そして、大成は『個室』の中へと入った。
点検以外の目的で、実際に『ここ』へ踏み込むのは初めての経験となる。かてて加えて、定めし最後の体験ともなるのだろう。
全く不思議なもんだ、と大成は自らの置かれた状況を擽ったそうに顧みた。
以前は何のかんのと理由を付けては『個室』へ入る事を避けて来た癖に、今では図々しくも自ら進んで『眠り』に就こうとしている。変節と言う程大袈裟なものでもないが、自分を取り巻く環境の変化が意思決定にこうも影響を与えた事実は、我が事ながら奇妙な展開ではある。
全くの他人事のように評しつつ、大成は細長い『個室』に身を横たえたのであった。
壁や天井から溢れる蒼白い光が、否が応でも目に入って来る。『個室』内で暗闇を照らす唯一の光が、これであった。
まるで常世の光だな、と彼は思った。
そうしてふと、大成は仰向けの姿勢のまま首を左へ巡らせた。
左手の壁の向こうに、南海子の眠る『個室』がある。この区画に眠る多くの人々と同じく、いつか外から目覚めを促されるその時を待って、『彼女』は眠り続けるのである。
むしろ異端なのは俺の方か、と大成は一人静かに鼻息をついた。
地上では今頃、『活動期』に入った人々によって復興作業が本格的に開始されている筈である。そうした世の流れに逆らって、人気の薄れた『施設』の奥底でこっそり『眠り』に就くという選択には些かの後ろめたさすら感じる。
実際の所、これは単なる逃避に過ぎないのではないだろうか。
体裁ぶった言い訳を並べ立てて自分は何もせず、誰に傷付けられる事も無い最低の生き方を選んでいるだけなのではないのか。
大成は壁を見つめたまま口元を固く結んだ。
然るに一方で、このまま『彼女』を自分達の『日常』から切り離し、『社会』の向こう側へ追い遣ってしまう選択が正しいとも彼には思えなかったのだった。
結局、あの少女に保護者となるべき身寄りは遂に見付からなかった。完全に独りである『彼女』の処遇を巡って大成がその後見人となる事に名乗りを上げても、何処からも異論は差し挟まれなかったのである。そして今、保護責任の一環として共に永い『眠り』に就こうとする中で、青年は郷愁にも通ずる感慨を抱いていたのであった。
いつの日か『彼女』が目覚めたその時に、誰かが傍にいて支えとなってやらねばならぬ。
隔てられた壁の向こうへ、大成は緩やかに手を伸ばした。
無論、それが言う程簡単でない事は十二分に承知している。
若しかしたら、望んだ通りの『その日』が訪れる事は決して無いのかも知れない。
互いにこのまま、二度と目覚める事は無いのかも知れない。
世界の再建がいつ果たされるのかすら定かでない以上、何らかの事故や手違いに巻き込まれてしまう恐れも出て来るかも知れない。
人の抱いた『希望』はいつも、風に吹き散らされる綿毛のようにいとも容易く状況に押し流されては雲散霧消を繰り返して来た。
それでも行く手に微かな光が覗くのなら、そちらへと向けて歩み続ける事しかこちらには出来ぬのである。『生』と『死』の狭間で一瞬の間隙に現れる『夢』を追い求めようとするのが、即ち『人』という生き物であるやも知れなかった。
我々は『夢』によって形作られる織物のようなもの。その儚い『命』は『眠り』によって完結する。
遠い昔に聞いた歌劇の一節を思い出した辺りで、大成は次第に眠気に囚われて行った。
機器は問題無く作動しているらしい。
『墓守』であった一人の青年は緊張に襲われる事も無く、ゆっくりと瞼を下ろして行く。『過去』が途切れる事を嫌って『眠り』を避けて来た彼は今、『未来』を繋ぐ為に『眠り』に就こうとしていた。
遥かな時に望みを託し、大成は瞳を閉ざした。
そうして『彼』もまた『彼女』と共に、深い『眠り』の中へと意識を沈めて行ったのだった。
《年休九ヶ月 了》
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