向かいのホームを出た電車が、線路を緩やかに進み出した。
間も無く加速を始めた銀色の車両は、駅の向こうへと小さくなって行った。
通学鞄を肩に掛け、足元を伸びるレールの先をちらと一瞥した大成は、程無くして顔を前に戻した。
昼下りのホームは然して混み合っておらず、暑苦しい空気とは無縁である。比率として目立つのはやはり制服姿の学生達であろうか。紺のブレザーを着た男女が駅舎内に散って、銘々に幾つかのグループを作っていた。
大成もまた四五人の男子生徒らと共に、ホームの一角で取り留めの無い雑談に興じていたのであった。
ホームの屋根から覗く澄んだ空へ、底抜けに陽気な笑い声が吸い込まれて行く。馴染みの友人達との話題に昇るのはいつもと同じ、流行りのテレビ番組や動画などの至極他愛も無い題材である。片手で肩に吊るした通学鞄を時折持ち直しながら、大成は気が置けない悪友達と談笑を続けたのだった。
そうしてどれだけの間、仲間と無邪気に笑い合っていたのだろうか。
大成の耳に、ふと別の声が届いた。
仲間達と作る輪の中から首を巡らせてみれば、傍らで女子生徒の一団が同じく雑談に興じている最中であった。そして、彼女達の輪の中に佇む一人の声に、大成は俄に意識を引かれたのであった。
ホームの横手で踏切警報機が鳴り始めた。
どうやら電車が近付いているらしい。
周囲と比べても特に目立つ所も無い一人の少女へ、いつしか大成は眼差しを据えていた。
何か声や仕草を遣した訳ではなかったが、向こうの方でも彼の視線に気付いたらしく、同じ通学鞄を抱えた制服姿の少女は、ややあって大成の方へとやおら顔を向けたのであった。
一瞬どきりとした大成の向かいで、少女も同様に驚いたような表情を覗かせる。
その刹那、両者の横合いを特急車両が風を巻き上げて通り過ぎた。
見つめ合う二人の髪が大きく揺れた。
「えっ? 嘘、俺そんな事言ったっけ?」
今度は街中の人込みを歩きながら、大成は驚いた声を上げた。
「言ったよぉー。もぉー、そうやってすぐ忘れるんだから」
彼の隣で南海子が頬を膨らませる。共に制服姿の二人は、人で溢れ返る目抜き通りを並んで歩いていた。
歳末が近い所為か、路肩に並ぶ店舗はいつも以上に煌びやかに輝き、街路樹にも電飾が施されている。冬の寒さもそこを歩く人いきれを完全に覆い尽くす事は叶わぬようで、商店沿いを歩く人々の間には賑やかな熱気が満ち満ちていた。
人波に揉まれるままに揃って道を進みながら、大成は苦笑を浮かべる。
「御免御免。やっぱ南海ちゃんにゃ敵わないよなぁ。末恐ろしいっつーか何つーか」
「何言ってんの。大ちゃんが単に大雑把過ぎなだけでしょ。そんなんじゃ、あたしこそ今から色々心配になっちゃうよ」
そう切り返すと、南海子は明るい笑顔を満面に湛えたのであった。
寄り添う相手の朗らかな様子を瞳に収める内、大成もまた次第に表情を緩めて行った。
そうだ。
そうだった。
こんな風に一緒に笑っていられれば、それでいい。
それだけでいいんだ。
ただそれだけで……
そんな想いが漠然と意識を過ぎった直後、大成は目を覚ました。
頬や額に雨粒の当たる感覚が伝わって来る。痛みに近い疼きすら感じる程の激しさである。
どうやら、地面に仰向けに寝かされていたらしい。周囲を慌ただしく駆け回る足音が、体全体を通して伝わって来た。
「目を開けた! 目を開けたぞ!」
傍らで片膝を付いた、灰色の都市迷彩服を着た男が大声を上げた。
小さく呻いた後、大成は上体を起こした。
途端、胸の奥深くから不快感が急激に込み上げ、彼は堪らず吐瀉物を撒き散らしたのであった。まるで内臓ごと吐き出してしまいそうな激しい嘔吐の末、大成は肩を揺らして息を継ぐ。口の中に土の臭いが蟠り、泥水のざらついた感触が舌の上に残った。
そんな彼の下へ迷彩服姿の屈強そうな男達が集まり、何事かを話し合い始めた。
大成は、黙って額を押さえた。
依然として荒れ狂う雨と風、そして河の轟きが未だ靄の晴れぬ意識を乱暴に搔き乱す。辺りを大まかに見回してみれば、闇の中にうねる濁流が横手に認められ、ここが土手の一角であるらしい事は察せられた。
そして、その土手の上を複数の人影が往来を繰り返し、荒れ狂う河へ輝度の強いライトを当てては河川の様子を窺っていた。
「二班より本部。こちらの救助者は意識を取り戻した。状況の確認を急ぐと共に引き続き周囲の……」
大成の横で腰を上げた迷彩服姿の男が、インカムへ向け何やら報告している。
一体何をしているのだろう。
一体何が起きたというのだろう。
