頭に血が上り、鼓動も止め処無く激しくなる中、それでも呼吸だけはしっかりと整えながら、大成は『彼ら』の方へゆっくりと近付いて行った。
他方、濁流の只中で往生する『彼ら』も、命綱を繋いで水に入った大成の姿を認めて思う所を察したようであった。建物の残骸にしがみ付いた一人を起点として流れの中で手を繋ぎ合い、激流の中で数珠繋ぎになって、遭難者達もまた救助者の方へと歩み寄ろうと試みたのである。
猛り狂う嵐の中で、月も星も隠れた暗闇の中で、人と人とが手を取り合い、互いに何とか接点を設けようと懸命に足掻く。吹き荒れる風はそんな人間達を叱り付けるようであり、降り頻る雨は互いの視界を容赦無く塞いだ。
そうした中、大成は荒ぶる河川をどうにか横切り、やがての末に『彼ら』の元へ辿り着けたのだった。手に手を取り、濁流の中で一直線になって大成へ近付こうとする『彼ら』の、その最末端に立っていたのは白い服を纏った少女であった。
闇の中で大成がその事実に気付いたのは、互いの手と手が触れ合う寸前だった。
濁流を挟んで立つ南海子は緊張と恐怖に顔を強張らせながらも、徐々に近付きつつある大成へ真摯な眼差しを寄せていた。かつてない程の強い眼差し、それは取りも直さず彼女が持つ『生』への執着、懸命に生きようとする意志の表れであった。
そんな顔を覗かせた『彼女』へ吸い込まれるように、大成もまた濁流を進む。腹部までを水に浸しながら、『彼』もまた真剣に己の命が放つ力を全身から溢れ出させた。
あと少し、もう少しで手が届く。
『青年』と『少女』。
『墓守』と『亡霊』。
眠り続ける世界に共に残った者同士。
いずれが『生者』であったか。
いずれも『生者』であった。
そして、少女が必死に差し伸ばした手を、青年はしっかりと握り締めた。
「よし……!」
濁流に揉まれながら、大成がそう漏らした時の事であった。
彼の右手、河川の上流から何か大きな影が押し寄せて来る。洪水の轟きの中に時折水飛沫を撒き散らして、巨大な黒い塊が水の上を転がって来た。
異変に気付いて首を巡らせた大成のすぐ横手まで、『それ』は近付いて来た。
闇に浮かんだ巨大な物体。それは水に運ばれる倒木であった。
恐らく、河上で水に呑まれた木々の一つが河口にまで押し流されて来たのだろう。文字通り圧倒的な速度で襲い来る巨大な漂流物を前にして、大成は顔を強張らせた。
南海子にしても、それは同様であった。
腰まで水に浸かった両者はすぐに身動きも取れず、流される倒木の進路上から避難することも儘ならない。
恐怖に顔を引き攣らせた南海子を、大成は咄嗟に抱き締めた。
直後、濁流の中に立つ二人へ覆い被さるようにして倒木が激突した。
大成が思わず目を閉ざす。
明確な痛みは無かった。
代わりに、経験した事の無い大きな衝撃が全身を激しく揺さ振る。
正に意識までも打ち砕かんばかりである。
食い縛った歯の隙間に水が流れ込んで来る。どうやら水中に投げ出されたらしい。
それでも、彼は両手に抱えた者を決して離さぬよう気を張った。
……南海子は。
南海子……。
大成が自身の意識を繋いでいられたのは、そこまでであった。
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