相手の様子をぼんやりと見上げていた大成の下に、その時、別の人影が足早に近付いて来た。
「この馬鹿!」
言うなり、大成の下に駆け寄った大前田が、未だ事態を呑み込めていない青年の頭を乱暴に小突いた。
「もうちょっとで死ぬ所だった! 心肺停止まで行ってたんだぞ、この野郎!」
闇の中でもそれと判る程に血相を変えて喚く大前田を見上げ、大成はまるで他人事のように訊ねる。
「……何で、こんな所に来てんです?」
「『何で』じゃねえよ、ボケ! お前が『外』へ出たのが判ったからに決まってんだろうが!」
大成と同じく頭からずぶ濡れになった大前田が、吹き荒ぶ風の間に怒声を差し挟む。
「駐車場から車を出しゃ記録が残んだよ、阿呆垂れ! 街中のカメラにもばっちり映り込んで、軍の方から『施設』に問い合わせがあったんだ! こんな嵐の中、一台だけ車を走らせるなんてどう考えてもおかしいからなぁ! 後は軍と一緒に雨ん中を鬼ごっこだ! 何やらかしてんだ、おめえ!?」
「それは……」
些か億劫そうに答えようとした所で、漸くにして大成は事態の推移に気付いたのであった。水に呑まれる寸前までの記憶が、潮が寄せるように意識の表にありありと這い上がって来る。
間髪を入れず目を見張るなり、青年は傍らの同僚へと食い付くように訊ねた。
「……そうだ! 他の、他の人達はどうなったんですか!?」
「『他の』って、河川敷にいた『遊牧民』の連中か? 残念だが跡形もねえよ。見付かったのはお前一人だ」
答えて、大前田は苦々しい面持ちを河の方へ向けた。
深まり行く闇の中で氾濫した河は尚も勢いを衰えさせておらず、轟々としたうねりを土手の上にも伝えて来る。最早居直ったようですらある奔流へ、大前田は険しい眼差しを据える。
「俺らが到着した時にゃ、もう他に誰もいなかった。ロープに繋がれたまま岸辺近くを漂ってるお前の姿があっただけだ」
「そんな……それじゃ南海、いや、近くには他に誰も見付からなかったって言うんですか?」
「ああ。監視カメラの映像を辿って、お前がこの辺りにいるだろうってのは早くに察しが付いたんだがな。着いた時にはもう、岸は勿論、河ん中にも誰の姿も見当たらなかった」
頭上から遣された回答に、大成は顔を歪ませた。
「……誰の、姿も……一人も……?」
それきり、青年は何の言葉も継げなくなってしまった。横殴りの雨は容赦無く背中を打ち据え、吹き荒ぶ風が耳の奥で渦を巻く。精一杯、人一人に出来る精一杯の努力を、肌に触れるあらゆるものは認めようとしなかったのであろうか。
がっくりと肩を落とし、次第に項垂れ行く青年を見下ろして、大前田は非難するでもなくただ悲しげな表情を覗かせた。
「……やっぱり、『外』の奴らに惑わされてたのか」
「……そんなんじゃないっすよ……」
土手の一角に力無く座り込んだまま、大成は揺らいだ声を漏らした。
そんな彼の周囲を、灰色の迷彩服を着た男達が行き来する。荒れ狂う河川を見張る彼らも、その中から新たに何かを発見する事は出来ぬようであった。
大成は暗い足元だけを見つめて、ぽつぽつと言葉を紡いで行く。
「……ただ、ただ『夢』を見てたんです。『夢』を追っ掛けてたんですよ、割と真剣に。それがそんなにいけない事なんですか? たったそれっぽっちの事が……」
膨らみ切った風船から徐々に空気が漏れ出て行くように、次第に声を震わせながら胸の内を吐露する青年へ、その横に佇む壮年の男は悲愴ですらある眼差しを遣した。
「……『人』に『夢』と書いて『儚い』って読むんだぞ」
「いいじゃないですか、それでも! そんなもんでも追っ掛けてられなくなったら、生きてる意味なんかありませんよ!」
項垂れたままそう叫んだ後、大成は肩を震わせたのだった。
大前田もそれ以上は何も言わず、今も轟々と吠え猛る河の方へと体を向けた。
万象は何一つとして留まる事無く、ひたぶるに流れ行く。
その流れは時に穏やかに、時に猛々しく。
或る時は聖母のように優しく、また或る時は鬼女のように残酷に。
そうした相貌の欠片一つ一つが敷き詰められて形作られた『もの』こそ、『そこ』に根差した者達が『世界』と呼ぶものの素顔であった。
今はただ、森羅万象はその始原と終焉に覗かせるような荒削りの荒々しさを『彼ら』に見せ付けたのであった。
遍き『生』も『死』も、『世界』を彩る一片にして一瞬の煌めきに過ぎない。
一つの事実を、紛いようも無い真実を厳しく教え込ませるかの如くに。
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